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第七章


 月明かりに照らされる道場の中、美弥はじっと目を閉じて座っていた。

 白の道着に紺の袴、愛用の木刀。

 夜の空にひらめく雪。

 蝋燭の火だけが揺らめく。

 冬の道場の寒さが美弥の精神を研ぎ澄ます。雪の夜の静けさも雑念を払うにはお誂え向きだ。

 美弥が「澪標工房」を最後に訪れてから何ヶ月も経った。あの頃青かった銀杏の葉は黄色く色づき、散っていった。

 今でもふと百合の香りを思い出すことはあるが、努めて行こうとは思わない。美弥には女学校で学ぶべきことが多くあり、こうして道場で心と体を鍛えることも必要だ。野分に着せかけた思わぬ濡れ衣を、同じように他の人に着せぬよう、美弥は自分を鍛えなければならない。

「美弥」

 父、孝幸の呼ぶ声に美弥はす、と目を開けた。珍しく軍服ではなく剣道着を着ている。紺の道着が夜闇に溶けて、孝幸の顔だけが浮かんでいるような妙な光景だ。

「お父様、稽古をつけてくださいませ」

 雲が割れ、再び場内を月明かりが満たす。美弥の白い道着に光が反射する。

 孝幸はおもむろに剣を構えた。

 胴着も篭手も面も何もない。木刀とはいえ真剣勝負だ。

「……いつでも来なさい」

 真っ直ぐに構えた孝幸の木刀が美弥の挑戦を待っている。美弥は静かに木刀を手にした。

 切っ先が震える。

 父と剣を交えるのは何年ぶりだろうか。

 激務に追われる孝幸が美弥や孝匡の相手をするのは非常に稀なことだ。けれども二人の姉弟は一度も父に勝ったことがない。

 美弥は呼吸を整える。孝幸よりも少し低めに構えた剣は微動だにしない。

「はぁっ!」

 刹那。

 美弥が孝幸の剣を跳ね上げ、一気に懐へと迫る。

 勝負は一瞬だ。

「…………参りました」

 美弥が頭を下げると同時に、木刀が手から落ちた。美弥の右手が痺れている。

「強くなったな、美弥」

 孝幸が嘆息混じりに呟いた。

「迷わず懐へ飛び込んでくるとは……」

 孝幸は思う。

 もしも美弥が男ならば、喩え双子とはいえ孝匡ではなく美弥に家督を継がせただろう、と。争わせることもなく、孝幸は決めただろう。孝匡にはない度胸が美弥にはある。

 しかし美弥は、女だ。

 女には女の幸せを追い求める自由と義務がある。男にはできないことをする資格がある。

 だからこそ、美弥を嫁に出さねばならない。

「迷いは、ないんだな?」

 孝幸は最後に問う。

 美弥の心は、男親ながらも分かっているつもりだ。美弥が、阿頼耶に惹かれていたことなど、百も承知だった。だからこそ孝幸は、美弥の心を踏みにじった姉小路伯爵を許しはしないし、それに反発すらできなかったであろう弱い阿頼耶を責めていた。

「この美弥に迷いなどありません」

 美弥の強い目が、孝幸を射貫く。

 夜の暗がりの中でもはっきり解る。一分の隙もなく、揺れもなく。美弥は孝幸を見た。

「……分かった」

 揺るぎない美弥の決心に、孝幸も覚悟を決めた。

「来週の日曜、予定を空けておきなさい」

 孝幸の言葉に、美弥は返す。

「……お相手は?」

「神谷少尉だ。お前も知っているだろう?」

 神谷少尉。

 以前髙原邸の道場に稽古に来たことのある人だ。

「確か孝匡と一本勝負して勝った方だわ」

 剣道場なのになぜかフェンシングの構えをして、孝匡が相当困り果てて負けてしまった相手だ。

「そうだ。彼は神谷男爵家の総領息子だ。相手にとって不足はないだろう」

 本音をいえば、子爵家である髙原家よりも格上、もしくは同等の相手に嫁がせたかったのだが、そう我が儘も言えない。美弥は実際はどうであれ、体面上は「破談」になった娘なのだから。

 美弥もそのあたりは弁えている。この時代の女として生まれたのだから、自分が思うがままに生きられない。父や跡継ぎの孝匡の生きやすいよう取り計らう「道具」たる自分の役割を果たすことこそ、美弥が生きる理由になる。朧気な記憶の中の神谷少尉を頭に描き、美弥は黙って頷いた。

「明後日には新しい着物と洋服が仕立て上がるよう手配してある。それのどちらかを着て行くようにしなさい」

 孝幸はそう告げると一人、道場をあとにした。

 美弥はまた、静寂に満ちる道場で目を閉じた。

 神谷少尉。

 確か孝匡よりも背の高い人だった。細身だがしっかりとした筋肉がついていて、いかにも軍人らしい体つき。細面でなよっとした阿頼耶とは大違いだ。

「……阿頼耶様」

 美弥の言葉は口の中で雪のようにふわりと溶けた。

 もう叶わない美弥の恋は、この雪と共に溶けてしまう。溶けて、水になり、春の小川に流れていく。

 一筋の涙が溢れた。

「お嫁になんて……行きたくないわ……!」

 美弥は手ぬぐいを噛みしめて泣いた。

 声が外に漏れぬよう、道場に響かぬよう、ぐぅっと固く噛みしめて。嗚咽の一片たりとも外へは出さない。ただぽろぽろと大粒の涙が溢れるだけで。

 はらり、雪が降り込んだ。

 美弥の所まで届いた雪は、白い体をじわりと溶かして消えた。

 ――あの店主はどうしているのだろう。

 ふと野分のことを思い出した。

 百合の花に囲まれた森の小さな洋館。彼処で一人、編み物でもしていそうだ。あの店に暖炉はあっただろうか。きっとあった。美弥の記憶にないだけで。暖かな火と、ぱちぱち爆ぜる薪の音。オルゴールでもかけながら、ロッキングチェアに腰掛ける野分が目に浮かぶようだ。

 だが、美弥はもう行かない。

 あの店には行かない。

 あのメルヒェンはきっと何事にも通じる寓話に違いないと美弥は思っている。

「命を得るために命を払う……」

 父親と息子の話を、美弥は思い出す。

「私は阿頼耶様の心を知るために、阿頼耶様の心がこもったリボンを支払った……」

 魔法のことが何だか少し、分かったような気がする。

「天秤は釣り合ってないといけない……てことね」

 頭によぎるのは、あの不思議な金の秤。

 あれは真実と偽りを見分ける道具だったが、きっと魔法の原則はあれと同じだ。釣り合っていることが重要なのだろう。

「……だったら私には余計に必要ないわ」

 美弥は阿頼耶を諦めた。

 もう美弥と阿頼耶の間には何もない。天秤に乗せるべきものもない。藍色のリボンすらない。ないない尽くしなのだ。

「…………よし!」

 ぱん、と両手で頬を叩いた。

 泣き腫らした目は冬の空気ですでに乾いている。

 美弥は前に進む。

 そう決めたのだ。

「お見合いと言ったらやっぱり着物よね!」

 どんな着物を仕立てたのか、美弥は全く知らない。朴訥とした見かけによらず、孝幸は服飾に関しては口五月蠅いのだ。粋なものだろうが流行のものだろうが、美弥に似合うもの以外は用意しない。

「良い帯締め、探さなくっちゃ」

 持ち前の切り替えのよさを発揮し、七日後までの予定を組み立てながら美弥は道場をあとにした。




 冬の森に雪は深々と降り積もる。

 暖炉に火をくべ、毛糸を編む。

 野分に暖を取る必要はないのだが、いつ何時客が来ても怪しまれないよう、精一杯人間のふりをしている。それだけだ。モチーフで編んだ膝掛けをして、鼻歌を歌いながら老婆のようにロッキングチェアで編み物をする。だが服装はいつもと同じ、薄い白のシャツと黒のスラックスに編み上げブーツ。春夏秋冬四季折々の服装などせず、年中無休で馭者のような格好をしている。

「できた」

 満足げに編んでいた作品を広げる。細いモヘアで編んだショールだ。

「今も降りしきる粉雪のようにふわっとした仕上がりになったな。うん。これがいい」

 独り言を呟きながら、野分は編み目が揃っているかどうか隈無くチェックする。

 ……納得のいく仕上がりだ。

 野分はワルツのステップを踏みながらショウ・ウィンドウの方へと向かう。飾られているのは今日もいつもと同じ、白のドレス。無機質なマネキンの肩に、野分はそっとショールを掛けた。

「やっと編み上がったよ、ベアトリーチェ。今まで寒い思いをさせてごめんね?」

 仕上げにブローチでショールを留めると、野分はほぅ、と溜息をついた。うっとりとした顔で、じっとマネキンを見つめている。

「やっぱりブローチは鈴蘭にして正解だったな。うん」

 銀だけで作られた鈴蘭のブローチがドレスの美しさを損なうことなく飾られた。野分が手ずから彫った逸品だ。

 ブローチだけではない。あのドレスも、野分がゼロから作ったと言っても過言ではないのだ。絹糸を紡ぎ、一枚の布にすることから始めた。ただ一人、ベアトリーチェという女性を思い描いて。リボンの一本、レースの模様、あらゆるものを野分は作った。

「鈴蘭の花言葉は『幸福の再来』……」

 たった一着の白いドレスのために、野分は人形の生を手に入れてからの人生全てをかけてきた。選りすぐりの糸、自ら織った布、リボンもレースも装飾品も、全て野分が作ったのだ。いずれ訪れる「幸福の再来」のために。

「だから早く来てよ、ベアトリーチェ」

 野分は待っている。

 死んだベアトリーチェが店に来ることを。

 野分は信じている。

 ベアトリーチェが生まれ変わっていると。

 野分は祈っている。

 彼女が野分を見つけてくれることを。

 野分は確信している。

 自分が彼女を見間違えることなどないと。

 野分は夢見ている。

 ベアトリーチェがあのドレスを着ることを。

 あれはベアトリーチェのための服なのだから。

「君が来てくれるまで、僕は死なずに生きているから」

 雪降る夜空に野分は祈る。

 どうかどうかベアトリーチェを僕の元へ遣わしてください。と。




 夜に人は夢を見る。

 賑わう街中、煉瓦敷き。

 追われる男に追う男。

 肺腑から込み上げるような錆の味。

 眩暈がしそうな眩しさ。

 けれども其処に色はない。

 開く距離に瞠目しつつも足を速めて追いかける。

 ひらりと舞う着物の袖。

 ふわりと薫る香の匂い。

 日差しの中で輝くのは鳶色の髪。

 灰色の世界に現れた色を持った人。

 手渡す時に触れるわずかな皮膚の感触。

 ふるりと震えたのを、彼の人は気付いただろうか……。


 朝に人は夢から覚める。

「あの人は覚えていないだろうな……」

 現実のような感触を夢は残し、今日も現実がやってくる。


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