すべてが嘘に塗れた時
霊峰の頂は、天を突くほどに高く、空気は薄く、ナイフのように冷たかった。
荒い息を吐き出すたび、白い霧が視界を遮る。背後では、男爵――かつて誇り高かったはずのあの男が、死人のような足取りで、それでいて瞳にだけは異常なまでの光を宿して歩いている。
祭壇の前に、一人の影が立っていた。
俺の知っている「妹サキュバス」ではない。白銀の法衣を纏い、神聖な空気を漂わせた、国でも名の知れた高名な祈祷師だ。
「約束通りね♪」
その女が口を開いた瞬間、俺の心臓がどくりと嫌な音を立てた。
姿形は神聖な祈祷師そのものだというのに、その声、その抑揚、その嘲笑うような響きは、あの薄汚い酒場で俺を脅したサキュバスそのものだった。
「連れてきたぞ」
俺は剣の柄を握りしめ、震える声で続けた。
「本当なんだろうな? ここへ連れてくれば、あの女――リリアを生き返らせるというのは」
「ええ、もちろんよ。私たちは嘘をつかないわ」
女が歩み寄る。その足音には重みがない。
彼女は俺を通り過ぎ、その後ろに立つ男爵を見据えた。
「さて、男爵様。あなたは、リリアが生き返るためだったら、なんでもするかしら?」
「……勿論だ!!」
男爵の返答は、一秒の猶予もなかった。
「そのためにここへ来た。金も、名誉も、領地も、すべてを捨てて……私は彼女を、もう一度この腕に抱きたい。それだけが、私の生きる理由だ!」
その狂おしいまでの熱。一人の男が壊れていく、その無惨な光景。
俺の胃の奥から、どす黒い罪悪感がせり上がってくる。俺が彼女を殺さなければ。俺がこいつを連れてこなければ。
「じゃあ、その祭壇に自らの心臓を捧げなさい」
女の言葉は、まるで「お茶を一杯いかが」とでも言うような軽やかさだった。
「馬鹿げてる。よせ、男爵!」
俺は叫んだ。だが、男爵は止まらなかった。
男爵は祭壇の上に置かれた、儀式用の鋭利な短剣を手に取った。そして、かつてのサキュバス……いや、リリアをじっと見据えている。
「いいや、覚悟はある。リリアが戻るなら、私の命など、安すぎる代償だ」
「やめろと言っている! 俺の後味が悪いんだ!」
俺は男爵の腕を掴もうとした。だが、男爵は俺の手を振り払い、氷のような視線で俺を射抜いた。
「お前に、そんなことを言う権利はない。お前が彼女を奪ったんだ。……それに、それがあんたの背負う罪だ。一生、俺の死を背負って生きるがいい」
「…………っ」
何も言えなかった。
(馬鹿馬鹿しい)
心のどこかで、冷めた、だがどこか冷静な自分がそう吐き捨てたようだった。だが、体は動かなかった。
男爵は、迷いなくその刃を自らの胸へと突き立てた。
祭壇の上に、鮮やかな赤が飛散していく。
男爵は最期まで微笑んでいた。その瞳には、再会を信じて疑わない狂信的な輝きがあった。
ドサリ、という重苦しい音が、静寂に沈んだ頂に響く。
捧げられた心臓。流れる血。
「……本当にやりやがった……」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
だが、どれほど時間が経っても、祭壇の上の亡骸は、あの美しいサキュバスとして立ち上がることはなかった。
静寂。ただ、風が吹き抜ける音だけが聞こえる。
「……い、生き返らないぞ! おい、どういうことだ!」
俺は祈祷師に掴みかかろうとした。
だが、彼女は――クスクスと、我慢しきれないといった様子で吹き出した。
「ンフフ♪ ……ねえ、レイエスさん。あなた、本当にサキュバスが『仲間想い』だなんて信じていたの? 陛下があんな野蛮な連中を野放しにするわけがないじゃない」
女が指を鳴らす。
その瞬間、彼女の姿を覆っていた神聖な霧が晴れた。
現れたのは、サキュバスでも祈祷師でもなかった。
彼女が着ていたのは、俺と同じ――この国の傭兵組織と同じ紋章が刻まれた、薄汚れた魔術師のローブ。
「……擬態だと?」
「そうよ。簡単な暗示と、あとはあなたの『無意識な罪悪感』が、勝手に私をサキュバスの妹に仕立て上げてくれた。……はぁ、助かったわ、おかげで仕事がやりやすかった。レイエスさん、休暇で腕がなまったのかしら?」
俺は呆然とした。
サキュバスの妹なんて最初からいなかった。俺は、自分を責める気持ちに漬け込まれ、幻影を追いかけていただけだった。
「サキュバスにそそくさと骨抜きにされた貴族なんて、他の貴族にとっては目障りだったのよ。あいつが仕事をこなさなくなったせいで、どれだけの利権が滞ったか知ってる? ……でも、死んでくれれば話は別。ここはすっかり『金脈』になったわ。これで、あなたも私も安泰よ♪」
女は懐から、ずっしりと重い袋を取り出した。
中から溢れ出した金貨が、男爵の死体のそばに、ゴミのように投げ捨てられる。
「男爵の資産は没収。あいつには恨みはないわ。あなたにもね。……さあ、それを受け取って、お互いすべてを忘れてお別れしましょう。あなたは正義を全うし、私は仕事を終えた。それでいいじゃない? ねえ?」
チャリン、という金貨の音が、耳の奥を掻きむしる。
男爵の血に汚れた金貨。
俺の「正義」が、この「金」に変えられた。
俺が信じた「罪」も、俺が背負った「後味の悪さ」も、すべてはこの女の手のひらの上での出来事だった。
「……あぁ」
視界が真っ赤に染まった。
それは月光のせいでも、男爵の血のせいでもない。
俺自身の内側から溢れ出した、制御不能な「何か」だ。
「あら、どうしたの? そんな顔をして――」
女が言葉を終える前に。
俺の腕は、自分でも驚くほどの速さで剣を抜いていた。
今まで、どんな戦場でも感情を抑えてきた。
冷徹に、効率的に、命を奪ってきた。
けれど、今、この瞬間だけは――その過ちを、止めることができなかった。
肉を断つ感触。絶叫すら上げさせない。
俺の剣は、魔術師の細い首を、男爵の心臓と同じ場所に並べた。
祭壇の上に、また新しい赤が広がる。
俺は血にまみれた金貨を掴み、空に向かって吠えた。
そこにはもう、愛も、正義も、真実もなかった。
俺は、正義のためにサキュバスを殺し、罪悪感のために貴族を死なせ、最後に激情で「人間」を殺めてしまった。俺は完全に「向こう側」へ堕ちていってしまったのだと悟った。
それを止める心すら、もう、今の俺は持ち合わせてはいなかった。




