苦難の時
仄暗い石造りの部屋には、冬の墓所のような冷気が満ちていた。
目の前の男——かつては「慈愛の準男爵」と謳われた若き貴族は、今やただの精巧な人形に成り果てている。豪奢な椅子の背に身を預け、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。
その手元の机には、俺が奪った「サキュバス」の形見である髪飾りが置かれている。
「……消えろ、野良犬。それとも、まだ俺から奪い足りないものでもあるのか」
声には、激情すら混じっていない。ただ、深淵の底から響くような静かな憎悪だけが、刺すような重圧となって俺の肩にのしかかる。
「あんたに死なれては困る。それだけだ」
俺はあえて、傭兵らしい無遠慮な口調を崩さなかった。罪悪感で喉が焼けそうだが、今ここで俺が膝をついて謝罪したところで、この男は動かない。憐れみは、絶望している人間をさらに追い詰める毒だ。
「死? ……ふん、滑稽だな。俺の魂は、あの日お前の剣が彼女を貫いた瞬間に死んでいる。残ったのは、お前をなぶり殺す理由を、必死に探しているだけの抜け殻だ」
「なら、その理由をくれてやる。——彼女を、取り戻しに行くぞ」
男の眉が、わずかに動いた。死んだ魚のような瞳に、鋭い、針のような光が宿る。
「……貴様、狂ったか。あの子はもう、冷たい土の下だ」
「土の下なら、掘り返せばいい。……あんたのその綺麗な手でな」
俺はわざと挑発するように鼻で笑った。男の瞳に、明確な殺意が爆ぜる。
「……貴様に何がわかる。彼女を奪った、人殺しの分際で」
「ああ、俺の剣があの女の鼓動を止めた。それは事実だ。だがな、男爵。あんたが今ここで死人みたいに座っているのは、俺への復讐を忘れるほど絶望してるからか? それとも……『守れなかった自分』への言い訳を、静寂の中に探しているからか?」
男の呼吸が止まる。俺は、その急所にさらに言葉をねじ込んだ。
「禁忌の魔術、蘇生の儀。俺の故郷に伝わる伝承。……成功するかは分からない。だが、もし成功したとして、目覚めた彼女の前にいるのが『俺という仇』と『抜け殻になった恋人』なら、彼女は二度、死ぬことになる」
「……黙れ」
「嘘だと思うなら、俺を殺してから確かめろ。だがな、あんたには『権利』がある。俺を憎み、呪い、いつかその手で殺す権利が。同時に、彼女を生き返らせる可能性を捨てる権利は、あんたにはないはずだ。……あんたが、彼女の唯一の『主』であり、『男』だったのな」
俺は一歩、踏み出した。男の放つ、肌を刺すような殺気が強まる。
「嘘だ。お前は、自分の罪を軽くしたいがために、俺に甘い夢を見せようとしている。……そうだろ?」
「嘘だと思うなら、それでもいい。だが、あんたはこのままここで、彼女の思い出と一緒に腐っていくのか? 少なくとも俺は、あんたを殺して自分も死ぬほど、潔い男じゃない。……俺は、俺が殺した女に、もう一度だけ謝りたいんだ」
俺は懐から、一房の枯れかけた花を取り出し、机に置いた。彼女が愛していた、名もなき野花だ。
「あんたには『権利』がある。俺を憎み、呪い、いつかその手で殺す権利が。だが、彼女を生き返らせる可能性を捨てる権利は、あんたにはないはずだ。……彼女を誰よりも愛していたのは、あんたなんだろう?」
男の指が、ピクリと痙攣した。静かな怒りが、音を立てて熱を持ち始める。
「……もし、俺を動かすために口から出任せを言っているのなら」
「ああ」
「地獄の果てまで、お前を追い詰めて呪い殺してやる」
男がゆっくりと立ち上がった。その目はまだ、絶望の色に染まっている。だが、その奥底に、俺という「仇」を道連れにしてでも掴もうとする、狂気じみた執着が火を灯していた。
「交渉成立だな。……さあ、行こう。あんたの望む地獄へ」
俺は背を向け、一歩先に歩き出した。
背中に突き刺さる視線が痛い。だが、それでいい。この男を動かせるのは、希望ではなく、俺への憎しみと、拭いきれない未練だけなのだから。




