第五章
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昔、昔、ある国のある森の奥。
魔法使いの男とその息子が暮らしていました。
男は魔法の知識と知恵を頼りに薬草を煎じ、時に病に倒れた人を助け、時に天候を読み、またある時には人形を作り、それを繰り……。男は人々のために生きていました。男は村のものたちに「森の賢者」と呼ばれ、生きていたのです。
息子は父を敬愛し、父の手伝いを良くしていました。薬草を摘み、病の家では湯を沸かし、日照りの年や大雨の年には祈りを欠かしません。父が作った人形に服を着せ、人形を繰る時には歌を歌い、笛を吹き、ヴァイオリンを弾きました。息子も村の人々に「賢者の子」として愛されて育ちました。
ある日のことです。
村に住む一人の少女が、息子を訪ねて森へやってきました。少女は息子の大切な大切な友達です。二人はよく森と村とを行き来しては遊んでいました。今日は少女が息子を訪ねる番です。
「待ってたよ! さあ、今日は何をして遊ぼうか?」
息子は少女の手を取って笑いました。とてもとても嬉しそうに。少女も息子の手を握り、二人でくるくると回りはじめました。
「二人なら何だって楽しいわ」
少女は無邪気に笑います。
「それじゃあ私の手伝いをしてくれるかな?」
父親が言いました。
「森で薬草を摘んできてほしいんだ。この籠一杯摘んできておくれ」
二人は元気よく頷きました。
父親の仕事を手伝うのは苦ではありません。森には楽しいことがいっぱいなのですから。二人しか知らない木の実の在処、小鳥の歌う木々の群れ。この森にしか咲かない花で花冠を作るのも、薬草摘みのついでの楽しみです。父親から籠をもらい、二人は仲良く森へと行きました。
「暗くなる前に戻っておいでよ」
父親の呼びかけも遠く、二人はどんどん森の中へと入っていきます。
二人は歌を歌いながら森を行きます。小鳥やリスのオーケストラ。相の手は踏み分ける草の音。
やがて二人は森で一番大きなモミの木に辿り着きました。
「ねぇ、競争をしましょう」
少女は息子に言いました。
「どっちがたくさんの薬草を採れるか競争よ。このモミの木を中心に、西側を私、東側をあなたが行くの」
「分かったよ。じゃあ、あのオオカミが太陽を食べちゃう頃を終わりにしよう」
息子は西の方を指して言いました。
そちらにはオオカミによく似たギザギザの山の端があるのです。日がそこまでなら、暗くなる前に少女を村へと帰せます。
二人はそれぞれ籠を携えて東と西へ別れました。
息子は東へ、少女は西へ。
息子は薬草摘みなど少女よりも手慣れています。次から次へと摘んでは籠に入れていきました。時折、少女のために綺麗な花を摘んでみたり、父親との食事のために木の実やキノコを採ったりもしました。
一方少女はなかなか薬草を見つけられませんでした。
それもそのはず。西側には薬草よりも木の実がたくさんあるのですから。少女は困り果ててしまいましたが、言い出しっぺは彼女です。今更どうにもできません。紅色のほっぺたを少し膨らませながら、少女は仕方なく薬草の代わりに木の実をたくさん籠に入れました。
日はすぐに傾きだし、とうとうオオカミの口元にさしかかってきました。少女も息子も大急ぎでモミの木の元へと走ります。とても間に合いそうにもないので、ちょっと近道をして獣道を走りました。ふたり共がです。背の高い草が邪魔をしますが、息子も少女も必死でかきわけていきます。
やっとモミの木の頭が見えてきました。足を速め、繁みから一気に飛び出します。
――悲劇は起こりました。
息子は痛みと熱さで倒れました。目の前には同じように少女が倒れています。
何が起こったのか、息子には分かりませんでした。ただお腹がじくじくと痛み、広がるばかりです。痛くて、熱くて、苦しい。けれども息子は少女に手を伸ばします。少女はぴくりともしないのですから。
「こっちだ! さあ、何が獲れたか?」
誰かがこっちに来ます。足音がだんだん近づいてきます。
「鹿か? ウサギか? それとも熊か?」
繁みをかきわけて来たのは二人の狩人でした。
「お、おい! お前、何を撃ったんだ!?」
太った方が痩せた方に叫びました。
「何を慌ててるんだ? そんな大物が……」
痩せた方は言葉を失いました。
血塗れの子供が二人倒れていれば、誰だって言葉をなくします。二人の狩人は動かない少女と同じくらい真っ青になりました。
息子は二人に手を伸ばしました。
助けて。
その一言が言えません。
口から溢れるのは言葉ではなく血の泡だけです。必死に手を伸ばしても二人には届きません。
二人の狩人は走って逃げてしまいました。モミの木のそばに、息子と少女だけが残されました。
「ねぇ……起きてよ……」
息子は少女に言いました。
「起きて、お父さんに治してもらうんだ……。ねぇ、起きて?」
息子は少女の元へと這っていきます。小さな手で少女の頬に触れました。温かく、柔らかかった少女の頬は、なぜか氷のように冷たくなっていきます。息子はぽろぽろ泣き始めました。
「待ってて。僕が助けてあげるから……」
息子は立たない足を無理矢理立たせ、動かない少女を背負いました。人形のようになった少女は重くて、冷たくて、悲しくて仕方ありません。
息子の腹からは絶え間なく血が流れ落ちます。何度も何度も咳き込んでは血を吐き出します。それでも息子は家路を辿ります。お父さんなら何とかしてくれる。その一心で息子は家へと向かいました。
やっと家に着いた時にはもう日も暮れた頃でした。すぐに父親が息子へ駆け寄りました。帰りの遅い息子達を心配した父親が外で待っていたのです。
「おとうさん……たすけて……」
それだけ言うと、息子はけふりと血を吐いて目を閉じました。背中に背負った少女が、濁った青い瞳を開いています。
父親は叫びながら息子と少女を抱えて家に入りました。すでに事切れていた少女を長椅子に、まだ温かい息子をテーブルに寝かせます。息子の血はもう体に残っておらず、か細い息ももう紡がれません。
父親は嘆き悲しみました。愛しい息子が訳の分からぬまま死んでしまったのですから。
白くなってしまった息子の顔を一撫でし、父親は決意しました。
息子を生き返らせよう。
父親にはそれだけの知識と知恵があります。すぐに父親は遠くに住むたった一人の弟子に伝書鳩を出しました。
魔法の呪文を口にして、父親は息子の魂を捕まえました。放っておいては天に昇ってしまいます。そうすればもう息子は生き返りません。小さな魂を父親は鳥籠に入れました。鳥籠には魔法がかけられていますので、魂が天に召されることはありません。
そして冷たくなった小さな息子が腐らぬよう、息子を地下の氷室へと入れました。
「可哀想に、坊や。お父さんが助けてあげるから」
紙のように白い額にキスをして、父親は戻りました。それから家中の本を漁り、息子を助ける手がかりを探しました。植物の本も、鉱石の本も、呪文の本も魔法薬の本も全部全部です。目を丸くして、瞬きもせずに父親はページをめくり、がりがりと難しい言葉を書き連ねました。
やがて夜になり、月が満ちる頃に魔法使いの弟子がやってきました。弟子は変わり果てた息子と少女を見て嘆き悲しみました。二人ともよく遊んだ相手だからです。弟子は死んだ少女を村にいる親の所へ届け、お悔やみ申し上げました。息子が死んだことも伝えました。両親の嘆きは聞くに堪えません。すぐに弟子は踵を返し、森へと帰ります。
帰ってきた弟子に父親は言いました。
「息子を剥製にしてくれないか?」
弟子は最初は断りましたが、師匠の嘆きようにとうとう折れてしまいました。
弟子は丹精込めて息子を剥製にしました。内臓を抜き、脳みそを取り除き、腐る部分は全て根こそぎ魔法で取り出します。そうすると傷痕が目立たず、綺麗な剥製になるからです。難しい魔法ですが、弟子は魔法の剥製作りの名人です。見る見るうちに息子の死体は剥製となりました。けれども抜き取った内臓達を捨てるのはしのびなく、弟子は硝子の箱にそれらを入れ、腐らないよう薬を調合しました。最後に硝子で作った義眼を入れて完成です。
「お師匠、それでは私はこれで」
弟子は父親に一声かけて帰りました。これ以上悲しみに暮れる彼を見ていられなかったのです。そっと涙を流し、弟子は森の家をあとにしました。
そのあと父親は、弟子が丁寧にしまってくれた息子の心臓と脳みそに魔法をかけました。大切な大切な魔法です。
他にもたくさんの魔法をかけた父親はとても疲れてしまいました。けれども休んでいる暇はありません。父親はまたたくさんの本を調べ、呪文を唱えたり薬を作ったりしました。何度も日が昇り、幾度も日が沈み、季節も花から雪の降る頃になっても父親は諦めません。何が何でも息子を生き返らせたい。あの時「助けて」と言った息子を助けたい。その一心でした。
ある時、父親は旅に出ました。ここにあるだけの知識では息子を生き返らせることができない、そう気づいたのです。可哀想な息子の剥製を人形と偽って、魂の入った鳥籠には魔法の布をかけました。その布をかければ鳥籠の中には鳥が入っているようにしか見えません。同じように内臓と脳みその入った硝子箱にも布をかけます。これで準備ができました。
家にある本の知識は全て頭の中に入れて、着の身着のまま父親は旅に出ました。国境を越え、大陸を横切り、海を渡りました。隣の国の魔法を学び、大陸の術を身につけ、海の向こうの国で自分だけの魔法を作り上げました。
その海の向こうの見知らぬ国で、父親はとうとう息子を生き返らせるための魔法をかけることを決心しました。そこは懐かしい故郷のあの森の家にとてもよく似ています。生き返らせるならここがいい。
故郷の粘土で作った体、大陸の絹の道で手に入れた滑らかな布で作った皮膚、そしてこの国で作った硝子の瞳。これが新しい息子の体です。人形を作るのが得意な父親が精一杯作った息子の体です。
空がにわかに暗くなり、雷が鳴り始めました。
さあ、魔法をかける時間です。
父親は新しい息子の体と息子の剥製を並べます。その間に魔法をかけた心臓と脳みそを胸と頭の位置に置きました。そして呪文を唱えます。窓からはひっきりなしに稲光が差し込みます。激しい雨も降ってきました。けれども呪文は止みません。そして最後の仕上げと言わんばかりに父親は叫びました。
「神様、どうか息子を生き返らせて下さい!」
ガラガラガラッ――!
大きな雷が落ちました。近くに落ちたようです。父親はその衝撃で床に倒れてしまいました。
家の中はしんとして、降りしきる雨の音だけが響いています。
するとどうでしょう。
かしゃん、と小さな音が響いたのです。
かしゃん、からん……かちゃん。
音はだんだん増えていきます。
からん、かたん、がたっ、かしゃん……。
音が止みました。
だんっ!
……と、とと、とん。
すると今度は何かを叩くような音がします。
と、とた、と、とと、た。たん。
「…………おとうさん?」
その声は息子のものでした。
なんということでしょう。死んだ息子が生き返ったのです。
息子は人形の体を必死に立たせ、倒れたままの父親の元へと急ぎました。
「おとうさん……ぼく、どうなったの?」
まだ慣れない体は息子の思うとおりには動きません。ぎこちなく、操り人形のような動きで父親に触れました。息子は驚きました。息子の新しい体は父親のぬくもりを感じることができなかったのです。伸び放題になった父親の髭の感触も、やせこけた頬の角張も、何も感じられないのです。
「おとうさん……おとうさん……」
息子は何度も何度も父親の名前を呼びました。けれども父親はぴくりともしません。
「おとうさん……おとうさん……」
息子は慣れない手つきで父親を揺さぶりました。けれども父親は目を開けたまま、瞬きもしません。
「おとうさん……! おとうさぁん……!」
息子は叫びました。けれども息子の目からは涙が流れません。息子の体はもう涙を流すことのできない体なのですから。それでも息子は懸命に父親の名前を叫びます。流れない涙は息子の声に痛々しい悲しみを上乗せするだけでした。
三回目の朝が来る頃に、やっと息子は悟りました。
父親が、自分の命と引き替えに息子を生き返らせたのだ、ということを。
息子はすっかり固くなった父親の亡骸を抱えて言いました。
「おとうさん……ひとりにしないで……」
息子は嘆きました。
大切な少女も、父親もいない世の中で、一体どうやって生きていったらいいのだろう。息子の体はもう人間のものではなく人形の体なのに。父親が教えてくれなければ何もできないのに。少女がいなければ生きていく甲斐もないのに。
息子は泣きました。
わんわん泣きました。
けれども一筋の涙も流れないのです。悲しみは外の世界へ出ることはなく、息子の体の中で、心の中でどんどん溜まるだけでした。
その後、息子がどうなったのか、誰も知りません。これは昔、昔の話なのですから。