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第八章


 冬の空は高く、青く澄み切っていた。身を切るような寒さは和らぎ、ぬるい日差しが日だまりを作る。

 美弥はじっと庭に立っていた。

 この日のために父が作らせた着物は京友禅の上等な品だ。白地に薄紅色のぼかし。桜の花吹雪の間を蝶が飛び交っている。春を思わせる艶やかな装いにもかかわらず、美弥は内心白けていた。

(馬鹿みたい……)

 髙原邸の一室で行われた見合いに、退屈していたのだ。

 お決まりの挨拶にお決まりの切り返し。孝幸と神谷少尉の父君は政治談義に花を咲かせ、今日の日のために使用人達が腕によりをかけて作った御馳走を等閑につつく。

(かんざし、ずれてないかしら……?)

 退屈を顔には出さず、美弥はどうでもいいことばかりを気にしていた。先程から頭に刺しているかんざしが気になって仕方ない。適当に刺したのがいけなかった。舞妓さんがつけるような花かんざしが目の端をちらちらちらついて鬱陶しい。鏡を見ようにも美弥は愛想笑いを浮かべることで忙しい身だ。我慢しなくては。

「美弥、少尉にお庭を案内しておやり」

「へ、あっ……は、はい、お父様」

 不意を突かれて返事がおかしくなってしまった。美弥はするりと立ち上がり、笑顔を作る。

「少尉、こちらへどうぞ」

 青年少尉はなぜか顔を赤らめながらも美弥に付き従った。

 からりと障子を開ければすぐに庭が現れる。縁側には気を利かせた使用人がすでに膝をついており、二人分の履物を用意していた。美弥は桜色の草履を、少尉はぴかぴかに磨き上げられた革靴を履いて、髙原邸の庭に出た。

「この庭は庭師の伊助が世話をしておりますの」

 松の木、梅の木、桜の木。池にはこれまたお決まりのように鯉が泳いでおり、石灯籠や茶室も見える。

「立派なお庭ですね」

「ええ。亡くなった祖母が生家の大名屋敷を庭を模して造らせたんです」

「そうなんですか。いやぁ、うちの庭とは趣が違うもので……。ほら、うちは英国から人を雇って英国風の庭を造らせたのでね」

「……左様でございますかぁ」

 悪い人ではない。悪い人ではないのだが、如何せん鼻持ちならない。孝匡と勝負した時には分からなかった神谷圭一郎という男の浅薄さが滲み出ているような気がした。

(華族の血がほしいだけなのね……)

 心の中で溜息をついた。

 神谷家はどうやら成金華族らしい。由緒正しい髙原子爵家や姉小路伯爵家とは一線を画した、元は庶民の出だ。お国への勲功とやらによって明治以降に爵位を得た神谷家にとって、生粋の華族である髙原の血は喉から手が出るほど欲しいものに違いない。

 あまりいい気はしないが、何もこの人と決めなくても良いのだ。嫌なら断ればいい。美弥はそういう立場にいる。こんな男などどうだっていい。父の手前、仕方なくこうして付き合ってやっているのだ。

「でしたらあちらに伊助と植えたチューリップがありますわ。ご覧になりますか?」

「是非とも」

 少尉は嘘くさい笑みを浮かべて答えた。

 美弥はしずしずと小さな架け橋を渡り、茶室の方へと向かう。茶室のそばに、美弥の花壇があるのだ。

「……花は、まだ早かったようですね」

 煉瓦で囲った簡素な花壇は、未だ茶色い土だけが鎮座していた。二人でしゃがみ込んで覗いても、蕾の一つも見当たらない。

 忘れていた。

 陽気はいいものの、今はまだ冬。花が咲くわけがない。

「……い、今はまだ花はないんですけど、春になれば綺麗に咲くんですのよ」

 間抜けなことをしてしまった。慌てて取り繕いながら、自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。

 日本庭園にはそぐわない、パンジーやチューリップ、百合の花などがそこにはある。美弥と伊助で育てている、大事な花だ。

「美弥さんも大変でしたね」

 突然神谷が話を始めた。

「大変……とは?」

「姉小路伯爵の御子息のことです」

「……少尉、あれは」

「いいんですよ、俺は。俺はそんなことは気にしません」

 良いわけをしようとする美弥を神谷が止めた。

「俺は、世間の風評などどうだっていいのです。そんなことでたじろぐような男ではありません」

 妙に自信を持って言うのがおかしかったが、それもこの人の気性なのだろう。

 美弥は知っていた。世間で美弥がなんと言われているか。

 婚約を破棄された可哀想な髙原子爵令嬢。

 捨てられ、余った華族令嬢。

 世間は男を悪くは言わない。権力の大きいものを悪くは言わない。悪く言われるのはいつでも女であり、身分が下の人間だ。

「神谷家は所詮成金と常に馬鹿にされていますからね!今更悪評の一つや二つ、増えたところで構いはしません」

 高笑いする圭一郎に美弥は唖然とした。

 もしかしたら近い将来、伴侶となるやもしれぬ女性に向かって悪評とは……!

(この人、悪気もなくそういうことを言うのね……)

 阿頼耶とは大違いだ。

 阿頼耶はいつだって人の気持ちを思いやってくれる人だった。美弥の気持ち、孝匡の気持ちを酌み取って話をしてくれた。

 ……が、それも今ではもう昔の話だ。

「……有難うございます。圭一郎様」

 美弥はこっそり溜息をつきながらも神谷に礼を言った。こんな娘でも彼はもらってくれるという意志を見せているのだから、それぐらいは礼儀のうちだ。

「いいんですよ、礼なんて。……あ、そうだ美弥さん、ご存知でしたか?」

 どこか嫌な笑みを浮かべて神谷は言った。よく見れば狐にそっくりだ。

「え?」

 突然の質問に美弥は答えられなかった。

「ああ、やっぱり」

 薄い唇をニヤニヤとつり上げながら、神谷は続ける。

「今日がどういう日か、ご存知ではないようだ」

「今日? 今日がどうかしましたの?」

 心がざわつく。

 この男の薄気味悪いにやつきが美弥の精神を一層揺さぶった。圭一郎はただ黙ってニヤニヤ笑い続けるだけだ。

「教えてください! 一体今日に何があるのですか? この美弥にはっきり仰ってください!」

 痺れを切らした美弥が神谷に迫った。掴んだ神谷の二の腕は逞しく、美弥の細腕が揺さぶろうともびくともしない。しかし美弥も引き下がるつもりはない。美弥は万力のようにぎちぎちと神谷の腕を握りしめた。

「いい、痛い痛い! 美弥さ、ちょ、放してくだ……さいっ!」

 振り払った美弥の手を慰めることもなく、圭一郎は舌打ちをした。

「全く……とんだ跳ねっ返りだぜ……」

 ぼそりと零す圭一郎に美弥は鋭い睨みをきかせた。もう我慢の限界だ。

「言いなさい! 神谷の坊っちゃん! でないと今度は腕一本じゃあ済まさないわ!」

「わわ、分かりました、分かりましたよ! 言います! 言いますってば!!」

 これがこれからの帝國陸軍を担う若者なのか。情けない。いっそ美弥自身が入隊しようかと思うほど情けない。

「いいですか? 驚かないでくださいよ?」

 いらつく美弥の神経を更に苛立たせるように勿体振りながら、圭一郎は言った。

「今日、姉小路阿頼耶氏が渡仏なさるそうです」

「………………え?」

 す、と血の気が引いた。

 圭一郎の口角がより一層上に上がる。

 彼の言葉が分からない。

 ――渡仏?

 ――誰が?

 ――なぜ?

「仏蘭西に留学している学生に欠員が出たとかで、それで阿頼耶氏に白羽の矢が立ったそうですよ」

 神谷の細い目が糸のように細くなった。

「え、あ……あの…………ちょっと待って…………そんな、いきなり……」

 仏蘭西とは何処ぞ?

 混乱して頭の中に世界地図を広げてしまった。

「ふ、仏蘭西なんてそんな……船で何日かかるやら……。ど、うして阿頼耶様がそんなところに……?」

 祭でよく見る狐面のような顔をして神谷は答えた。

「俺の友人で帝大にいるのがおります。彼の言うには、阿頼耶氏は仏蘭西語も堪能で、彼の西洋文化についての研究は教授達の間でも一目置かれていると。だからこそ国からも金銭的支援がある官費留学生として向こうに渡るそうですよ」

「そんな……」

 地面が急に頼りなく思えた。

 美弥は仏蘭西など知らない。それこそ阿頼耶が見せてくれた本や写真でしか分からない。遠く異国の地。言葉も風習も違う、異国に阿頼耶は行ってしまう。もしかしたら帰ってこられないかも知れない。

 行きの船が難破したらどうしよう。

 仏蘭西で病気になったら……?

 お水が合わなくてお腹を壊したら?

 阿頼耶に限ってそんなことはないだろうが、もしも成績不振でお国からお金が送られなくなったら……?姉小路家の支援もなかったら……?

 帰りの船だって無事に着くかなんて保証もない。

「全く、やんごとなき身分の方々が考えている事なんて分かりませんね。美弥さんとの縁談も断ったくせに、今度は一之瀬家の縁談も断って仏蘭西へ行くだなんて。そんなに学問がお好きなら学問と結婚なさればいいんですよ。ね、美弥さん」

「…………やだ……」

 美弥の耳にはもう、圭一郎の言葉など届いてはいなかった。

「いやだ…………っ」

 絞り出したような声。

 美弥は気づいてしまった。

 次から次へと溢れ出るこの涙の訳に。

 胸に湧き上がるこの感情の意味に。

 気づいてしまった。

 見てしまった。

 聞いてしまった。

 感じてしまった。

 気づかぬように、見ぬように、聞かぬように、感じぬようにと鍵をかけてしまっておいたものに、今、触れてしまった。

「ちょ、美弥さん!?」

 気づけば美弥は走り出していた。

 今日袖を通したばかりの振袖のまま。桜色の草履のまま。庭を駆け抜ける。途中で父の声がしたような気もしたが、もう聞こえない。もう見えない。

 美弥に聞こえ、見えているものはただ一つ。

 煉瓦敷きの大通りから少し外れた寂しい小径。そこの繁みから入れば分かる。百合の導き、白百合の標。

 「澪標工房」

 そこに行けばいい。

 そこに行かなければいけない。

 そこに行きたい。

 美弥はかんざしが落ちるのも気に留めず、晴れ着に小枝が傷をつけるのも厭わず、裾をはだけさせながら森に入る。

 まだ日が高いはずなのに、この森は暗い。

 いつもは木漏れ日が差し込む程度だったはずなのに、まるで夜のように暗い。暗がりに慣れた目だけを頼りに、それでも美弥は進む。

 雑草が腰の高さにまで迫ってきた頃、ふと気づいた。

「……百合の香りがしない…………?」

 噎せ返るほどの芳香を放っていた百合が、一輪も咲いていない。

 季節ではない、の一言では済まない。

 百合そのものが植わっていないのだ。

「なんで……どうして!?」

 草をかきわけても、百合の葉は見つからない。刈り取った跡もない。それどころか、開けた場所すらない。鳥の声もしない。誰も分け入ったことのない、未開の森。あの洋館の気配すらない。

 しかし美弥はこんなことで諦めるわけにはいかない。滲む涙を乱暴に擦り、草を分けて美弥は歩いた。

 どれくらい歩いただろう。

 かすかに開けた場所がある。わずかながらの光も見えた。美弥は速度を速め、光の滲む方へと向かった。

「なんで…………」

 そこで愕然とした。

 断崖絶壁とはまさにこのことだ。からりと崩れた小石の音で下を向けば、下を流々と流れる細い川。細く見えるのは美弥が立っている位置があまりにも高いからだ。

「そんな……」

 絶望。

 一縷の望みをかけていたものが、今、断たれた。美弥はそこが崖の淵にもかかわらずへたりこんだ。

 森は人を拒むように暗く閉じ、美弥に工房への道を示していた百合の花たちは消えた。名も知らぬ鳥の鳴き声は鴉の声に変わった。洋館への道はなく、あの慇懃無礼な店主にすれ違うこともない。言い様のない無力感。致し方のない悲愴感に、美弥は下を向いた。

「お願いよ……!」

 それでも振り絞るに叫んだ。

 これしかない。

 これしか残っていない。

 たった一つ、たった一つの可能性だけが、美弥を支えている。

 握りしめた冷たい手に温かな涙がこぼれ落ちた。

「私……まだ本当の望みを叶えてなんかなかったの……。だからお願い! 私の望みを叶えて……!」

 森中に響かんばかりの声で叫んだ。

「…………」

 しかし返ってくるのは谺ばかり。森に光が満ちることも、百合の香りが漂うこともない。

「……馬鹿みたい」

 自分は何を期待していたのだろうか。

 野分の言う、魔法のような展開を。御都合主義のお約束を。美弥はそれでも期待していたのだ。

 野分は自分を魔法使いだと言った。

 美弥は魔法の魔法らしい展開を、活躍を希望としていたのに。それも叶わない。

「あるわけないじゃない……そんなこと」

 不思議なことは体験した。だからそんな夢みたいなことを思ってしまったのだ。美弥の全身を脱力感が襲う。

「このままここで……」

 そうだ。

 いっそこのまま、ここで朽ちてしまえばいい。枯れ葉に埋もれ、共に土に還るのも悪くない。崖から飛び降りて、川に流れていくのもいい。そうすれば美弥の体は海に流れていけるだろうか。どちらでもいい。望みが叶わなければ、生きている甲斐もないのだから丁度いい。

 美弥はふらりと立ち上がり、一歩、また一歩と崖の方へと歩み出した。

 あと三歩。

 二歩。

 一歩。

 そして地面がなくなった。




 「…………え?」

 美弥は崖から落ちた。

 重力のまま、引力に従って。

 けれども美弥の体は引き裂かれることもなく、水に流されることもなく、そこにある。

 否。

 浮いている。

 確かな落下の感覚と空気抵抗を感じたのに、美弥は今、静止している。それも中途半端なところ、何もない崖の中腹あたりで。シャボンの膜のようなものに包まれて。

「これ以上の人死には御免被りますよ」

 美弥の耳に確かに声が届いた。

 野分の声だ。

 けれども彼の姿はどこにも見えない。声もどこかくぐもっていて聴き取り辛い。

「どうして道を見失うんです? 貴女にはもう見えているはずなのに」

 声がそう言うと、美弥を包んでいるシャボンがふわりと浮き、崖の上へと戻される。ぱちん、と割れる軽い衝撃に目を瞑り、再び目を開ければ、そこは見慣れた洋館の入口。白い鉄砲百合が指し示す、あの洋館。

 細い鉄の黒い門、砂糖菓子のような白い飛び石、真鍮製の妖精のドアノッカー。

 美弥は震える足を奮い立たせ、立ち上がる。

 根雪の残る森の奥は底冷えがするほど寒い。とさり、モミの葉から落ちる雪。どこかで落とした右足の草履。破れた着物。崩れた帯。激痛の走る右足を引きずりながらも、美弥は洋館の扉を開けた。

「貴女という人は……」

 森よりも更に暗い洋館の中、たった一つの洋燈の灯りだけが野分と美弥を照らしていた。野分は不機嫌さを隠すことなく、溜息混じりに零した。

「もう此処には来ないと宣言したにもかかわらず叶えたい望みがあると言って聞かない。挙げ句の果てには崖から身を投げようだなんて」

 ぱきん、

 鳴らした指に促され、部屋中の灯りがついた。

「命を捨てて、貴女は代わりに何を得ようというのですか?」

 赤々と燃える暖炉の火。儚く揺らめく洋燈の火。弾けた薪の音に紛れ、美弥は秘かに息を飲む。

「ただ捨てるだけなんて勿体ない。馬鹿のすることですよ、美弥嬢。貴女はそんなに愚かな人間でしたか?」

 早口に捲し立て、野分は青い瞳で美弥を見た。

 ――怒っている。

 野分が尋常でない怒りを露わにしているにもかかわらず、美弥はそれが怖いとも思わない。ただの事実、ただの事象として、野分が怒っているとだけ感じた。

「望みが叶わなければ、生きてたって意味ないわ」

 美弥は虚ろに答えた。

 虚ろな声、虚ろな瞳、虚ろな心。

 野分は猫のように目を細め、じ、と美弥を眺めた。

「……貴女には、望みがある」

 こくりと頷く。

「……それを叶えるために、無茶をしてでも此処に来た」

 頷く。

「その望みは、何を犠牲にしてでも叶えたい、貴女の本当の望みなんですね?」

「…………」

 頷けなかった。

 何を犠牲にしても。

 美弥は何を犠牲にしようとした?

 今頃髙原邸は大騒動になっているだろう。見合いを放り出してどこかへ飛び出してしまった美弥を神谷男爵は激しく糾弾しているだろう。誇り高き父は成金男爵相手に頭を下げているだろうか。孝匡はそのとばっちりを食らってはいないだろうか。手広く商売をしている多惠子の家は、神谷家を取引先にしていたかも知れない。死んだ母は、祖母は、美弥をどう思うだろうか。美弥は髙原家の、髙原子爵家の令嬢なのに。髙原の家のために生きてきた美弥が、今、家を捨てようとしている。

 美弥は、多くの人を犠牲に、望みを叶えようとしている。

 震えが走った。

「わ……私、なんて……」

 何と恐ろしいことを考えていたのか。

 今にも崩れそうな体をきつく抱き、美弥は蹲った。

 カツ、

 床に涙を落とす美弥の前に、いつの間にか野分が立っていた。いつもと同じ編み上げブーツは黒く、新品のように磨かれている。

「お可哀想に」

 黒革の手袋をした指が美弥の顎を持ち上げる。蹲る美弥に跪いた野分。泣き崩れた姫を迎えに来た王子のような、御伽噺めいた倒錯を覚えた。

「何かを犠牲にしなければ、その手には何も掴めないと知りながらもその犠牲を拒む。聡明だからこそ、壊れやすい。硝子細工のような貴女の心を、貴女自身がよく分かっているはずだ」

 海より深い青い瞳が、美弥をじっと見つめる。瞬きもすることなく。それを美弥はじっと見返す。瞬きを交えながら。瞬かせる度に溢れる涙の粒が手に、床に、野分の靴に落ちる。

「だからこそ、貴女には聞こえるはずです。心の叫びが」

 心臓が跳ねた。

「貴女には見えているはずです。本当の望みが」

 口が渇く。

 野分の声が、耳に、鼓膜に、脳髄に響く。

 耳小骨を叩くその低い声に、美弥は自然と唇を震わせた。

「恐れることなどありません。貴女は間違ってなどいないのだから」

「まちがって……ない…………?」

 差し出された免罪符は甘く、そして残酷。

「間違ってなど、いません」

 柔らかく笑う野分。

 間違ってなどいない。

 それはこれから行うことが許されないことだと裏付けする言い訳にしか聞こえない。

 けれども美弥は思う。

 これは言い訳ではない、と。

「う…………ああぁぁぁぁ…………」

 言い訳ならば、こんなにも心が軽くなるはずがない。

 美弥の心を縛り付けていた鎖が、一つずつ音を立てて壊れていく。

 温かい涙が頬を濡らしていく。

(私……望んでもいいんだわ……)

 涙で滲む視界の向こうに、美弥は阿頼耶を見た。

 いつものように気弱で、困ったように笑う阿頼耶。

 その笑顔が美弥を許してくれる。

 顔を覆った手が、ゆっくりと離れていく。

 美弥は濡れた瞳で野分を見つめた。野分はいつになく優しく笑う。慈愛に満ちた笑顔で。それでいい、と全てを赦してくれる。そして野分が口を開いた。

「さあ、心の声を口に、貴女が望むものを手になさい」

 風が二人を包んだ。

「貴女の望みは、何ですか?」

「私の望みは……」

 胸の前できつく手を握り、美弥は答えた。

「私の望みは、阿頼耶様と共にあることです」

 カン、

 固い音を響かせ、金の秤が傾いた。そして美弥の手の中に、小さな箱が落ちてきた。




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