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第四章



 授業の始まる前の教室は色めき立つ女子の声でざわついていた。

「ねえ、お聞きになって?」

「ええ、あの話のことですわよね?」

「本当なのかしら……?」

「でもそんなことって……」

 がらり、

 美弥が扉を開けた瞬間、時が止まったかのようにシン、と静まりかえった。訳の分からない美弥は、大きな瞳をぱちくりさせるしかない。

「ねぇ美弥さん!」

 級友の一人――それほど親しくはない――が瞳を潤ませながら迫ってきた。あまりの迫力は美弥がつい後ずさりしてしまうくらいだった。

「な、何かしら?」

 精一杯の笑顔を貼り付け、それはそれは素晴らしい、所謂「淑女」たる優雅な笑いを引きつらせた。そんな美弥の必死さに気づくこともなく女生徒は尋ねてきた。

「姉小路様とのご縁談がなくなったって本当ですの!?」

「はい?」

 それを皮切りにクラス中の視線、否、女生徒達が美弥の回りに群がってきた。

「どうしてですの!?」

「美弥さんと姉小路様って仲睦まじかったわよね?」

「どちらから!? どちらからお断りに!?」

「え? ちょ、お待ちになって!そんな一度に……」

 矢継ぎ早に浴びせられる質問にたじろぐ美弥の前に、あとから登校してきた多惠子が立ちはだかった。

「ちょっと皆さん! そんないっぺんに尋ねられたら美弥さんが何も言えなくなってよ!?」

 小柄な多惠子に庇われる長身の美弥、という何ともアンバランスな光景に、クラス中がぽかんとしてしまった。当の本人である多惠子はやってやった、という達成感で鼻息を荒くしている。

「そ、うよね。多惠子さんの言うとおりだわ」

「順番、順番にお聞きしましょ?」

 美弥を圧迫していた少女達は少し距離を開け、きょるんと上目遣いで美弥を見上げた。

「あの、私からいいかしら?」

 お下げの可愛い同級生、小梅がおずおずと手を挙げた。

「え、ええ、どうぞ」

 質問者を指すなど、何だか自分が酷く偉い人のような気になる。それでも美弥はこれから責め立てられる人間だ。どこから嗅ぎつけたのか知らないが、噂好きの女学生達に何を言われることやら……。美弥はぎゅっと目を閉じて蹲りたくなったが、精一杯の虚勢で小梅の質問を笑顔で待った。

「ど……どうして姉小路様とのお話がご破算になったのかしら? だってお二人ともすごくお似合いで……なのに……」

 勇気を出して尋ねたのだろう。顔を真っ赤にして小梅は俯いてしまった。ただでさえ聞き辛いことを最初に尋ねに来た小梅。可哀想に、震えてしまっている。美弥は自分が好奇の的になっていることすら忘れ、小梅に同情すらしてしまった。

(頑張れ、私……!)

 秘かにぎゅっと拳を握り、美弥は腹に力を入れて答えた。

「私の方からお断りしましたの」

「え?」

 その答えに女学生達はどよめきだった。

 ――え? どういうことかしら?

 ――美弥さんが?

 ――姉小路様から申し出があったという噂は嘘なのね?

 ――本当かしら?

「ぅおっほん!」

 わざとらしい多惠子の咳払いで再び教室内は静かになった。美弥は多惠子に目配せで礼をし、続けた。

「阿頼耶様の方にも私の方にも別の縁談が持ち上がってしまいましたものですから、お互いの家のためを思い、お断りいたしましたのよ。ですから皆さんもどうぞお気になさらずにね」

 ふわりと美弥は柔らかく笑った。

 完璧だ。

 言い訳を昨日の夜から考えていた御陰だ。

 美弥の笑顔に、誰ももう何も言えなくなった。それ以上の追求を諦めたのだ。ああまでさっぱりと、はっきりと認められてしまっては、どうしようもない。

 しかも「家」が理由の破談。

 いくら噂好きの女学生とはいえ、彼女たちは弁えている。

 「家」の事情に立ち入ってはいけない。

 それは良家の子女たるものの不文律だ。たとえどんなに仲の良い多惠子でさえ、美弥と阿頼耶の問題に口を挟む筋合いなど毛ほどもない。

 ――嘘は吐いていない。

 事実、阿頼耶には一之瀬家からの縁談がある。美弥だって阿頼耶との婚約が決まる前は引く手数多だったのだ。今だって父が東奔西走してより良い相手を探している最中なのだから。自信を持てばいい。自分の言動に。

 美弥は笑顔を貼り付けたまま、自分の席へと歩いていく。まるで花道を歩く役者のように、しゃんと背を伸ばして。

 泣いてはいけない。

 緩みそうになる涙腺が痛む。けれども美弥はぐっと耐える。頬の内側を血が出るほどに噛みしめ。

 泣く必要などない。

 だって私にはあの言葉があるから――。

 阿頼耶が美弥に、孝匡に化けていた美弥に言った言葉だけが今の美弥を支えていた。

 美弥が聞きたかった阿頼耶の心。

「僕は一生涯、美弥さんだけを愛しているよ」

 それこそが真実。

 それこそが誠。

 いつも自信が無く、悲観的な阿頼耶が放った、いつもと違う強い声。

 それだけが今、崩れそうな美弥を何とか美弥たらしめている。

 震え、頽れそうな足を引きずりながら美弥は席に着いた。それと同時に女教師ががらりと戸を開けた。




 「……多惠子さん? 私達、どうしてこんな所にいるのかしら?」

 学校帰り、美弥は突如多惠子に拉致……もとい連れ去られ……否、無理矢理引っ張られてあるところへ来た。

「どうしてって……フルーツパーラーってお茶する以外に何かするところなの?」

 しれっと答えた多惠子はギャルソンを呼び止め、さっさとプリン・ア・ラ・モードを二つ頼んだ。

「た、多惠子さん」

「大丈夫よ。今日は私のおごりだから。心配しないで」

「そうじゃないけど……!」

「いいの。美弥さんは何も言わずに私にプリン・ア・ラ・モードをおごられればいいの」

 びしっ、人差し指を眉間に突き付けられた。計らずとも寄り目になるが、多惠子の真剣な顔は見えた。

 多惠子は多惠子なりに美弥を励まそうとしているのだ。

 美弥と多惠子は無二の親友だ。美弥も多惠子には阿頼耶とのことを何かと話していたが、今回の破談は寝耳に水だった。

「さ、いただきましょ」

 運ばれてきたプリン・ア・ラ・モード。色とりどりのフルーツが飾られている。苺、メロン、バナナに白い生クリーム。柄の長い銀のスプーンを嬉々としてかまえる多惠子に倣うが、美弥はじっと目の前のプリン・ア・ラ・モードを見つめるだけだった。

「ん~、美味しい!」

 多惠子が蕩けそうな笑顔を浮かべた。美弥はそれをただじぃ、とうかがっている。

 これから何かを聞かれるのではないか?

(こ……これは餌付け!? 餌付けなの!?)

 目の前の御馳走が急に毒皿に見えてきた。

 そんな少し気まずい空気を一人で醸し出していた。

「私、何も聞かないからね」

「へっ!?」

 突如、多惠子がそう言った。多惠子の右手は機械的にプリン・ア・ラ・モードをつついている。

「だって美弥さんが話さないから。それだけの事情があるってコトでしょ?だったら私が聞くのって野暮じゃない」

「多惠子さん……」

「あ、だからって聞きたくない訳じゃないのよ? むしろすっごく前のめりになって聞きたいくらい!」

 生クリームのついたままの銀の匙を加えたまま多惠子が前のめりになってきた。

「けど、美弥さんが決めたことなら私、いいの。口出ししない」

 すとん、と座り、小さく溜息をついた。

「それに、今日その服に焚いたお香、いつも美弥さんがここ一番で焚くお香でしょ? その香りを嗅いじゃうと、ああもう私には何もできないなーって……」

「っ、気づいていたの……?」

 恥ずかしくなって美弥は下を向いた。

 確かに今日着物に焚きしめた香は美弥のとっておきの伽羅の香。

 美弥の一番好きで、阿頼耶も気に入ってくれていた香。

 それをいつ焚くか、多惠子は聞かずとも知っていてくれたのだ。

「だからどうしようもなくなったら、もうホントどうしようもなくなったらでいいから、その時は私を頼ってね」

 多惠子が笑った。

 朗らかな、日だまりのように温かい笑顔だ。

 多惠子の心遣いが熱い湯のように流れ込んでくる。

(多恵ちゃん……!)

 一生にこんな友に出逢えることがあるだろうか。

 美弥は多惠子に感謝した。

「有難う、多惠ちゃん」

 つい幼い頃の呼び方が溢れた。学校では規則として下の名前にさん付けで呼んでいるが、今は、今だけは素直に言えた。

 ぱん、手を合わせ、美弥はやっとプリン・ア・ラ・モードに手をつけた。すでに多惠子は半分以上も食していたが。小さな銀のスプーンがふるりと揺れる淡い黄色のプリンを掬う。口に入れればふわりと広がる上品な甘み。じんわりと胸に広がるのは多惠子の温かな優しさ。

「美味しいわ」

 この日初めて、美弥は笑った。

 自然な笑顔。作り笑いの淑女の笑みではなく、年相応の少女の笑顔。

 つられて多惠子も笑った。

「みぃちゃん、やっと笑った!」

 二人で顔を見合わせて笑った。穏やかな日差しがレースのカーテンを透過してくる。濃紺の袴、矢絣の中袖、藍と桃色のリボン。きらめく日の光が少女達を照らす。束の間の幸せが口の中の甘みと共に広がっていった。




 夕暮れの小径を美弥と多惠子は歩いていく。日はすでに傾きかけ、西から東へ朱色と濃紺のグラデーションが織りなされていく。遠くの大通りから聞こえる喧噪はもはや他人事のように響くだけ。他愛のないお喋り、笑い声。二人の頬が夕陽色に染まる。

「美弥!」

 自分を呼ぶ声に美弥と多惠子が振り返った。

「孝匡」

 学生服に身を包んだ孝匡が駆けてきた。追いついた途端に身を屈め、ぜぇぜぇ息を切らせていた。

「た、多惠子さんも……こんにちは……」

 肩で息をしながらも挨拶は欠かさない。つられて多惠子もこんにちは、と頭を下げた。

「どうしたの?そんなに急いで……」

 ただ二人の姿を見ただけならこんなに走って来なくてもいいのに。

「こ、れ……これ見てよ……」

 孝匡が一枚の紙を美弥に手渡した。

「何コレ?」

 広げてみると、それは新聞の号外だった。見出しは『東城男爵家令嬢、発見』とある。

「……これがどうしたの?」

「大川の兄上の婚約者だ。見つかったんだよ……死体で」

 美弥と多惠子は息を飲んだ。

 大川は孝匡の同級生の名だ。何度か髙原家に遊びに来ていたので美弥も知っている。その兄も陸軍に仕官しているので何も知らない仲ではない。亡くなった令嬢も、どこかで会っているかも知れない。

「わ……私、この人知ってる……」

 多惠子が青ざめた顔で呟いた。カタカタと震えながら、多惠子は続けた。

「うちのお店に……持病のお薬を買いに来てたわ……。喘息の……」

 ぽろり、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「み、店番してた私に……話しかけてくれて…………結婚するって……」

 堪えきれずに多惠子が泣き出してしまった。美弥は震える多惠子の肩を抱き締め、優しく頭を撫でる他なかった。

「そ……その人に聞いたの。あのお店のこと……」

「え?」

 一瞬、時が止まった。

 涙に濡れた瞳で多惠子は美弥を見上げた。

「魔法のお店だって……姫百合の咲く森の……」

 耳を疑った。

 美弥の頭に浮かんだ瀟洒な洋館。種々の道具類に金の秤。寝癖だらけの慇懃な店主。

「――『澪標工房』……」

「っ、おい美弥!?」

 美弥は走り出していた。

 悲しみに暮れる多惠子を孝匡に渡し、美弥は走った。

 どこをどう走ればいいのか、知らない。けれども体が知っていた。小径を過ぎ、柵の崩れた繁みへと。

 そこまで行けばすぐに分かる。

 噎せ返るような百合の匂い。

 おいで、おいでと美弥を誘う香り。

 夢中で走ればすぐに見つかる。煉瓦造りの洋館。大きなショウ・ウィンドウに相変わらず飾られている白いドレス。大きな扉に取り付けられた妖精のノッカー。

 美弥は乱暴に扉を開けた。

「いるんでしょう!? 出てきなさいよ!」

 いつものように暗闇が出迎えると思い、腹の底から大声を出した。が、

「騒々しい嬢ちゃんだね。そんなにキンキン叫ばなくても聞こえてるよ」

 返ってきたのは野分ではなく、もっと嗄れた、老婆の声だった。

 常に暗闇に満たされている記憶しかない店の中は煌々と灯りが灯され、さまざまな道具類達が本来の輝きを見せつけていた。雑多な色と光の溢れる中、ただ一人モノクロの野分がいるはずの店に、美弥の見知らぬ老婆がいた。菫色のワンピースがよく似合う、白髪の女性。老婆などという失礼な呼称は似合わない。猫足の椅子に背筋をしゃんと伸ばして座る彼女は、言うなれば「淑女」だった。

「野分の客だね? アイツに何か用かい?」

 煙管の煙が蛇のように美弥にまとわりつく。探るように、疑うように、好奇の気配が美弥を取り巻いている。

 彼女の薄青い瞳に美弥は息苦しさを覚えた。

 高圧的で、有無を言わせぬ目だ。

 亡くなった祖母が美弥や孝匡を咎める時によくしていたあの目。

 その視線を浴びて真実を語らなかったことはない。その目はいつも隠されたものを射貫くのだ。正確に。過たず。

 無意識に唾を飲み込み、美弥は孝匡から奪った号外を見せた。

「わ……私はこれについて問いただしたいことがあるんです。店主は何処に?」

 彼女の瞳の色が、野分と関係者であることを美弥に教える。野分はもっと濃い、海のような青い瞳だが、目の前の淑女は空の青だ。こんな色の瞳は日本人のものではない。野分と同じ、異国の血が出す色だ。

 皺だらけの手が号外を取り上げた。ワンピースと同じ紫色の石の指輪がはめられている。仄青い目がすぅ、と細くなる。

「…………なるほどね。そりゃ野分のヤツを問いただしたくもなる。いいだろう、嬢ちゃん。ちょっと其処で待ってな」

 立ち上がった淑女の背は美弥より高く、より威圧的だった。店の扉を開け、更に奥、美弥の行ったことのない洋館の奥へと向かう。美弥はそれを見ることができない。固く閉ざされた扉が、美弥の侵入を拒む。滑るように進む淑女の足音が遠ざかっていくのを感じるだけ。美弥は人形だらけの店の中に一人、遺されてしまった。




 小さな部屋に野分は、いた。

 白い壁に明かり取りの小さな窓が一つ。夕刻の赤い日を差し込ませ、白い部屋を橙に染め上げる。

 簡素な作りの椅子、白銀の鳥籠、そして――……水晶の柩。

 椅子に力なく座る野分は天を仰いだまま微動だにしない。鳥籠の中には青く光る鳥がいる。

 ――否、鳥ではない。

 光が鳥の形をしているだけだ。青い光の鳥は止まり木に止まったまま、水晶の柩を眺めるばかりでさえずりもしない。

「野分」

 扉の外でブリジッタが呼ぶ。返事を待たず、彼女は扉を開けた。

「お客だよ」

 そう言い、ブリジッタは鳥籠へと向かう。椅子に座る野分に目もくれず。

 籠の扉を開け、光の鳥を指に乗せる。鳥はすぐに翼を広げ、椅子の野分へと飛び立った。

 す、

 鳥は野分の胸へと入った。

 野分の体が蒼白く光る。

 神秘的で、背徳的で、悲愴感漂う光。

 光が止み、音が消える。

 沈黙だけが部屋に立ちこめる。


 ――からん、


 乾いた音が響く。

「……客人はどなたですか?」

 野分が口を開いた。

 ごきり、首を鳴らし、目をくるくるとさせ、野分は立ち上がる。

「日本人の顔は皆同じに見えるからね。分からないが、随分と元気の良さそうな嬢ちゃんだよ。良い香の匂いをさせた」

「……嗚呼、美弥嬢ですか」

 手の指の一本一本、関節の一つ一つを確かめるように動かし、野分は呟く。

「今回も首尾良く終わったようですね」

「誰に口をきいてんだい? ほら、大丈夫ならさっさとお行き。客を待たせるもんじゃないよ」

 ブリジッタは無駄口を叩き出しそうな野分の背を押し、小部屋から出した。野分は何やら小言をぶつくさ言っているようだが、ブリジッタは構いはしない。

 野分の出て行った小部屋に一人、少しの間留まることにした。

 ブリジッタの目は自然と水晶の柩へと向かった。するりと近づき、跪いて覗く。

「……可哀想に」

 柩の中に誰がいるのか。ちょうど部屋に差し込んだ夕陽が反射し、顔が見えない。ブリジッタはただ優しく柩の蓋を撫でるだけだった。

 そして彼女はそれ以上何も言わず、小部屋を立ち去った。後ろ髪引かれる思いで扉を閉め、鍵をかけた。小部屋は夕陽の赤を映し、燃えているかのようだった。




 きぃ……

 軋んだ音が店に響いた。

「お待たせいたしました、美弥嬢。今日はどのような……」

「私が聞きたいのはこのことだけよ!」

 ひょろりと現れた野分に美弥はあの号外を突き付けた。

「これは珍しい。市井の号外など目にするのは久しぶり。……『東城男爵家令嬢、発見』……死体で……。これと私と何の関係が……?」

「とぼけないで!」

 美弥の手の中で号外がみしゃりと音を立てた。

「彼女、この店の客だったそうじゃない……!」

 野分の目が丸くなる。

「どうして知っているかって顔ね? 私の親友が教えてくれたの。彼女の薬屋で、お客だった男爵令嬢がこの店のことを話していたって!」

「………………そうですか」

 野分はふらふらと出鱈目な舞を舞うかのように入口からいつもの大きな机の元へと足を運ぶ。とす、と座り心地の良さそうな大きな椅子に身を埋め、深く、深く溜息をついた。

「確かに東城男爵令嬢――長いですね……佐代子嬢はこの店の顧客でした。確かにそうです」

 野分は胸で十字を切り、静かに祈りを捧げた。

 そして深い青の瞳に美弥を映して言った。

「そして美弥嬢。貴女は私に何を聞きに来たのですか?」

 わずかな感情の揺れすら伴わない、野分の瞳。異国の匂いのする青の瞳は、おそらく美弥がなぜ此処にいるのかを見透かしている。なのにあえて彼は聞く。美弥はなぜ、ここにいるのか、と。

 何度目かの唾を必死で飲み込み、美弥は野分に迫る。

「……ぁ…………」

 だが言葉が出ない。

 喉が渇き、張り付く。

 唇が震え、意味のない音を発するばかり。

 膝が笑う。背筋が凍る。

「貴女の言葉で言わなければいけません。さぁ、貴女は、私に、何を、聞きたいのですか?」

 野分の声が呪いのように美弥にまとわりつく。

 ぎゅっと目を閉じ、腹に力を入れる。

 息を大きく吸って、吐く。吸って、吐く。

 漸く落ちついた胸を掴み、美弥は尋ねた。

「貴方が、殺したの……?」

 黒曜石のような美弥の目に野分が映る。野分はただじっと手を組み、美弥を見つめ返すだけだった。

 そうしてどれだけの時が経ったのだろう。

 長い時間が経ったように思えるが、しかし実際は一分も経ってはいない。野分は相変わらず黙って美弥を見つめ、美弥は野分を睨んでいる。

「どうしてそんな物騒なことを思いつくんだい? え? 嬢ちゃん」

 いつの間にか扉の所に立っていた淑女、ブリジッタが口を挟んだ。

「コイツの弁護をするわけじゃあないけどね、人が人を疑うってこたぁ何かしらの根拠と事情があってそうするもんだ。違うかい? そいつを教えちゃあくれないかねぇ」

 歳を重ねた声は独特の掠れの中に深みを感じさせる。

 威圧感で逆らえないのではない。論理的にも、倫理的にも、何ら間違いのない公平さに、美弥は屈服せざるを得なかった。

「だ……だって、彼女はこの森で死んだのよ? この森に入る人なんてそうそういないし……」

「いないし?」

 ブリジッタが問いかける。

「ま……魔法の、実験に使われた……とか……」

 自分でも馬鹿なことを言っているという自覚がある。けれども一度疑いだしたら矢継ぎ早に、次から次へと疑いは芽吹く。

 美弥がお伽噺で読んだような奇っ怪で奇妙な魔術の一場面。恐ろしい生贄の儀式。そして、「とりかえばやの妙薬」を野分が渡した時の一言。


 「勿論副作用などは御座いません。きちんとした実験を行った上でのご提供で御座います」


 実験――。

 美弥の口にしたあの薬の実験台に、彼女はなったのか……?

 さまざまな想像が頭を交錯する。

 大鍋を掻き回す魔女はどこかブリジッタという老婦人に似ている。馭者のような野分の服も、魔術の儀式の衣装に見える。

 床が揺れる。

 頭が回る。

 どこかで笑い声が聞こえた気がする。

 ――男爵令嬢の命で精製された薬を、飲んだ……?

 そう思った瞬間、吐き気を催した。

 口を押さえ、美弥はその場に蹲ってしまった。

「……お可哀想に」

 野分は立ち上がり、美弥にハンカチを渡した。白いハンカチ。ピンク色の糸で薔薇が刺繍されている。

「貴女は魔術について何もご存じないからそのような想像をなさっただけ」

 そして野分はまたいつもの定位置に戻る。しかしあの椅子には座らない。椅子の後ろにある背の高い棚に梯子をかけた。棚の一番上の段。厚みも高さも違う本が入り乱れた其処から、一冊の本を抜き取った。

「野分……アンタまさか……」

「黙っていて下さい、ブリジッタ。私は私の身の潔白を示すだけなのですから」

 何かを言おうとしたブリジッタを遮り、野分は宮の元へと再び向かう。

「美弥嬢、魔術にもやって良いことといけないことがあります。人の命を使って何かをすることは、魔術の世界に置いても禁忌中の禁忌です。命を代償とすること、命を弄ぶこと。こと命に関しては禁忌だらけなのです」

 美弥に椅子を勧め、座らせる。其処は初めて美弥がこの店を訪れた時に座った場所だ。小さなテーブルの上には、いつの間にかあの日と同じカップで今日はココアが入れられていた。

「一つ、メルヒェンをお話しいたしましょう」

「……メルヒェン?」

「ええ、その通り。メルヒェン、つまり……言うなれば御伽噺のようなものです」

 野分は向かいに座り、本を開く。ブリジッタは呆れたように溜息をつき、少し離れた場所に椅子を持っていった。

「これは魔法使い達が幼い頃に学ぶ、最初の秩序。命にまつわる、一つのメルヒェン。退屈かも知れませんが、少しお付き合い下さい」

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