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第二章



 数刻前のことです。

 私は許婚である姉小路阿頼耶(あねこうじあらや)様との逢瀬を重ねていました。

 ……といっても、私はまだ女学校を卒業していない女学生で、阿頼耶様は帝大の学生なので色めいた雰囲気はないんですが。

 いつものように阿頼耶様の研究の合間を狙い、私が帝大へと押しかける。それを阿頼耶様は一度も断ったことがないんですの。むしろふわりと笑ってくださって、私を歓迎してくれるんです。

 今日はちょうど阿頼耶様の作業に一段落がついたところだったので、帝大から私の家である髙原邸へと向かう帰路を二人で歩いていました。

「阿頼耶様、研究の方、調子は如何ですか?」

 阿頼耶様は西洋文化の研究をなさっているのです。私にも時折御本を読んでくださいます。挿絵の多い本は楽しいのですけど、外国語はさっぱり読めませんので。

「御陰様で順調です。美弥さんは?」

「私の方はからっきしですわ。今日もお裁縫の先生に怒られてしまいました」

 先程貴方が仰ったように、私は剣術を少々やっております。……ええ、髙原の家は元は武家でしたので。家の中に道場もありますから、そこで鍛錬をしております。そのためでしょうか、私、お裁縫やお料理といった家事全般が……その、何て言いますの……失礼ですわね! 少しくらいはできます! ちょっと不の器用なだけですわ!

 ……でも阿頼耶様はそんな私のことをちっとも責めません。むしろ阿頼耶様の方が私よりもお上手で……。でも「続けていればそのうちできるようになる」といつも励ましてくださいます。

 阿頼耶様のことですか? 阿頼耶様は姉小路伯爵家の三男です。髙原子爵家としては、姉小路伯爵家とのつながりを持ちたいらしく、……ええ、政略結婚です。ああ、髙原の家督は弟の孝匡(たかまさ)が継ぐので、阿頼耶様と私は姉小路家の分家となります。……多分。姉小路家は由緒正しき華族ですけど、最近では……生々しい話ですが、財政難だそうで、かつての藩主であり現在諸侯華族の髙原家は陸軍に役職を持っていますから、その……互いの利害が一致するというわけです。姉小路家も軍につながりがほしいようで……。三男の阿頼耶様ならお家の相続に深く関わるわけでもないので。ただし、姉小路の姓は捨てさせられない、という意向です。

 ……話がぐちゃぐちゃしてきましたわ。

 とにかく、私と阿頼耶様はそのまま街を歩いていましたの。他愛もないお話をしながら、どこそこのお菓子が美味しいだの、あの帽子屋に父がケチをつけた話など……本当にどれをとってもただのお喋りでした。

「美弥さん」

 突然でした。それは阿頼耶様から聞いたことのないような、それはそれは……思い詰めたような、酷く潰れそうな声でした。どうしたものかと思い、私は立ち止まって、阿頼耶様の顔をじっと見ました。その道は、ある秋の日に阿頼耶様と歩いたことのある銀杏並木でした。今はまだ青々とした葉をつけてますが、秋になれば黄金色の葉で敷石を埋め尽くすのです。とても美しい思い出のあるその道で、阿頼耶様はわたしに言いました。

「どうか僕との婚約を、破棄してください」

「……………………え?」

 耳を疑いました。

 今の今まで楽しく……それは私の一方的な勘違いとしても、普通に会話していたのに、どうしてそんなことを言われるのか、私には理解ができませんでした。

「阿頼耶様? どうしてそんなことを? ……確かに親同士が決めた婚約とはいえ、私……」

「違うんです、美弥さん」

 阿頼耶様は私に必死に言い募りますの。

「美弥さんに非があるのではないんです。悪いのは全て僕です。僕が……僕が不甲斐ないからで……。と、とにかく! 詳細はまた後日お話しします! 今日はそれだけ、それだけ……伝えようと…………」

 そのまま阿頼耶様は走ってどこかへ行ってしまわれました。銀杏並木に残された私はどうして良いのやら……。気づいたら……


「走って此処に辿り着いた、というわけですね」

 野分が美弥の言葉を引き取った。

 百合の花弁のような足をしたテーブルに、透明な六角形のグラス。たっぷりの氷に熱い紅茶が注がれ、程良く冷たくなったアイスティーは美弥の波立つ心をすっきりと静めた。

「確かに訳が分かりませんね。姉小路氏の不可解な言動……突然の婚約破棄……」

「きっと阿頼耶様には何か事情があるのよ。もしかしたらもっと良いお家からの婿入りの話かも知れない……」

 所詮髙原家など帝國陸軍に勤める子爵家に過ぎない。髙原よりも地位も財もある家など海千山千。姉小路家が否やを唱えれば何も言えない。まして、美弥のような子供に、意見するなどという権利ないのだ。俯いたまま、美弥はアイスティーを啜った。

「それで、貴女はどうしたいのですか?」

「…………え……?」

 思わずグラスを落とすところだった。

 ――この男は何を言っているのだろう?

 見たところ華族とは無縁の生活をしているようなこの青年には、美弥の抱える事情を斟酌しかねているのだろうか?

「どうもこうも……私にはそんな」

「ではこのまま阿頼耶様とやらを諦めるのですか?」

 ぐ、と言葉につまった。

 諦める。

 諦めざるを得ない。

 けれど、

「私……」

 それを言ってはいけない。

 美弥だけの問題で済まされない、大きな力がそこには働いているのだから。

「わ、たしは……」

 喉が塞がってしまったかのように言葉が出ない。胸の内には次々と言葉が溢れてくるのに、それがどうにもまとまらない。声が出ない。

「私、は……いいのです……。いいんです……」

 かたん、

 小さな音が響いた。

 音の方を向けば、美弥がこの店で最初に見つけた秤が傾いていた。いつの間にか分銅の乗った右皿が大きく沈んでいた。

「……貴女の言霊は、偽りですね」

 おもむろに立ち上がり、野分は金の秤に手を伸ばした。

「秤の右が沈みましたから」

 何も乗っていないはずの左の皿から野分は何かを手に取った。

「お可哀想に。貴女は賢いが故に大事なものを見失っておられます」

 野分の青い目が美弥を穿つ。

「な、んで貴方にそんなこと言われなければならないのよ……!」

「私には分かるからです」

 丸眼鏡が鈍い光を反射した。

「貴女は此処に誘われてきたんですから」

 野分は手元にあった一体の人形を手にした。栗色の巻き毛が美しい西洋人形だ。人形師のように繰りながら、踊るように、歌うように野分は続けた。

「姫百合に誘われ、貴女はこの店にやってきた!鉄砲百合の道標に導かれ、貴女は此処にやってきた! 嗚呼、それがどんなに喜ばしいことか! 商売人冥利に尽きるとはこういうことを言うのです!」

 無邪気な子供のようにくるくると回りながら言祝ぐ野分を、美弥はただ呆然と眺めるしかできない。

 けれども、聞かずにはいられなかった。

「此処は……何のお店なんですか?」

 ぴたり、

 野分は回転を止め、くっと腰を捻り、美弥を見た。

「おや、まだ申し上げていませんでしたか?」

 人形片手に両手を広げ、野分は芝居がかった仕種で台詞を言った。

「此処は『澪標工房』」

 カーテンコールを浴びる役者のように、恭しく頭を下げ、三日月のような口で笑う。


 「望みを叶える、魔法の店で御座います」




 今日のできごとの殆どが信じられなかった。

 寝間着のまま、美弥は縁側で溜息を吐いた。

 見上げる空は一面の星に彩られ、初夏の風が心地よく湯上がりの肌を吹き抜ける。冷茶の入った硝子茶器はほんのりと汗をかき、かろん、と氷が崩れる音を立てた。

「美弥」

「……孝匡」

 声に振り向けば、そこには弟の孝匡がいた。たった今風呂から上がったらしく、艶やかな黒髪から雫が一粒、廊下に落ちた。

「何かあった?」

 そのまま孝匡は美弥の横に腰を下ろした。

「……何でそんなこと聞くの?」

「だって元気がない。美弥らしくないよ」

 美弥に断りも入れず、孝匡は冷茶を飲み干した。ついでに溶けかけた氷まで口に入れ、ガリガリ噛み始める。

「美弥は俺の片割れだ。何かあればすぐに分かる」

 美弥と同じ黒曜石の瞳に美弥の顔が映る。

 自分と同じ顔をした弟。

 幼い頃から不思議な縁で結ばれた双子の弟。

 二人が離れていても、美弥が転べば孝匡も泣き、孝匡が美味いものを口にすれば美弥は食べてもいないのに「美味しい」と言う。成長してからは少なくなったが、未だに孝匡が痛い思いをした時には美弥の痛覚も刺激される。

 もしかしたら孝匡は、美弥の心の痛みに気づいたのだろうか?

「今日、阿頼耶さんに会ったんじゃないのか?」

「へっ?」

「家の近くで阿頼耶さんに会ったんだよ。そん時にさ、『美弥さんにすまなかった、と伝えてくれ』って頼まれたんだよ。なんか喧嘩でもしたのか?」

「え、あ、……ううん、そうじゃないのよ。……そうじゃないの。うん、何でもないのよ」

 孝匡は知らない。

 阿頼耶が美弥に婚約破棄を持ち出したことも、そんなことがあるとは全く思ってもないようだ。少しだけほっとした。

「何だよ。じゃあ阿頼耶さんのいつものアレか」

「そうよ、いつもの早とちりと心配性よ」

 にっ、と孝匡は歯を見せて笑う。美弥もつられて笑う。

 背丈は孝匡の方がだいぶ大きいが、それ以外は美弥と孝匡は本当によく似ていた。幼い頃はどっちがどっちか分からないほどに。

「暑くなってきたとはいえ、あんまり外にいると風邪引くぞ」

 孝匡は冷茶の乗った盆を持ち、美弥を促した。初夏とはいえさすがに少し冷えてきた。寝間着の襟を少し合わせ、美弥も立ち上がる。

「あ、そうだ」

 前を歩こうとしていた孝匡の袖を引っ張り、美弥は尋ねた。

「孝匡、『澪標工房』って、知ってる?」

「みおつく……?」

 今日訪れた、不思議な店。

 『望みを叶える、魔法の店で御座います』

 野分の声が甦る。

 孝匡は知っているのだろうか。

「百合が一杯咲いてる森にあるお店なんだけど……」

「……いや、知らない。……けど、そこにはあんまり近づかない方がいいと思う」

「どうして?」

 孝匡は少しむぅ、と口を尖らせた。言おうか言うまいか、迷っているようだった。

「ねえ、どうしてってば!」

 途中で言葉を切られるほどもどかしいものはない。美弥は孝匡の袖を千切れんばかりに引っ張ってやった。

「ああ、分かったから引っ張るな! おま、千切れたら直せるのかよ!?」

 直せません……、と言う代わりに美弥はすっと袖を放した。

 わざとらしく咳払いをし、孝匡はあー、だのうー、だの言いながらも答えた。

「……あの森、出るって噂だからな」

「……………………何が?」

「……っ、あー! 本当鈍いヤツだな! 出るっていったらアレだろ! アレ!」

 孝匡は盆を持っていない方の手を胸の前まで引き、だらんと手首の力を抜いた。

 いわゆる「おばけ」のポーズだ。

 美弥はぽかんと口を開けていたが、

「ぶふっ」

「あ! お前、笑ったな! 俺の学校で噂なんだからな! あの森で大川の兄上の婚約者が行方不明になったとか、目抜き通りの呉服屋のお嬢さんが死んだのだってその森の中なんだぞ!」

「え、そうだったの!?」

 呉服屋のお嬢さんのは先週起きた大きな事件で、新聞でも取り沙汰されていた。髙原家が贔屓にしている呉服屋でもあったので、通夜葬儀にも参列し、お悔やみ申し上げたのもつい先日のことだ。千香という、美弥達姉弟よりも幾分か年上のお姉さんだった。すっと鼻筋の通った、綺麗な人。どうやって死んだのかは分からないが、ご主人も奥さんも酷く嘆いていたのは覚えている。

 そんな森に自分が居たのかと思うと寒気がした。ぶるりと体を震わせたのを孝匡は見逃さなかった。

「ほら、早く中に入って寝ろよ」

 孝匡に導かれるまま、美弥は自室に入り、障子を閉めた。

「そんな森だったなんて……」

 人死にのある森に、どうして野分は店など構えたのだろうか。

 『魔法の店で御座います』

 にやりと笑う、野分の顔が不気味に思えた。

「もしかしてあの人……」

 ふ、と頭によぎった不吉な考えを振り払い、美弥は布団に潜り込んだ。




 「……寝付けない」

 孝匡があんな話をするからだ!

 呉服屋の千香さんも、孝匡の同級生、大川何某の兄上の婚約者とやらの事件もあの森に関わっている。

 よくよく思えば、あの森は不気味だった。

 噎せ返る百合の匂い、名前も知らない鳥の鳴き声に古びた洋館、一人の青年、そして、

「魔法の店……」

 店主の野分は、澪標工房というあの店を「魔法の店」と呼んだ。

 確かにあの店にはよく分からないものがたくさんあった。

 目を閉じればすぐに思い出せる。

 美しいドレスの他に数多の人形の目、リボンに釦。鳥籠の中の愛らしい妖精、小さな硝子細工に異国の魚。

「金色の天秤……」

 あの時、真実と偽りを見分ける天秤が傾いた。しかも偽りの方に。

 あれが野分の言う「魔法」なのだろうか?

 何も乗せていない天秤が、傾いた。

 野分は美弥の「言霊」が乗ったと言う。美弥には見えないものが、野分には見えている。

「望みが叶う……魔法の店……」

 野分の言葉を繰り返す。

 美弥の頭に阿頼耶の顔が浮かんだ。

 毛先が丸まった鳶色の癖毛、口元の小さな黒子、弱々しく笑ったあの顔……。

「私の望み……」

 それは一体何だろう?

 美弥は悩んだ。

 悩みに悩み、東の空がついに白み始めてしまった。

 ずん、と重い頭のまま、美弥は婆やに手伝われながら支度をし、学校へ向かうことになった。




 「美弥さん知らないの?」

 多惠子(たえこ)が溜息混じりの声を出した。

 どうしても「澪標工房」のことが気になった美弥は、幼馴染みであり級友でもある久保多惠子に尋ねた。

「そ、そんなに有名なお店なの?」

 多惠子の返答は昨夜の孝匡とは違いすぎるものだった。

「有名も何も! そこのお店に行けば何でも望みが叶うって噂なのよ!」

 多惠子は話しているのが休み時間の教室だということも忘れ、興奮して立ち上がった。

「どこにあるのか分からない! どうやっていくのかも分からない! でも、どうしてもどうしても叶えたい望みがある人だけがそのお店に辿り着けるの! ああ、なんてロマンチックなの!」

 ほぅ、と頬を染めながら、夢見心地のまま多惠子は座る。周りの他の女生徒達はそれぞれのお喋りに忙しく、多惠子の奇行に気を止めるものなどいない。

「女の子なら誰でも知ってると思ったのに、美弥さん知らなかったのね」

 呆れたような目つきで見られ、美弥はう、と言葉をつまらせた。

 美弥は基本、「女の子」の嗜みや話を好まない。孝匡と共に道場で汗を流す方が好きなのだ。女学校の授業は裁縫やお茶、お花など淑女の嗜みを教え込まれるが、美弥はその手のものが苦手だ。加えて噂話や縁談の話など、級友達の好きなものにはどうにも積極的になれなかった。

「美弥さんはいいのよ、それでも。だって姉小路阿頼耶様っていう素敵な殿方がいらっしゃるんですもの」

 喩え美弥が女子の常識に疎くとも、誰もがこれを免罪符にしてくれる。多惠子もそうだ。しかし、今の美弥にとってその言い訳は心を突き刺す鋭い刃のようだった。

「……ねえ、そのお店ではどうやって望みを叶えるの?」

 美弥は話題が阿頼耶の方に行く前に「澪標工房」の方へと戻した。多惠子はそんな美弥の心の内に気づくことなく話を戻す。

「どうもね、そのお店の御店主、異人らしいのよ」

「そうなの?」

 白々しい応答。

 美弥はそんなこと、もう知っている。

 店主の名がなぜか日本名の野分ということも、彼の瞳が青いということも。

「それでね、異国の魔法を使うらしいの」

 多惠子が声をひそめて言った。まるで誰かに聞かれたら店主の魔法の力がなくなるのではないかというほど慎重な声で。

「……どんな魔法なの?」

 不思議と興味が湧いてきた。

 孝匡は森に近づくな、と言うが、美弥はなぜかあの森に、あの店に惹かれている。

 説明の仕様のない高揚感が美弥の心臓を脈打たせる。鼓膜の奥深くに響く、力強い鼓動。

 ごく、と喉が動く。

「あのね……」

 多惠子の喉も上下する。

 互いに顔を見合わせ、美弥は多惠子の口をじっと見……

「髙原美弥さん、久保多惠子さん!」

 厳しい声が飛んできた。

 きっちりと髪を後ろで結った女教師のお叱りだ。

「とっくに始業の時間だというのに、二人ともお喋りに夢中になって! 皆さんもそうですよ! 多くの方は女学校を卒業したら何処へ嫁ぐでしょう。それなのに何ですか!」

 思わぬことでお説教を食らってしまった。他の級友達も美弥と多惠子に迷惑そうな視線を送るが、強く言うものはいない。

 多惠子と美弥はこのクラスの中でも一、二を争うほどの令嬢だ。美弥は言うまでもなく子爵令嬢であり、昨日の事情を知らないものたちは美弥が姉小路伯爵家への嫁入りが決まっていると思っている。髙原や姉小路の爵位に敵う者はいないのだ。

 一方多惠子は薬種問屋の娘である。商家であるものの、久保の財力は計り知れない。女学校とはいえ、そこは親の権力と財力こそ物を言う、小さな国に等しい。彼女たちは権力が物を言う世界に生まれ、生きる女達だ。逆らうべき相手とそうでない相手を、まるで野生の獣のように察知し、学び、生きる。

 大きな溜息と共に説教を締めくくった教師は改めて授業に入った。がたがたと机を鳴らし、家政学の教科書を取り出す。

 退屈な授業は退屈以外の何ものにもならない。女教師の話はいつも同じ。

「皆さんは日本の良き妻、良き母になるためにお勉強するのです」

「淑女の嗜み、恥じらい、教養を身につけなさい」

 美弥に母はいない。幼い頃に死別したのだ。

 それ以降、父は幾度も再婚を薦められたが、頑として受け入れなかった。

 孝匡も美弥も、母というものがどういうものなのかが分からない。実質美弥達姉弟を育てたのは今は亡き祖母と婆や、その他使用人達だ。

 だから美弥はいつも分からない。「良き妻、良き母」とはどんなものなのか。

 美弥は妻も母も知らないのだから。

 けれども「淑女」がどういうものなのかは何となく分かる。それは言葉にすれば陳腐に聞こえてしまう、とても曖昧な考えだ。

 けれども美弥のその「淑女」の像には、いつも阿頼耶が隣にいるのだ。

 阿頼耶の傍で、阿頼耶のために尽くす。

 阿頼耶が好きな研究に没頭できるように、美弥は美弥のできることをする。阿頼耶のために本を読み、阿頼耶のために家を切り盛りし、阿頼耶のために子を産み、阿頼耶のために老いて死ぬ。

 全ては阿頼耶のため。

 阿頼耶のためなら美弥は何も厭わない。

 じわりと涙が溢れてきた。

 美弥のそんな思いにもかかわらず、阿頼耶は婚約破棄を申し出てきた。

 ――訳が分からないわ……。

 零れそうな涙をごまかすために美弥は袖の裾で目頭を押さえた。

 結局その日、美弥は多惠子から詳しい話を聞かず終いになってしまった。美弥の頭の中は始終阿頼耶の笑顔と、最後の言葉が巡るばかり。

 「僕との婚約を、破棄してください」

 阿頼耶の声が反響する。

 阿頼耶の笑顔が目に焼き付いて離れない。

 阿頼耶と歩いた道を歩き、阿頼耶と休んだカフェの前を通り、阿頼耶の帰りを待った帝大の門を眺めた。阿頼耶がいつも大事に持っていた仏蘭西語の辞書の表紙は葡萄茶色だった。阿頼耶が愛用していた栞は美弥が慣れない手つきで作った押し花の栞。今も阿頼耶はそれを使ってくれているだろうか――。

 ふと顔を上げると、美弥は姫百合の中にいた。

 甘く漂う花の香の中で、美弥は導かれるように歩いた。

 鮮やかな姫百合の中でたった一輪の白い鉄砲百合を標にすれば、すぐに白い敷石が現れる。黒い門をくぐり、妖精のノッカーを使わずにチョコレートのような扉を開けた。

「いらっしゃいまし、お客様」

 暗闇の中から聞こえる、肺腑の底から響く低い野分の声が、美弥を甘く誘惑した。


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