第三章
3
橋の欄干を今にも乗り出しそうな青年が一人。
姉小路阿頼耶だ。
鳶色の髪を風に遊ばせ、同じ鳶色の目は虚ろに川の流れを眺めるだけ。ふぅ、と溜息をつきながら、阿頼耶はだらりと欄干に実を預けた。
「そんなことしてると自殺志願者と間違えられますよ」
「……孝匡君……」
人の良さそうな笑みを浮かべ、孝匡に扮した美弥は阿頼耶に話しかけた。
野分の硝子玉のような青い瞳がじっと美弥を見つめている。暗闇に浮かぶその瞳だけが爛々と光り、妙に鮮やかだ。光に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらと、覚束ない足取りで美弥は野分の方へと向かう。どこをどう歩いていいのかはなぜか分かる。見えない足元を努めて見ることもなく、美弥はただ野分の方へと向かう。
「望みを……叶えてくれるのよね?」
譫言のように呟く美弥の言葉に、野分は黙って頷いた。
「私の望み……叶えてくれる?」
「……それは貴女次第で御座います」
さあ、と促すように、野分の唇が動く。
――貴女の望みは、何ですか?
美弥はぐ、と拳を握り、答えた。
「私、阿頼耶様の心が知りたいわ……!」
かたん、
野分の前で音がした。
「……その答えは、まあまあですね」
ぱちん、と野分が指を鳴らした。
一斉に部屋の蝋燭に火が灯った。雑多な店の中で、美弥と野分は大きな机を挟んで向き合っている。
「秤が釣り合いを保ちましたから。本音と建て前が同量、言霊に含まれているということです」
やはり何も乗っていない右皿が、分銅の乗った左皿と共にゆらゆらと動いている。
「まぁ、しかし。昨日よりは素直になれたということで、特別に」
後ろの棚から野分は一つの瓶をつまみ、机に置いた。青色の小さな瓶に、ピンクと白のギンガムチェックのリボンが結んである。
「これを差し上げましょう」
手に取ると、中には何やら液体が入っているようだった。首の所についた札には小さく「DRINK ME」と書かれている。
訝るように首を傾げれば、野分が口を開いた。
「それはいわば『とりかえばやの妙薬』です」
「とりかえばや? あの物語の?」
「ええ。男女の双子が互いの性を取り替えて生きることになった『とりかえばや物語』からその名を取りました」
「ということは……」
にこりと笑い、野分は続ける。
「はい。一口飲めば男は女に、女は男になる魔法の薬で御座います」
――そんなものが存在するのだろうか。
美弥は目の前にいる青年とこの小瓶の薬とを交互に見比べながら思った。
別に美弥は魔法を信じていないわけではない。まして信じているわけでもない。ただ、野分の言った「望みを叶える」という言葉だけが、美弥の心を虜にしていた。
「信じて貰わずとも構いません。私がお渡しした薬は必ず効きます。それを飲めば、約一刻の間、貴女は女性から男性に変わることができます。……嗚呼、勿論副作用などは御座いません。きちんとした実験を行った上でのご提供で御座います」
野分は相変わらず芝居がかった口調でつらつらと講釈をしている。
「けど、これを飲んだら阿頼耶様の心が分かるって言うの?」
「使い道は貴女次第で御座います。いつ、どのように、何のために使うかは、自由です。私はただの魔術師。それ以上でもそれ以下でも御座いません」
恭しく頭を下げられても困る。美弥は手のひらの中で沈黙を保ったままの小瓶をただじっと見つめた。
「……魔法使いってもっと呪文とか唱えて不思議なことをするものだと思ってたわ。……生贄とか……そういうのもいるのかと……」
素直な感想だった。
美弥の思う魔法使いとは、西洋の御伽噺に出てくるような、髭をたっぷり蓄えた老人や、意地の悪い魔女。杖を一振りすればどこからともなく御馳走が出てきたり、光の洪水が起こったりと、とても現実離れしたものを描いていた。恐ろしいものには祭壇に捧げられる供物、羊や幼子など、とても見るに堪えないものもあった。
ふと、これは阿頼耶が持っていた西洋文化の研究資料にあったものだったと思い出した。また少し、胸が苦しくなった。
くす、と野分が笑った。美弥の幼い考えなどとうの昔にお見通しだと言わんばかりに。
「嗚呼、これは失敬」
美弥の気分を害したと判断した野分は、笑いながらも謝った。笑いながら、という時点で失礼にも程があるが。
「そういう魔法使いも勿論居ります。ええ、それはもう。ですが私はそういった魔法よりも魔法の道具や薬を作ることに長けた魔法使い、私の国ではマイスター……職人と呼ばれていました。なのでお渡ししたような薬を調合することや魔法の力を高める道具、守りの道具などを作ることが多いのです」
野分は手慰みのようにベルベットのリボンを蝶結びにした。黒革の手袋をはめているとは思えないほどの速さと正確さ。あっという間に左右均等の超の羽が広げられる。それにふぅ、と息をかけると、まるで黒揚羽蝶のように飛んだ。ひら、ひらりと舞い、美弥の髪を結い上げている藍色のリボンの端に止まった。
「私の魔法らしい魔法はその程度です。蝋燭に火をつけたり、カーテンを開けたり、リボンを飛ばしたり」
美弥の周りをくるりと回りながら、野分は続ける。いつの間にかその左手には人形が抱かれていた。
「しかし私の作る魔法具や薬は別です。そんじょそこらの魔術師には負けません。絶対の自信があります」
ね、と野分は人形に同意を求めた。答えるはずのない人形が、なぜか優しく笑ったように見えた。
「そ、その人形も貴方が?」
もしかしたら他の人形も魔法がかかっていて動き出すのかも知れない。野分の手の中にいる女の子の人形のように。
す、と野分と人形が美弥を見据えた。
どきりとした。
その目は動揺と、驚愕と、一匙の悲しみが綯い交ぜになったような色だった。
「……ここにある人形達はすべて私の父が作りました」
「お、お父様が?」
野分と人形はすぐに美弥に背を向けた。そしてあらゆる棚の中や上に鎮座している人形達を順繰りに眺めている。
「とても優秀なマイスターでした。父の作る人形は、ひとたび繰れば生きているかのように動き、歌い踊る。少女の悲しみを癒し、少年に夢と希望を与え、大人達の心に感動の波を起こす、それはそれは素晴らしい人形達です」
父親の話をする野分が、なぜか寂しそうに見えた。しんしんと降り積もる雪の中、ただ一人立っている人のように、なぜか酷く孤独に見えた。
これ以上聞いてはいけない。
美弥の心がそう、訴えかける。
何か言わなくては。
その何かが思いつかない。
喉の中程まで出かかった言葉は、振り向いた野分の笑顔に押しつぶされ、ついぞ出ることはなかった。
「さあ、お行きなさい。どうぞその薬を賢く、上手にお使い下さいまし。一瓶、一回、一刻で御座いますよ」
野分の笑顔は能面のようだ。美弥は思う。張り付いているかのように不自然なまでの自然さで野分は笑う。その笑顔の前では誰も何も言えなくなる。見えない手に背中を押されるかのように、美弥は「澪標工房」をあとにせざるを得なかった。小さな瓶を握ったまま。
――そして現在に至る。
孝匡がいつも着ている学生服に身を包んだ美弥は、孝匡にしか見えない。長すぎる髪、足りなかった背丈や独特の低さを持った声はあの「とりかえばやの妙薬」とやらが解決してくれた。おかげで孝匡とは一高の先輩に当たる阿頼耶も、隣にいるのが美弥だとは気づかない。
「阿頼耶さん、元気ないですね」
なるべく自然に、孝匡が話すように言葉を選んだ。女言葉が出ないようにするのは少々骨が折れるが、仕方ない。孝匡が「どうなさいましたの?」などと言ったら……気持ち悪い。
「ああ……少しね……」
河川敷に腰を下ろし、二人は川の流れを見ていた。阿頼耶は傍にあった小石をつまみ上げ、流れに向かって投げた。力なく小石は川に向かい、とぷん、と情けない音を出しただけ。近くの岩で甲羅干しをしていた亀が、驚いたように首を出した。風に靡く鳶色の髪が五月蠅げに阿頼耶の顔を掠めていく。
「美弥に言ったことと関係ありますか?」
「え……」
孝匡の姿を借り、美弥は阿頼耶を問い詰める。
「美弥に言ったじゃないですか。『婚約を破棄する』って。それと阿頼耶さんの元気のなさ、関係してるんじゃないかって聞いてるんです」
自然と口調が硬く、尖っていく。不安げに揺れる髪と同じ鳶色の瞳には確実に美弥ではなく孝匡が映っている。
同じように黒い瞳と目をしているが、美弥と孝匡は違う。
双子とはいえ美弥と孝匡は違うのだ。
だからこそ阿頼耶は美弥に言えないことも孝匡になら言えるのではないのか?
美弥が聞けないことも、孝匡ならきっと聞ける。阿頼耶だって孝匡になら言えることがあるはずだ。
美弥はそう確信して、あの妙薬を飲んだ。
未だかつて味わったことのない苦さと、まるで自分が雑巾にでもなったかのような痛み。骨が砕け、体が破裂するかと思った。
どれほどの時間が経ったのか分からない。しかし、鏡に映った姿は紛うことなく孝匡の姿。
あまりの変わりように戸惑いながらも、一刻という短い時間の中でやらなければならないことをする。
返答に惑う阿頼耶に、美弥は更に言い募る。
「どうしてそんなことを言ったんですか? 阿頼耶さんと美弥は上手くいっているものだと俺は思ってました。違うんですか?」
阿頼耶の目に、今の美弥はどう映っているのだろう。
ちゃんと姉思いの双子の弟に、見えているだろうか。
それとも、やはりただの美弥に見えているのだろうか……。
それを知る術もなく、美弥はただただ黙って阿頼耶の答えを待った。
一頻り目線を泳がせ、手元にある草をブチブチ引きちぎりながらも、阿頼耶は重い口を開いた。
「み……美弥さんには本当に悪いと思ってるんだ……け、けど……」
歯切れの悪い阿頼耶の言葉が、言い訳にしか聞こえない。カッと熱くなる気分を抑えながら、美弥は辛抱強く聞いた。
「美弥さんは思い違いをしているよ……」
「え?」
思い違い?
一瞬にして頭の熱が引いた。
そんなはずはない。
確かにあの日、銀杏並木の下で阿頼耶は言った。
「どうか僕との婚約を、破棄してください」
……と。
そこに何の思い違いが生じるというのだ……! 美弥は食ってかからずにはいられなくなった。
「そんなはずはないですよ! 確かに美弥は貴方が婚約を破棄すると……」
「だからそれが違うんだ!」
いつになく苛立った阿頼耶の声に美弥は目を丸くした。阿頼耶が声を荒げる所など今まで見たことがなかったのだから。肩で息をしながら阿頼耶は更に続ける。
「僕は、僕から婚約を破棄するなんて言ってない! 美弥さんが、婚約を、破棄するよう、頼んだんだ!」
「……えぇ?」
頭が混乱してきた。
「だって……『僕との婚約を破棄してください』って……」
美弥は口に出して初めて気づいた。
阿頼耶は嘘を、ついていない。
「そんなの……言葉の綾じゃない……!」
言葉の捉え方によって意味が全く違って繰るではないか。
美弥は、阿頼耶が婚約を破棄すると言っていると取り、阿頼耶は美弥が婚約を破棄するよう頼んだつもりでいる。
「どうしてそんな紛らわしい言い方を……」
盛大な溜息をつき、美弥は顔を膝に埋めた。今更ながら自分の失態に気づいた阿頼耶もぐしゃぐしゃと髪を混ぜ返していた。
「す、すっかり気が動転してて……それでそんな言い方になってしまって……美弥さんには本当に……なんて言っていいのか……」
小さく呻く阿頼耶に、美弥はかける言葉もない。
けれどもまだ疑問は残っている。
「何で美弥にそんなことを頼んだんですか? 美弥が嫌になったならはっきりそう言えばいいのに!」
そうだ。
まどろっこしいことをせずとも、ストレートに言えば美弥だって諦めがついたかも知れないのに。怪しげな工房で怪しげな薬を貰わなくともよかったのに。こんなところで孝匡として阿頼耶と話さなくてもよかったのに……。
積もりに積もる後悔が次第に黒曜石の瞳に涙を溢れさせた。
「……い、言っても、怒らない、かい?」
取り返しのつかない悪戯をした子供のように孝匡を見る。よくよく見ると、阿頼耶の蒼白い頬にはかすかに涙の跡が走っていた。
元々身分にふさわしい貴公子然とした男ではなかったが、ここまで来ると憐れで仕方がない。あまりにも惨めな阿頼耶の姿に、美弥はただ黙って頷くしかなかった。
目だけで孝匡に礼を言う阿頼耶に、再び沈黙が訪れる。今度こそは慎重に、分かりやすい言葉を必死で選んでいるのだろう。
阿頼耶の性格は、美弥が誰よりも知っている。同じ間違いを二度と犯さない柔軟さも、自分の非を必要以上に責め立てる悪い癖も、全ては阿頼耶の優しさだ。
阿頼耶が言葉を選び終わるのを辛抱強く待てば、ようやっと阿頼耶が口を開いた。
「ち、父がね……一之瀬子爵の御令嬢との縁談を持ってきたんだ」
「一之瀬子爵!?」
一之瀬家は美弥の髙原家とは犬猿の仲の政敵だ。父・孝幸は陸軍の重鎮だが、一之瀬子爵は海軍の将校だ。同じ帝國軍でも部署が違えば敵となりうる。
「ここ、これからの時代は海軍だー、なんて父が……言い始めてしまったから……」
「姉小路伯爵がそんなことを……」
伯爵ならやりかねない。
阿頼耶の父である姉小路伯爵は権力の匂いに敏感な人だ。阿頼耶との縁談を持ちかけてきた時も、陸軍で権勢を恣にしていた父・孝幸に目をつけたに過ぎない。
長年国の政に関わり、権勢をふるってきた生粋の華族である姉小路伯爵には、今の姉小路家の落ち目が許せないのだろう。本来ならば華族の力でかつての栄光を取り戻したいものの、時代がそれを許さない。だからこそ伯爵は権力にすり寄っていったのだ。現に阿頼耶の上にいる二人の兄も役人になり財力のある華族の令嬢と結婚している。
「姉様が陸軍の人と婚約しているから……まだ婚約の日が浅い僕に白羽の矢が立って……しまって……」
姉小路伯爵は手駒を増やしたいのだ。陸軍とも、海軍ともつながりを持ちたい。そのためなら息子も娘も何だって利用する。老獪なあの伯爵ならではの行為だ。
「こちらから破談を申し入れたら美弥さんに迷惑がかかる。けど、父に逆らえるほど……僕は……」
美弥は息を飲んだ。
婚約を破棄された娘達がどんなに惨めな思いをするのか、知らないわけではない。美弥の学校にも婚約が破談になった女生徒がいた。
(でも彼女はもういないわ……)
今も穏やかに流れる目の前の川に身を投げて死んだのだから。
きっと彼女だけではない。もっと多くの女性が川に身を投げ、あるいは首を括り、あるいは手首を切り、毒を飲んで、死んだ。
「み、美弥さんにそんな思いをさせるわけにはいかない。そう思って……」
「だから私から破談にしてほしいと……」
美弥は言葉を失った。
全ては美弥のためだったのだ。
美弥がかぶるであろう醜聞を、阿頼耶が全て引き受けるつもりだった。
「……孝匡君?」
知らず、涙が溢れた。
「阿頼耶さん……不器用すぎですよ……」
孝匡のフリをして、美弥は美弥の言葉を言う。
「……僕もそう思うよ」
困ったように笑う阿頼耶に、美弥はもう何も言えなかった。
もう十分だ。
阿頼耶の言葉の真実が分かったのだから。
日が紅く染まりだした。
そろそろ一刻の時が過ぎる。
――行かなくては。
美弥は黙って学生服のズボンについた土埃を払い、阿頼耶に背を向けた。
「孝匡君」
阿頼耶の声に、美弥の足は止まる。
一方の阿頼耶は、呼び止めたはいいが何を話していいのか考えていなかったようだ。もごもごと口を動かしながら、目線を忙しなく動かすばかりで何も言わない。
「阿頼耶さん」
美弥が阿頼耶の名を呼んだ。背を向けたまま、阿頼耶の顔を見ることもなく。
「……美弥のこと、好きですか?」
孝匡として、美弥は残酷なことを聞く。
「本当に貴方は、美弥を……愛していたんですか?」
孝匡は本当にこんなことを言うだろうか。
……言わないかも知れない。
けれども聞きたい。
阿頼耶がどう思っているのかを。
ごく、
唾を飲み込み、阿頼耶の言葉を待つ。
後ろで阿頼耶が口を開く音を聞いた。
「……過去形じゃないよ」
鳶色の目が、美弥の背中を見据えている。
「僕は一生涯、美弥さんだけを愛しているよ」
湛えた涙が零れた。
凛とした阿頼耶の声。
美弥が聞いたことのない、はっきりとした阿頼耶の言葉。
そこに一分の偽りなどありはしない。
きっとあの金の秤が此処にあったなら、大きく「真実」へと傾いたに違いない。
「…………有難う、阿頼耶様」
聞こえるか聞こえないかの小さな声。
美弥はそのまま何も言わずに踏み出した。
最後の言葉は孝匡としてではなく、美弥として。
美弥はそのまま髙原邸へと走った。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたまま。
自分の体がどんどん小さくなることにも気づかず走る。
短くなっていた髪の毛が伸びていく。
革靴も、学生服も、どんどん大きくなっていく。
あんなに輝いていた太陽はすっかり夕陽になり、山の端へと潜り始めていた。
髙原邸に着いた頃には、ぶかぶかの学生服を纏った惨めな少女に成り果てていた。
「美弥! 美弥はいるか!」
荒々しい足音と共に父・孝幸の怒号が邸中に響き渡る。障子や硝子にびりびりと反響する大声に気づかぬものなどいない。
「お父様、そんな大声出さずとも美弥はちゃんとおります」
泣き腫らした目はすでに冷やしてある。父にみっともない姿を見せるわけにはいかない。ふわりと締め付けないワンピース姿で父を迎える。
「美弥! もうあの阿頼耶のことは忘れろ!」
ぎりぎりと歯ぎしりをしながら孝幸は吐き捨てた。
「あの姉小路の恥知らずめ! 美弥を捨てるに飽きたらずよりにもよって一之瀬なんぞの娘を……!」
「いいんです、お父様」
憤る父を美弥は遮った。
「私の方からお断りしたことになっていますので、もういいのです。阿頼耶様のことはすっぱり諦めましたから」
清々しいまでの笑顔を浮かべ、美弥は父に申し入れる。
「お、おお……そう、か」
娘のあまりのさっぱり加減に、孝幸の怒りもしぼんでしまった。心なしか髭もしゅんとしょげているように見えて何だかおかしくなった。
「お父様、もっといい殿方、探してくださいませ」
美弥はにっこり笑ってそう告げた。
「そうですわね……。美弥と剣道ができるような方がいいですわ! あ、勿論美弥よりも強くなくては!」
悪戯っぽく笑う美弥に孝幸は呆気にとられた。何とか言葉を見つけ、一つ咳払いをする。
「そ、そうだな! よし、今度はあんなひょろひょろの学者じゃなく、もっと骨太な、美弥にふさわしい男を選んでやるからな!」
そう言うと、孝幸はそのまま書斎に入った。庭の鹿威しが規則的な音を立てる。
夜の闇の中、何かがひらめいた。
しかしそれに気づくものは誰もなく、居間に取り残された美弥は、ただぐっと唇を噛みしめていた。
伸ばした指に、手袋と同じ黒の蝶が止まる。黒揚羽蝶はゆっくりとその羽を閉じ、かすかに触角を震わせた。ふ、と吐息をかければ、しゅるしゅると解け、蝶は一本のリボンへと戻る。
野分は満足そうに笑みを浮かべた。
店の大きな机の上には解けたベルベットのリボンと編みかけのレースのモチーフ、水引のような紐で作られた亀が置かれている。紐の亀の結び目を黒革の手袋をはめたままの指で解くと、所狭しと並んだ人形がカタリと動いた。西洋磁器でできた体に瀟洒なドレスを纏った人形と燕尾服の人形が語り出す。
「阿頼耶さん、元気ないですね」
さながら御伽噺のお姫様のような人形が喋り出す。
その声は美弥本人が喋っているかのように。
流暢に。
無理して男言葉を話していたあの時の美弥と同じように。
「ああ……少しね……」
操り糸のない人形劇。しかしそれは現実に、何刻か前に実際に起こった、美弥と阿頼耶のやりとり。人形達はそれを忠実に再現しているのだ。
「覗き見かい、坊や」
嗄れた声が響いた。
はあ、と重い、それはそれは重量級の溜息をつき、野分は声の主を見た。
「……いい加減坊やはやめていただきたいものですね、ブリジッタ」
いつの間に入ってきたのか。店に陳列されている硝子細工の一角獣を弄ぶ老婦人がいた。菫色のワンピースを上品に着こなし、きつく結われた髪は夜の暗がりの中で仄かに銀の光を集めている。
「何時まで経っても坊やは坊やさ。……ったく、何だいこの茶番は」
ブリジッタと呼ばれたその女性は野分に負けず劣らず大きな溜息をついた、というよりもわざとはぁぁぁぁぁぁぁぁ、と大仰に声を出して言った。
「美弥に言ったじゃないですか」
そんなブリジッタを気にも留めず、人形は河川敷での阿頼耶と美弥の会話を続けていた。奥まった水色の瞳で冷たくそれを見下ろしながらブリジッタは煙管を吸った。
「そういえば、アンタこんな噂を聞いたことがあるかい?」
紫煙を燻らせながらブリジッタは尋ねた。
「浅草界隈の芝居小屋じゃあ、紫色の蝶が来た芝居は繁盛するっていう噂だよ」
「……私はこの森から出られない身ですので、巷の噂には疎いことこの上ないのですが……」
にこりと笑みを浮かべる野分は果てしなく胡散臭い。
「アンタの机の上にあるモチーフはなんだい?」
ブリジッタの煙管が鋭くそれを指す。紫色の細い糸で編まれたそれは、まさしく蝶の姿をしていた。
「この人形劇と同じ魔法をかけたね? 全く、何をしてんだか……」
「芝居だけじゃありませんよ? 今私のお薦めは落語ですね。遊楽亭の人情ものはいつ聞いても……」
「魔法の無駄遣いだよ」
まだ火種の残る煙管が野分の鼻っ面に突き付けられた。野分は顔色一つ変えないままブリジッタを見つめるだけだった。
「蝶やら鳥やらの動物のモチーフに人の声や動きを記憶させる魔法。アンタのお得意の魔法だね。けどそれを無闇に使うんじゃあないよ」
「それくらいしか楽しみがありませんから。それにやはりいつの時代も、人の作った話というものは面白いものです。芝居も、歌舞伎も、落語も、オペラも。……嗚呼、ミラノで観たコジ・ファン・トゥッテが懐かしいですね」
「それも覗き見だろうが」
「失礼ですね。あの時はちゃんとお金払って観ましたよ。父と、……彼女と」
野分は目を伏せた。美しい硝子玉のような青い瞳はじっと黒革に包まれた手を見つめ、微動だにしない。ブリジッタも静かに煙管をふかし、遠くを見るだけだった。二人ともが帰ることのできない遠い過去に思いを馳せる。懐かしさと、戻ることのない時の流れを嘆くように。
「アンタもいつまでこうしているつもりだい?」
「こうして……とは?」
「死んだものの遺したものばかりに囲まれて! いつまでこんな店なんてやってるのかって言ってんだよ!」
ブリジッタは店をぐるりと見渡した。
「此処にある人形全部親父のじゃあないか! お前が作ったヤツなんて親父の人形よりも多くあるのかい!?」
「ありますよ。人形はどうしても大きくて場所をとるので多く見えるだけで、私の作った魔法具は小さいものなので戸棚に仕舞ってあったりなんだったりで見えていないだけですよ」
「それでお前の店だって言えるのかい?」
嘆息のブリジッタに野分は言った。
「ここは『澪標工房』です。父が創り、私が譲り受けた店です」
その声は硬く、言葉は重い。硝子玉の瞳に確かに灯る強い意志の光は鋭くブリジッタを射貫いた。
「澪標は航路を示す道標。人生という壮大な航海に迷いは付き物です。迷える人々の澪標に、身を尽くしてなる。そう願いを込めて父が創った店です。父の人形が誰かの澪標になるかも知れません。私のものかも知れません。それは私には分からないことです。だから私はこれからも父の人形も置きますよ」
野分は愛しそうに人形を撫でた。先程まで阿頼耶と美弥の劇を繰り広げていた人形だ。いつの間にか魔法が解け、人形は人形へと戻っている。ブロンドの髪を手櫛で梳かし、西洋磁器の肌に指を這わす。盛り上がった頬骨のあたりに積もった薄い埃を拭い、野分はブリジッタに笑う。
「それは本当の名前を捨て、『野分』という名とこの店を貰った時に私自身が、決めたことでもあります」
魔法の解けた人形は、野分の腕の中でただ力なくだらりと腕を垂らしている。燕尾服の男の人形は床に突っ伏したままぴくりともしない。野分はゆっくり立ち上がり、燕尾服の人形を抱き起こした。人形はからん、と乾いた音を立て、すでにまやかしの命が事切れていることを示す。薄く笑みを浮かべる野分の表情にはどこか自虐的な色が浮かんでいるのを、ブリジッタは見逃さなかった。
「そんな顔をするくらいなら、そんな魔法を使うのはもうお止し」
「そうもいきませんよ。これは私の楽しみの一つなんですから」
もう野分を言い含めることなどとっくの昔に諦めたと言わんばかりの溜息の代わりに、ブリジッタは紫煙を吐き出した。
「それでもあのドレスはどうかと思うけどね」
「歳をとると小言が多くなりますね、ブリジッタ」
――忌々しい。
眉間に皺を寄せながらもブリジッタはなおも続けた。
「あんなドレス、着られる人間はいないだろうに。そんなものを一番目立つショウ・ウィンドウに置くなんて……」
「いいんです」
野分もブリジッタもドレスを眺めていた。
そのドレスは、美しい。
美弥が最初に訪れた日に見たドレスと同じだ。純白のドレスは非の打ち所もなく、今日も其処にある。
誰も着られない、特別な誰かのためのドレス。
別に試着ができないわけではない。店には試着室も姿見もあるのだから。
ただ、誰も試着をしない。
――否、試着を拒むのだ。
そのドレスが自分のものではないことを、この「澪標工房」に訪れる客達……特に女性は悟る。本能で分かるのだ。
誰も着ることのないドレス。
しかし野分はあえてそれを置く。店の最も目立つ場所に。
「だって、アレがないとベアトリーチェが迷ってしまうじゃないですか」
野分は目を閉じた。
今でもはっきりと思い出せる。
柔らかく波打つブロンドに絡んだ赤いリボン。髪と同じ色の睫毛に縁取られた緑色の瞳。白い肌にほんのり灯る桃色の頬。笑った時にちらりと覗く八重歯の形。沈丁花の香り。
ほぅ、と野分は息を吐いた。
それは溜息とは違った温度を持ったものだった。
夢見心地の、恍惚とした吐息。
うっとりとした表情のままで野分はブリジッタを見た。
「僕はね、ブリジッタ、待ってるんだ。彼女が、ベアトリーチェが僕を迎えに来てくれる日を……」
そう言った野分の顔は、幼い少年のようだった。すでに二十歳は過ぎているであろう野分が浮かべるには随分と似つかわしくない表情。
「……アンタにはそういう顔が一番似合うよ」
しかしブリジッタはそう言う。年端もいかぬ少年が誕生日が来るのを指折り数えているような顔。「私」から「僕」に変わった一人称がブリジッタの心を責める。
ぎゅぅ、と野分は自分の体をきつく抱き締めた。寒さに耐えるように、腹の底から湧き上がる訳も分からぬ感覚に耐えるように。
天を仰いだ野分の口から「嗚呼……」と声が漏れた。
「……さあ、始めましょうか」
ブリジッタに向き直った野分の顔はいつもの顔に戻っていた。能面のように張り付いた、胡散臭い笑顔。妙に大人びたような表情。ブリジッタは煙管をしまい、野分を真っ直ぐ見直した。
「扉をお開け」
店の大きな机の後ろ、薬瓶やらリボンやら生地やらがはみ出した大きな棚をズズ、と横に動かした。
その後ろから黒い、重い鉄の扉が現れた。
野分は宙に何かの文字を書き込む。
錠前が外れて地に落ちる。
そして扉が開かれた。
蝶番を軋ませて。
野分とブリジッタは、扉の奥へと消えていく。人形達はそれを硝子の瞳に映すばかりで、じっと座ったまま何も言わない。