表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第一章



 はしたない、など思わなかった。

 美弥はなりふり構わず大通りを全速力で走り抜けた。

 驚いたように振り返る者、咎めるような目線を送る者などもいた気がしたが、美弥の意識に止まることはなかった。

 長い髪を振り乱し、袴が乱れるのもお構いなし。上等な牛革のブーツで美弥は街を駆け抜ける。二頭立ての馬車すら追い越し、車屋の左吉も一瞬で追い抜く。

「美弥嬢ちゃん! どこへお行きなさる!?」

 顔なじみの左吉が声をかけても美弥は振り返りもしない。ただただ走り続ける。

 道行く人々は誰も気づかない。

 美弥の涙に。

 ぽろぽろと玉を結ぶ涙が風に流されても誰も気づかない。街の人たちはただお転婆お嬢様が走っているということだけ見る。美弥の涙など気にも留めなければ、彼女の涙の理由など聞くこともない。それをいいことに、美弥は走り続ける。

 誰もいないところへ。

 家になど帰りたくはない。

 だから美弥は走り続ける。

 走って、走って、走って、

 そして

「……ここ、どこ?」

 ――迷子になった。

「え? え?」

 パニックになりつつある頭を抱え、美弥は考えた。

 今までずっと街を走っていたのに、どうして今、自分は、

「なんで森にいるのぉぉぉぉぉぉぉぉっ!?」

 絶叫する声に驚いた鳥が飛び立った。どこかで小動物が身を隠したような音がした。

 がっくりと膝をついた。走ってきたツケが今、足に来たようだ。悲劇のヒロインよろしく、そのまま地面にへたり込んだ。

 辺りを見渡すと、四方八方三六〇度緑だった。薄暗い森の真ん中にいるような感覚。遠近感を失ったかのように風景がぐるりと回る。

 ふと、喉が張り付くのを感じた。

 甘い香りがあたりに充満している。

「……百合の香り……」

 目線を上から下へ移すと、濃赤色の姫百合が咲いている。よくよくみれば、そこかしこに同じような赤の他にも橙、黄色など色とりどりの可憐な杯が開いている。

「不思議……」

 美弥の邸にも百合の花くらいはあるが、野生の百合はそれとはどこか違う。庭師の伊助が丹精込めて育てた花たちは美しい。確かに美しい。だがこの森の、この姫百合たちは美しいだけではない。誰の手も借りず、一人で立てるだけの強さがある。庭の花たちは少しでも環境が変わればたちまち枯れてしまうのに。

 美弥は立ち上がり、橙色の姫百合にそっと手を触れた。肉厚な花弁。たっぷりとした花粉。野生のたくましさ。鼻を近づけてみれば、むっと薫る甘い匂い。辺りに満ちているのは間違いなくこの姫百合たちの匂いだ。

 噎せ返るような香りの中、美弥は街へ戻る道を探す。どこをどうやって来たのか分からない。この百合の香りが弱い方へ、鼻をきかせながら進むしか思いつかなかった。

 森の中は広く、一向に街へ出られる気配がしない。美弥の努力を嘲笑うかのように姫百合たちが甘い匂いを放つ。

「……なんかヤな感じね」

 笑い声をひそめているかのような黄色の斑が入った姫百合を睨み、ふん、と鼻を鳴らした。

 ふと、その向こうに白い花が見えた。

 姫百合の群生の中、何かの目印のように鉄砲百合が一輪、白い花をつけていた。

「もしかしたら出口かも……!」

 美弥は駆け出した。

 根拠などない、完全な直感。しかし鉄砲百合は美弥を呼んでいるかのようにその花を揺らした。ますます美弥は速度を上げ、鉄砲百合の元へと急ぐ。草をかきわけ、獣道すらない道を行く。

 ざぁ、と風が吹く。

 鉄砲百合の元、姫百合の群れの向こうには、開けた場所があった。

「……すごい」

 そこには英国あたりから丸ごと越してきたかのような洋館があった。

 砂糖を薄い円盤状にしたような飛び石、黒々とした鉄の門には細かな装飾が施されている。いくつもの窓が並ぶ中、玄関の左に一際大きな窓がある。ショウ・ウィンドウだ。

「綺麗……」

 ショウ・ウィンドウには一着のドレスが飾られていた。長い間磨かれていない硝子から見るだけでも、そのドレスが上等なものだということが分かる。光沢のある生地は白く、ところどころに光の粒が輝く。大きく開いた胸元には生地と同じ色の細いリボンが編み込まれ、ふわりと広がるドレスのスカートはふんだんにフリルがあしらわれている。

「……こんなに素敵なドレス、誰が着られるの?」

 美弥にはとても着られそうにない。

 それは美弥が着るべきでないものだ。

 誰かが、誰かのために、誰かのためだけに作った服だ。

「こんな森の中で誰が作ったのかしら……」

 美弥は恐る恐る洋館へと近づいていった。

 人がいるのならば、街への道を教えて貰おう。いくら家に帰りたくはないとは言え、こんな森の中に何時間もいるわけにはいかない。

 何よりも、このドレスをどんな人間が作ったのか、美弥は気になった。恐怖よりも好奇心が勝ったのだ。

 飛び石を辿り、門をくぐる。幸い、門扉らしきものはない、門構えだけのものだった。そしてまた白い飛び石。今度は丸ではなく長方形の。なぜかその小径は緩やかなカーブを描いている。横は庭だ。色とりどりの花が咲き、植木も艶やかな緑色をしている。

 玄関のドアノッカーは真鍮製。花輪を持った妖精の形をしている。

「お店……? それともお住まいなのかしら? よく分からないわ……」

 店ならば店らしくもっと開いていてもいいのに。せいぜい店らしいのは、板チョコのようなドアに無造作にかけられた「開店」という札だけだった。

 美弥は生唾を飲み込み、妖精の花輪でノックした。

 カッ、カッ、カッ。

 固い音を立て、妖精が客の訪れを知らせる。

 が、

「……?」

 返事がない。

 もう一度、今度は少し強めにドアを叩くが、やはり返事はなかった。

「開店ってあるから……入ってもいいわよね?」

 確かめるように頷きながら、美弥は自分に言い訳をした。

 そう、不法侵入じゃない。闖入者でもない。美弥はれっきとしたお客さまとしてこの洋館、もとい店らしき謎の館に入るのだ。もしも店主と思われる人に文句を言われたら、何か一品適当なものを選んで買えばいい。美弥は意を決して重いドアに手をかけた。

 ぎいぃぃぃぃ……、錆びついた蝶番の悲鳴が不気味だ。

「御免下さい……。どなたか……いらっしゃいませんかぁ……?」

 中は外と比べ、とても暗い。美弥の目が暗がりのまぶしさに眩んでしまった。

 目が効かない、というものは不安をかき立てる。普段ならば何でもない暗闇が酷く怖い。地の果てまで続くような深さすら感じる。

 いつもの闊達な美弥はなりをひそめ、異様に暗い室内に怯えるただの少女の声が響いた。

 やはり返事がない。

「こ、こんにちは……」

「開いております故、どうぞ中へお入りください」

 暗闇の中から声が聞こえた。内耳に響く、低く、落ちついた声。

「今、灯りをつけますので暫しお待ちを」

 カシュッ。

 燐寸の擦る音、そしてカラカラと何かを開ける音。

 暗闇の中で響く音だけが美弥を刺激する。

「さあ、これでよく見えますよ」

 ぼぉ、と蝋燭の火が灯る。

 燭台の光と洋燈の灯りが次々につけられていく。

 最後にカーテンが開かれた。

 突然の光に目が眩む。美弥の長い睫毛に縁取られた大きな眼を幾度も瞬かせれば、次第に周りが見えてきた。

「わぁ……」

 それは外からでは分からなかった室内。

 ドアを開ければすぐに「店」だった。

 所狭しと並んだ人形の数々。

 光を乱反射する硝子細工。

 天井から吊り下げられたモビールには異国の海を泳ぐ魚。

 細い鉄でできた白い鳥籠には天使を模した人形が住んでいる。

 聳え立つ棚の抽出からは色とりどりのリボンがはみ出し、意匠を尽くした釦の数々が額縁に入って輝く。

 なぜか右にだけ分銅が乗っているのに釣り合っている金の秤に美弥はそっと手を伸ばした。

「それは真実と偽りを計る秤ですよ」

「え?」

 秤に届きかけた細い指が寸前で止まる。

「右の皿に分銅を乗せ、左の皿に言霊を乗せれば計れます。言霊が沈めば真実、分銅が沈めばそれは偽りです」

 美弥の後ろに男が立っていた。

 宙に釘付けになった美弥の手を取り、

「いらっしゃいまし、お客様。店主の野分と申します」

 す、と跪き、頭を下げた。

 突然の男の出現とその優雅な動きに、美弥はただぽかんと口を開けたまま立ちつくした。

「この国ではまだ口づけの挨拶の習慣がないと聞いたので礼だけにしたのですが……却ってレディに恥をかかせてしまったかな?」

 野分と名乗る店主はぽりぽりと寝癖だらけの髪を掻いていた。

 白い肌は白磁のように白く、その上を斑に染めるソバカスが特徴的だ。好き勝手な方向に跳ねまくる黒髪に不釣り合いなほど澄んだ青い瞳。すぐに彼が異人だと分かった。白のシャツに黒のスラックス、軍人よりも上等な革で作られた手袋と編み上げブーツはまるで一等のお屋敷に勤める馭者のようにも見える。

「……わ、わたし、その……」

 柄にもなく緊張してしまう。

 このひょろりと細長い、まさにもやしのようなこの男――野分は随分と整った顔をしているのだから。優しげな瞳は少し垂れ気味、唇も肉付きの良い花びらのよう。すらりと通った鼻筋は異国の血が通っていることを確かなものにした。女が欲しがる「美しさ」というものと男が女に求める「優しさ」というものが綯い交ぜになったような、酷く見た目の良い野分に、美弥は完全に萎縮してしまった。

「道に、迷ったのですね?」

 野分が美弥の言葉を継ぐ。

「あ、は、はい。そうです……道に」

「とても険しい道に迷ったようですね」

「え?」

 野分の青い瞳が美弥の黒い瞳を覗き込む。

「でなければ貴女のような気丈なお嬢さんが、頬に涙の跡など残すはずがありません」

 黒革の手袋がそっと美弥の頬に触れる。

「ど、どうして私が気丈だなんて……」

「嗚呼、貴女の手に触れた時に分かりましたよ」

 野分の手が美弥の手へと滑り、手のひらを上にした。

「レディのたおやかな手には似つかわしくないマメがあります。貴女はおそらく剣術か何かを嗜んでいらっしゃいませんか?」

「ええ……そうですけど……」

「しかも嫌々やっているだけではこんなに固くはならないでしょう。きっと毎日稽古に励んでいらっしゃる。先入観かも知れませんが、そんなレディが気丈でないわけがないと、私は思いますよ」

 瞬間、涙が溢れた。

 たった今出会ったばかりの若者にここまで自分を理解されたことが嬉しかった。

 そして何より、今の今まで忘れていた、先刻までのできごとが一気に甦ってきたのだ。

「……お可哀想に。余程辛い思いをされたのですね?」

 野分はどこから取り出したのか、仕立ての良いレースのハンカチを美弥に渡した。

「……御免なさい。私ったら……見ず知らずの方にこんな……」

 ぐすぐすと鼻をすすりながら美弥は言った。野分は人の良さそうな笑顔を浮かべ、

「私で宜しければ、お話を聞きますよ」

 その申し出は美弥の警戒を一瞬でゼロにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ