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第九章


 美弥は走った。

 「澪標工房」の扉を開け、森を駆け抜けた。百合の花の香りを纏い、美弥は走った。

「さあ、お急ぎなさい」

 店で野分は美弥に言った。

「その手にあるものが貴女の望みを叶えます」

 落とさぬように小箱を握りしめ、美弥は走る。

「嗚呼、走り辛いでしょう。こちらに着替えませんか?」

 勿論、振袖は御代として戴きますが、と野分は笑った。

 破れてしまった振袖が新品のワンピースに替わった。上品な紺色の生地、白い丸襟、幅広のリボン。絹の靴下にエナメルの靴も野分はくれた。新品なのに走りやすい。魔法がかかったようだ。乱れた髪も、いつの間にか整えられ、白いリボンが編み込まれている。来た時はあんなに引っかかった小枝や草が道を開けてくれる。

 息を弾ませ、美弥は走る。

 あんなに痛かった足も、もう痛くない。

 美弥は風になったかのように走った。

 もうすぐ森が開く。

 光が見える。

 美弥は差し込む光の中へ飛び込んだ。

「ここは……?」

 森を抜ければ小径に出るはずなのに、美弥は今、潮風に吹かれている。蒸気を噴かす大きな船が何隻も泊まっている。

 ここは港だ。

 船に乗り込む人、積み荷をする乗組員、別れを惜しむ家族達。

 突然のことに美弥は当惑したが、まごまごしている時間はない。

「阿頼耶様は……?」

 美弥は阿頼耶を捜した。

 絶対にいる。ここにいる。美弥は確信していた。波止場に群れる人たちをかきわけ、美弥は阿頼耶を捜す。どの船が仏蘭西行きなのか美弥には分からない。闇雲に走り、見渡し、叫ぶ。

「阿頼耶様……阿頼耶様ぁっ!」

 広い港に美弥の声は虚しく拡散し、波の音と汽笛に消されていく。

(絶対、絶対ここにいる……!)

 胸の前に小箱を握りしめ、自分に言い聞かせる。この小箱が望みを叶えてくれるはずだ。あの店主は嘘を吐かない。だから美弥はここに来た。

 身なりの整った乗客達の中、一際質の良い服に身を包んだ一団がいる。

 あれだ!

「阿頼耶様ぁぁぁぁっ!」

 叫んだ。

 振り返ったのは焦げ茶色の帽子をかぶった紳士。

 見間違えるはずがない。

 鳶色の髪、鳶色の瞳をした愛しい人がいる。

「美弥さん……?」

「阿頼耶様……阿頼耶様!」

「美弥さんっ!」

 美弥は阿頼耶の胸に飛び込んだ。胸に広がる懐かしい匂い。柔らかく包み込む腕。全てが愛おしい。

「どうして……美弥さん、どうして此処に……」

 言葉が美弥を否定しても、阿頼耶の腕は美弥をしっかりと抱き留めてくれている。肩に顔を埋め、力を込めて美弥を抱き締めてくれる。

「阿頼耶様に……阿頼耶様に渡したいものがあるんです」

 美弥はゆっくりと阿頼耶の腕を解き、握りしめていた小箱を渡す。ベルベット生地の箱。美弥は阿頼耶に開けるよう目で訴えた。手触りの良い小箱を受けとり、阿頼耶はそっと蓋を開けた。

「……カフスだ」

 中に入っていたのは小さなカフス釦。銀の縁取りに青い石で花を模したカフスだ。

「竜胆のカフス……。これを僕に?」

 美弥は頷いた。

「阿頼耶様、私……私、阿頼耶様に伝えなければいけないことがありますの」

 ――心の声を口に、望むものを手に。

 野分の言葉を胸に、美弥は阿頼耶に告げる。




 そこで映像が途切れた。

 大きく口を開けていたモビールの魚が薄い口を閉じた。きらきら光る金属の魚たちは何事もなかったかのように揺らめいて空気の空を泳いでいる。

「おや、覗き見は飽きたのかい?」

「貴女こそ、事の顛末が気になって来たんですか?」

 深い溜息を吐いて野分はブリジッタに問いかけた。いつの間にか店に入り込んでいたブリジッタは今日も優雅に煙管を吸う。

 ぎ、と椅子を軋ませ野分は立ち上がる。

「……客の望みが叶ったかどうかを見届けるまでが仕事じゃなかったのかい?」

 お気に入りの硝子細工を並べ直し、美弥が脱ぎ捨てていった振袖を拾う。抜け殻のように落ちた着物の手触り、仄かに漂う香に野分はうっとりと目を細めた。

「思った通り、上等な品ですね……。帯締めの石は瑪瑙でしょうか……嗚呼、落として来られたというかんざしも是非頂戴したかった……」

 濡れて破れた足袋は投げ捨て、片方だけになった草履は拾った。

「ポラリス、森の中に落ちているもう片方の草履を拾ってきてくれ」

 一体の人形がぴょいと跳ね、扉を開けて森へと出て行った。

「こんなに綺麗な草履を置いてくるなんて勿体ない」

 鼻歌混じりで着物を衣紋掛けに掛けながら野分はブリジッタの問いに漸く口を開いた。

「……私はちゃあんと見届けましたよ。それに、結末が分かっている芝居程つまらないものはないんですよ」

 役者にもよりますが、と野分は口を尖らせた。

「アンタ、あの二人がどうなったか分かっているって言うのかい?」

 訝しげに尋ねるブリジッタに野分は不敵に笑う。

「答えはもうすぐここに来ますよ」

 深く椅子に腰掛け、野分は指を振る。指揮者のように一定のリズムで四拍子。何かの鼻歌まで歌いながら。

「さあ、扉を開けていらっしゃい」

 ぎ、蝶番を軋ませて、店の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

 先程野分が放った人形と共に入ってきた客を見てブリジッタは目を丸くした。

「おやまぁ……」

 頭の先から爪先まで、舐めるように眺めても驚きを隠せない。

「ブリジッタ、彼は彼女の弟君です」

「二卵性は似ないって思っていたけど、長生きはしてみるもんだねぇ」

 短く切りそろえられた黒髪に、気の強そうな大きな黒い瞳。少し拗ねたような顔はこの年頃の少年にはよくあること。

「お待ちしておりましたよ、孝匡さん」

「……俺は単なる遣いですよ」

 孝匡は野分と目を合わせることなくこぼした。ポラリス人形が持っている美弥の草履を横目でじっと見るばかりで。

「嗚呼、その草履は御渡し出来ませんよ。洋服の御代の内なので」

「……結構です」

 不機嫌を隠すことなく孝匡は言い放った。

(……やっぱり此処は苦手だ)

 美弥の気を惹いたさまざまな商品も、孝匡の目にはただの不気味なシロモノに過ぎない。宙に漂う魚のモビールも、店中に飾られている人形達も、全てが孝匡の心をざわつかせる。

 孝匡は黙って野分の机に一つの包みを置いた。野分は面倒くさそうに包みを開き、中を確かめる。

「……確かに、頂戴しました」

 目を細め、作ったような笑顔を張り付かせる。その顔が猫の化け物みたいで孝匡は、嫌いなのだ。

「それより大変でしたよ? 貴男が店の通り道に潜んでいてくれた御陰で結界の魔法が発動してしまって……。道から外れた美弥嬢は自殺まで計ろうとしたのですよ」

 わざとらしい身振り手振りを交えて野分は切々と訴えた。だが、孝匡は相手になどしない。したくもない。

「けど美弥は死ななかった」

「私が手を出したからですけど」

「ならそれでいいじゃないか。元から貴方の魔法が出来そこないだったという話で」

「……これは手厳しい。大体、通行制限の魔法をかけたのは私ではなく父だというのに……」

 野分はポラリス人形を抱きよせ、よよよと泣くふりをする。器用に人形の慰めを受けながら。

「それで、美弥はちゃんと行きましたか?」

 呆れたように溜息を吐きながら尋ねた。

「ええ、それはもう」

 ――ただし、今どこでどうなっているかは知らないが。

 野分は全てを語らない。孝匡は野分の言葉の断片だけで胸を撫で下ろした。

「美弥には幸せになってもらいたいんです。俺の姉には、父や俺の政治の道具として生きるなんて殊勝な人生、似合いませんから」

「……でしょうね。跳ねっ返りで、お転婆で……それでいて、繊細なレディでしたよ」

 孝匡は初めて野分の意見に賛同した。

 この胡散臭い店の店主には美弥という人間が見えていたのだ。孝匡が生まれて以来ずっと傍らにいてやっと理解できる美弥を、この店主はもう見抜いていやがる。

 何だか悔しい気もするが、野分が言うのなら美弥はもう大丈夫だ。ふぅ、と息を吐き、孝匡は呟いた。

「では、俺の仕事はここまでで、これからです」

「そうですね。貴男は一刻も早くここから立ち去り、家のゴタゴタをどうにかなさってください」

 野分は虫でも追い払うように手を振った。生粋の華族として育った孝匡には経験のないほどの侮辱だったが、これ以上この男と関わりたくはなかった。黙って会釈をして、孝匡は店から立ち去っていった。

「……あの子は一体何をしに来たんだい?」

「言ったでしょう? 遣いだって」

「誰の? 何の?」

「御自分で考えては?」

「考えて出した答えが常に正しいとは限らないよ」

「それは既に達観し、諦念を滲ませる老婆の戯言ですね、ブリジッタ」

 はん、と鼻を鳴らし、ブリジッタは煙を吐き出す。

「つべこべ言ってないで説明しな」

 忌々しい、と口走らんばかりの形相でブリジッタは野分に言い放つ。肺腑の底から吐き出されたような大きな溜息で野分は答えた。

「嗚呼、貴女は酷な人だ。この私に三文推理小説のような謎解きを迫るだなんて。嗚呼、嘆かわしい!」

 またも泣き真似をする野分とそれをあやすポラリス人形の寸劇が始まった。仰々しい台詞回し、わざとらしい振る舞い。歌舞伎の女形めいた泣き崩れ方にブリジッタは若干不快感を覚え、歯を剥いた。

「まぁ、貴女がそこまで言うなら御説明いたしましょう」

 わざとらしく咳払いをして、

「実は」

 続けた。

「美弥嬢は私の真の客ではありません」

「……あ?」

「私は美弥嬢の望みを叶えてほしいという、ある人物からの望みを叶えるべく動いていました。その人物とは、」

 机の上に無造作に投げ出された包みを指した。

「この御代の持ち主でした」

 丁寧に紙包みを破り、野分は中身を取り出した。細長い箱だ。

「……流石に良い品です。こういったものを妙香と言うのでしょうね」

 目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。嗅覚のない人形の野分には分からないが、蓋を開けた瞬間から店中に広がった香りをブリジッタは感じていた。

「この匂い……嬢ちゃんの着物からもするね」

「これは伽羅の香木。それも一級品です。望みを叶える御代として頂戴しました」

「じゃあ、あの坊やがアンタの真の客とやらかい? そんな一級品、子爵の坊っちゃんくらいしか手に入らないだろう?」

 ブリジッタの意見に野分は目を丸くした。予想外だとでも言うように。

「……違うのかい?」

 自分のカンが外れることほど嫌なことはない。苦々しい思いをしながらもブリジッタは無言で野分に問い続ける。

「……確かに、孝匡さんも美弥嬢の幸せを心から渇望する人間の一人には違いありません。この国の、この時代の男性としてはなかなか進歩的な思考の持ち主ですし。彼、軍人や政治家よりも思想家の方が向いてますね」

 皮肉を含んだ笑いにブリジッタは舌打ちをした。

「違うなら違うとはっきり言いな」

「別にハズレではありませんよ。彼自身が客ではなく、真の客の遣いですから」

 箱を元通りに包み直し、野分は嘯いた。

「今回の一件、その客は裏で糸を引きまくりました。ええ、それはもうこそこそと姑息に。彼はとても回りくどく、それでいて効率的で、精神的に自他を崩壊へと導きつつも、肉体的には清廉潔白。裏の裏の裏をかいて正々堂々真っ向勝負を仕掛けるという全く狡猾極まりない人物」

 硝子玉の瞳が鈍く光った。


 「私の客は姉小路阿頼耶です」


 ブリジッタは耳を疑った。

 彼女の中でその名前は選択肢にすらなっていなかったのだから。

「……まさか」

 絞り出した言葉は虚しく伽羅の香りにかき消された。

「姉小路阿頼耶氏の望みを叶えるためにはまずは美弥嬢をこの店へと誘わねばなりませんでした。なので阿頼耶氏は一芝居打った。それが美弥嬢との劇的で曖昧な婚約破棄話です」

 野分は机の抽出から一体の人形を取り出した。鳶色の髪、鳶色の瞳をした阿頼耶にそっくりな人形。ぞんざいに床に放り投げると見事な着地を披露した。

「阿頼耶は困り果てていました。ある日、御国から渡仏の任の打診があったからです。勿論阿頼耶は喜びました。またとない好機ですからね。急いで家に戻り、父上に相談したそうです。するとどうでしょう。一家の長である父・姉小路伯爵はこともあろうに髙原家の政敵、一之瀬家との縁談を持ってきていたのです。美弥との縁談を破棄し、一之瀬の令嬢と結婚せよ。それが老獪な伯爵の出した渡仏の条件でした」

「あの嬢ちゃんは伯爵には気に入らなかったのかねぇ?」

「さあ? どうせ権力にしがみつこうとする老人の悪知恵が働いたのでしょう。髙原家よりも一之瀬家の方を上と見た、伯爵の打算です」

 阿頼耶人形は悩んでいるのか、腕組みをしてうろうろと回りはじめた。

「阿頼耶氏は悩みました。父である姉小路伯爵に逆らえるでもなく、学問を究める野心もある。かといって阿頼耶は美弥を諦めきれない。……人間の愛情というものは互いが互いを思うほど強く、融通が利かなくなるものです」

 皮肉を込めて野分は薄く笑う。

「そして彼はこの店に来た」

 徘徊を続ける阿頼耶人形に野分は恭しく頭を下げた。人形劇の始まりだ。

「彼の言霊はあの金の秤の分銅を宙へ投げ出すほどの重さでした。あの時は跳んでいった分銅がペガサスの硝子細工の羽根を粉砕してしまって……。困ったものです」

 めっ、と悪戯っぽく阿頼耶人形を窘める野分をブリジッタは呆れたように眺めていた。

「で、阿頼耶はどんな望みを言ったんだい?分銅を吹っ飛ばすほどなんだ。よっぽどなんだろう?」

 吐き出した煙で輪を作りながらブリジッタは言った。

「……姉小路阿頼耶という人間は強欲な男ですよ」

 阿頼耶人形を跪かせた。まるで神に祈る清教徒のように。そして野分は答えた。

「彼の望みは、『美弥の心のままに』……です」

「……心のままに…………?」

 実に腑に落ちない、よく分からない望みだ。

「この『澪標工房』を訪れる人間達の望みは実に明快です。美弥嬢が持ってきた号外の女性。彼女の場合は『次の縁談を成立させたい』でした。その前の客の望みは『新しい染めが出来るまで命を保たせてほしい』。……その方は重篤な内臓の疾患でしたね。誰もがその本能や欲、直感、そういった理由のつけられない感情に突き動かされて此処に来ます。そして本能から発せられる叫びは単純明快」

「けれども姉小路阿頼耶は違った……」

 薄笑みを浮かべて野分は指を回した。阿頼耶人形が回れ右をして自ら他の人形達の座る棚へと向かって行く。ずるりと背を滑らせて野分はだらしなく椅子に座った。

「全く彼は傲慢で狡猾で卑屈な男です。自分は美弥を諦められない。しかしながら美弥が自身をどう思っているのか分からない、知るのが怖い」

 手持ちぶさたになったのか、説明をしながら野分は千代紙を折り始めた。

「自分が全てを投げ打って……伯爵家の財産や華族としての特権ですね、こういったものを持たない、一個人の阿頼耶として美弥に共に仏蘭西へ旅立ってくれまいか、そう言った時にどういう返事が返ってくるのかを彼は恐れていました。心の伴わない生涯の伴侶など、阿頼耶は欲してはいなかった」

「だからこその『美弥の心のままに』……かい」

「……ええ」

 あっという間に鶴を折り、次の千代紙に手を出した。野分の硝子の瞳は順繰りに折られていく千代紙を映すだけだった。

「美弥嬢の心を知るために阿頼耶氏は突然の婚約破棄を言い渡し、彼女を店へと誘いました」

「全てはアンタの筋書き通りってわけかい?」

「いえいえ、このシナリオは私と阿頼耶氏の共作です。作・姉小路阿頼耶、澪標工房店主の野分、主演・髙原美弥、そして小道具・髙原孝匡……といったところでしょうかね」

「小道具? あの坊や、ただのお遣い以外の仕事もしていたのかい?」

「ええ。とても大事な小道具を作ってくれました」

 かたり、音を立てて棚から一つの瓶が漂ってきた。ふらふらと頼りない動きで宙を舞い、小瓶は机の上にことりと落ちた。

「それは?」

「美弥嬢に渡した薬です。全く、阿頼耶氏の望みだけでなくサービスで美弥嬢のまで叶えてしまったのです。私の商売人としての心意気に感謝してもらいたいくらいですよ」

 野分の瞳と同じ色をした小瓶を横目で見た。

「その瓶の色……変身薬だね?」

「その通りです。尤も、美弥嬢には性別を入れ替える『とりかえばやの妙薬』などと嘘を吐いてしまいましたがね……」

「……それで、あの坊やは小道具かい」

 大方察したようで、くつくつとブリジッタが小さく笑った。

「全く意地の底意地の悪い店主がいたものだ」

 ブリジッタは皮肉を込めて言った。

「変身薬には変身する対象の情報を必要とします。最適なのは血液ですが、まぁ、爪や髪でも何でも良いんですが……。阿頼耶氏は美弥嬢に話す前に孝匡さんに相談を持ちかけていたそうで……」

「坊やと阿頼耶はグルだったんだね?」

 野分は黙って頷いた。黒革の手袋をはめた手だけは器用に折り紙を折りながら。

「孝匡さんは快く……とまでは行きませんでしたけど、何とか血液を提供して下さいましたよ。それで変身薬の完成です。これを美弥嬢に自然に渡せばあとはどうにかなるようになります」

「けれども二人が組んでいることを知られては元も子もないね」

「だから嘘を吐きました。変身薬ではなく『とりかえばやの妙薬』などと有りもしない薬の名前を言って。……思っていたよりもすんなりと阿頼耶氏の思惑通りにことが進んだので驚きましたけどね」

 二羽目の鶴を折り終わった野分の手が再び千代紙に伸びた。

「狡猾な男の思惑通りに行くことほど腹立たしいものはありませんが、美弥嬢の強情さは想像以上でした。痛快です」

 紺色の無地の千代紙を丁寧に折りながら野分は嘆息した。

「この国の女性は極端ですね。自らの欲求、心の叫びに忠実すぎるか、もしくは耳を塞ぎたがるか。後者の方がタチが悪い。余程切羽詰まらないと本音が見えませんからね。お可哀想に」

「それが美徳ってヤツ何じゃないのかい?」

「そんな傍迷惑な美徳、燃やしてしまえばいいのです」

 気に食わない。

 美しい人形の顔を歪めながら野分は吐き捨てた。

「過ぎた欲は身を滅ぼします。けれども自分を抑えて生きて、何が楽しいのでしょうね」

「……さぁね。私らには一生分からないだろうね」

 揺らめく煙管の煙の隙間からブリジッタは店を見渡した。

 ブリジッタの中には野分ことギルベルト・ケルルがまだ熱と肉を持った人間の頃からの記憶がある。赤子のギルベルトを取り上げたのがブリジッタの持つ記憶の本来の持ち主、ハンス・ケルルの弟子の魔女。それから代々受け継がれてきた剥製の秘術と記憶。その記憶の海の中でも、この店がケルル父子の住んでいた森の家と重なる。どちらがどちらなのか分からなくなる。

 無数の人形、小さな硝子細工。

 天井からぶら下がった魚のモビール、何かの動物の骨。

 堆く積まれた書物とその間からはみ出たメモ用紙。

 棚に収まった瓶には薬が入っていたりいなかったり。

 野分の作るレース編み、抽出からはみ出たリボンや端布。

 絵画のように額に入れて壁に掛けられている、コルクボードに貼り付けられた無数の釦。

「……おや?」

 在りし日の家と何ら変わりのない無秩序さの中、ブリジッタは違和感を見逃さなかった。

「野分、アンタ、釦を一つ売ったのかい?」

 その額縁から釦が消えることは珍しい。野分は基本的に満足のいく作品しか飾らない。特に釦に関してはそれなりのこだわりがあるらしく、ブリジッタの記憶の限りではここ数十年、入れ替えがされていない。

「ええ。狡猾で卑屈な阿頼耶氏に煮え切らない美弥嬢が渡したのです」

「そりゃアンタにしては随分太っ腹なことをしたね。殆どタダ働きじゃないか」

「そうでもありませんよ」

 同じ紺色の千代紙を手に取り、忙しなく両手を動かしながら野分は答えた。

「『美弥の心のままに』が彼の望みでしたからね。彼女は彼女の心に従った。釦はその結果に過ぎませんよ」

 折り終わった作品を二つ並べた。紺色の千代紙で作った竜胆の花。

「彼女の手に落ちたのは竜胆のカフスボタン。私が銀とソーダライトで拵えたものです」

「ソーダライト……霊石ラピスラズリの構成石だね」

「発色の良い石が少ないので手に入れるのに苦労しましたよ」

「そんな品を売っちまったっていうのかい? 呆れた子だよ」

「けれどもあのカフス以外に美弥嬢の心を現すものはこの店にはありません」

「嬢ちゃんの心……ねぇ…………」

「美弥嬢の心にあった望み。それを叶える石と花。あのカフスはまさにそれそのものでした」

 野分は折り紙の竜胆を弄びながら言う。

「ソーダライトは不安を取り除き、勇気、知性、鋭い感覚をもたらす力があります。美弥嬢は阿頼耶の自信のなさを見抜いていたんでしょうね」

 いい気味だ。くしゃみでもするように野分は小さく笑った。

「そして竜胆。……ブリジッタ、竜胆の花言葉をご存知ですか?」

「……いいや。私はアンタと違って花やら鉱物やらには詳しくないんでね」

 ブリジッタの専門は生物だ。植物学や鉱物学などは魔法の一環として教わったものの、さほど頭に残っているわけでもない。野分はわざとらしく肩を竦め、言った。

「竜胆の花言葉は、『悲しみにくれる貴方を愛す』……ですよ」

「『悲しみにくれる貴方を愛す』……」

 悲しみにくれる貴方を愛す。

「……そりゃ随分と捻くれた愛情だね」

 はん、と鼻を鳴らした。

「そうでしょうか?」

「だってそうだろう? 相手が喜んでいるよりも悲しんでいる時の方が好きだって言うんだ。へそ曲がりにも程があるだろうが」

「貴女は額面通りにしか物事が捉えられないんですね。お可哀想に」

 うんざり。顔にそう書かれてあってもおかしくない顔で首を振った。こんな嫌なヤツに育てた覚えは受け継いだ記憶の片隅にもない。覚えておけよ。ブリジッタが歴代ブリジッタの師匠達に心底腹が立った瞬間だった。

「私はその逆だと思っていますよ」

 硝子の瞳が真剣みを帯びた。

「喩え底知れぬ悲しみに囚われようとも、私は相手を愛する。その覚悟を花に託したものだと私は考えていますよ、ブリジッタ」

 折り紙の竜胆が宙を舞った。くるり、くるりと円を描きながら落下し、ブリジッタの足元に落ちた。

「美弥嬢はどんな時でも阿頼耶氏を愛することを誓ったのです。彼の力になりたいという思いを石に、愛する覚悟を花に託して彼女はそれを阿頼耶氏に渡した」

 美弥の手に落ちたカフス。阿頼耶の手に渡った美弥の心。

「これこそ阿頼耶氏が望んだ『美弥の心のままに』ですよ、ブリジッタ。美弥嬢がカフスを手にして駆け出した時点で、私の仕事は終わっているのですよ」

「……そうかい」

 ブリジッタはそれ以上何も言えなかった。

「アンタがそれでいいなら、いいんじゃないのかい?」

 野分は遠く西の空を見た。既に日は傾き、地平線の彼方が燃えるような赤に染まっていく。東から迫り来る夜の気配を感じながらも、野分はただただ西を見る。

「祈りましょう、ブリジッタ」

 二羽の折り鶴の一羽を手渡し、野分は窓を開けた。冬の夕刻、温い昼とは打って変わって耳の痛くなるような冷たい風が吹き抜けた。

「二人の旅路に幸多からんことを」

 ふぅ、

 手のひらに乗せた鶴を一吹きする。

 呼吸を必要としない野分の代わりにブリジッタが二人分。

 鶴は風に煽られながらも沈む夕陽へと向かって飛んでいく。魔法をかけたのかかけていないのか、ブリジッタは知らない。鶴はそのまま風に乗ってどこかへ行ってしまった。

「……人生は航海の様なものだと言うね」

「そこに幾許かの後悔を詰め込んだ……ですか?」

「上手いこと言ったと思ってんだったらそりゃ勘違いだよ」

「……これは手厳しい」

 空が橙から群青に、藍に染められていく。猫の爪のように細い月が白い輝きを放ち始める。冬の夜の澄んだ空。無数の星の瞬きを硝子玉の瞳に映しながら野分は呟いた。

「伽羅の香は阿頼耶氏の大切な思い出の香りでした」

「……?」

「美弥嬢が藍色のリボンに宿らせた思い出と同じ思い出を、阿頼耶氏は伽羅の香に抱いていたんですよ」

 阿頼耶は忘れてなどいなかった。

 美弥と初めて会った日のことを。

 ひったくりにあった阿頼耶を助けた美弥。

 その時漂った伽羅の香の匂い。

「阿頼耶氏の御代はその香の思い出」

 目を閉じ、野分は胸に手を当てた。

「どんな人間にも、人の心を試す権利などないのです。心を扱う時、代償となるのは心以外の何ものでもありませんから」

 阿頼耶は美弥の心を試した。

 それが「美弥の心のままに」という望みの本質。

「けれど阿頼耶はそれを知らなかった……」

 ブリジッタは呟いた。

「知っていたにせよ知らなかったにせよ、阿頼耶氏は結果的に美弥嬢の心を試したことになってしまった。だから私は御代として伽羅の香を阿頼耶氏から戴いたに過ぎません」

「……それで、阿頼耶は思い出を忘れたということかい?」

「いいえ」

 ブリジッタが小さく身震いしたのに気づき、野分は窓を閉め、暖炉に薪を放った。

「阿頼耶氏は今後一生、伽羅の香の匂いが分からなくなってしまった、というだけです」

 チッ、燐寸を擦る。儚げな火が野分のソバカス面に影を落とす。

「それはまた……酷なことをしたね」

 ぞんざいに投げ入れた新しい火が暖炉の中で赤く揺らめき始めた。残酷な言葉を燃やしてしまうかのように火は炎へと変わり、野分の白磁の肌を赤く照らした。

「けれども阿頼耶氏は支払いをした」

 ふいごで火を大きくしながら野分は続けた。

「思い出は思い出のまま、阿頼耶氏の心に残っています。匂いだって伽羅以外なら分かる。ただ、一番大切な思い出の奥深くに残っていた伽羅の香だけがなくなった。それだけです」

 安いものでしょう? 嘯く野分にブリジッタは何も言えなかった。

 この青年は伽羅の香は愚か、五感という五感を失って悠久の時を生きていかなければならない体なのだから。

 人形の体に人の心が入ると言うことは、かくも苦しいものなのか……。

 ブリジッタは阿頼耶を憐れとは思えても、野分ほど憐れだとは思えなかった。

「美弥嬢は藍のリボンで阿頼耶氏の気持ちを識り、阿頼耶氏は美弥嬢との思い出の香で美弥嬢の心を識った。……全く、皮肉なものですね」

 星が流れた。

 窓に目をやれば、野分の硝子玉の青い瞳に銀の筋が走った。

 土の体がしんと冷えていく。

 野分はそれ以上何も言わず、星を眺めていた。虚ろな体の虚ろな心に、今何が映っているのか、誰もそれを知ることはできない。

 ブリジッタは一言も告げずに店から出て行った。外の空気は冷たく澄んでおり、吐く息が白くなって霧散する。つんと鼻にくる痛みを堪えながら、ブリジッタは帰路につく。家に帰れば弟子が何も知らずに笑って出迎えてくれるだろう。温かいものでも用意しながら。

「……はん…………」

 自嘲気味な笑いを一つ残し、ブリジッタは「澪標工房」を後にした。


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