第二章 弁当屋の主人と娘①(一日目)
窯の中から芳ばしい香りがしてきたので、そろそろいいようだ。火かき棒を手にしたグレイスは、窯の中に入れ込んだ。
ごそごそとしばらく同じことを繰り返していると、かちりと何かに引っかかる音がした。
一気に引っ張り出すと中から出てきたのは、鉄板に載っているパンだった。
「エレン、焼けたぞ」
「こっちも出来たわよ、父さん」
顔を出したエレンが元気よく返した。
グレイスもにこりと笑った。笑うことなんて軍にいる時は無かったことだが、娘と一緒に暮らすようになってから、時折見せるようになった。人とはこんなに変われるものなのだ。
不思議なものだった。
「本当に別人のようだな。俺といる時はそんな顔を一度も見せなかったくせに」
聞き覚えのある声がしたので後ろを振り返ると、ゴルドーが立っていた。
「ここは厨房だ。勝手に入って来るな」
「いいじゃねえか。俺とおっさんの仲だろう」
「黙れ。来るのなら、甲冑を脱いで清潔な衣服に着替えてこい」
「相変わらずうるさ……いや、厳しいな」
「うるさい」と言おうとしたら、にらまれたので慌てて厳しいに言い直した。
「いつ遠征から帰って来た?」
「ついさっきだよ。ロウマに報告しないといけないけど、そっちはイメールに任せておいたよ。おっさんに久し振りに会いたかったしな」
「気持ち悪い奴だ。私は別に、お前に会いたくなかったよ」
「父さん、そんな憎まれ口を叩かないの。毎日、ゴルドーさんの事を心配していたじゃないの」
エレンがグレイスとゴルドーの間に割って入った。
それを知ったゴルドーは笑ったが、グレイスは逆に黙り込んでしまった。
その背中を見ながらゴルドーは本当にグレイスが変わったと感じた。だが、これでよかったのだ。この男は変わらなければいけなかった。
グレイスは反乱軍鎮圧の後、すぐに引退した。それは突然のことだった。
引退の理由は一身上の都合ということで、本人は何も語らずに軍から立ち去った。
ロウマは知っているはずだが、誰にも何も語っていない。
グレイスは気が付くと、娘のエレンと一緒に首都のダラストの一角で弁当屋を経営し始めていた。
「たまには顔を見せてくれよ。シャニスもキールも心配してたぜ」
「あいつらはお前と違って、去った者を振り返る性格ではない。きっと私のことなんて忘れている」
「そんなことないぜ。きっとあいつらも……」
「軍に戻ったらあいつらに話しかけてみろ。私の話ではなく、仕事のことを切りだすはずだ」
グレイスはどうやら、もう軍にいた時のことを思い出したくないようである。
彼が笑うようになったのは嬉しい事だが、軍のことを忘れようとしているのはある意味悲しい話だった。
ぽん、と何かを投げられたのでゴルドーは上手にキャッチしてみせた。
出来立てのパンだった。
受け取ったゴルドーは出来立ての熱さに、取り落としそうになった。
「何しやがるんだ、火傷したらどうするんだ!」
「くれてやったのに暴言とはひどいな。昼飯はまだだろう?それでも食って精をつけろ」
「もうちょっと優しく渡せないのかよ」
なんで弁当屋の人間がよりによって、こんな無愛想な親父なのだろう。もっと可愛い子とかいないのだろうか。
こんな低俗で、最低、ゴミみたいな店でも、せめて看板娘とかいたら、素晴らしいことだろう。
心中で嘆いているその時だった。
「はい、どうぞ」
横からスープのカップが差し出された。
エレンだった。
そうだった。彼女がいたのである。自分はなんで今まで気付かなかったのだろうか。馬鹿ではないだろうか。
もちろん、頭が悪いという意味ではない。鈍いという意味である。
「初めて挑戦した味で自信が無いのですけど」
「いいよ、いいよエレンちゃん。君のものならなんでも飲み食いしてやるよ」
カップを受け取ったゴルドーは、一口グビリ。
なんという美味。冗談ではなかった。宮中のスープなんかよりも美味いではないか。素人がここまでの味を出せるのに、プロである宮中の料理人達は何をしているのだろうか。
怠慢ではないのか。今度文句を言ってやらねばならない。




