地獄の底
安酒場の空気は、いつだって脂ぎった喧騒と、安物のエールがこぼれた酸っぱい匂いに満ちている。
だが、今の俺にはその不快ささえ、現実を繋ぎ止めるための命綱だった。
「……クソが」
喉の奥で毒づきながら、温くなった麦酒を流し込む。
あの夜から、一週間。目を閉じれば今でも、月光に照らされたあの惨劇が網膜に焼き付いている。
リリアと呼ばれたあの怪物を斬った時の、手応え。そして、その亡骸を抱いて獣のように咆哮した、あの男の絶叫。
「救ってやったんだ。……そうだ、俺はあいつを救ったんだ」
自分に言い聞かせるように呟くが、言葉は泡と一緒に消えていく。
あの貴族の男は、今も領主館の片隅で、食事も摂らずに伏せっているという。俺に対する恨み言一つ吐かず、ただ、魂が抜け落ちた抜け殻のようになって。
復讐に来られないのは助かるが、あいつの静かな絶望は、刃を向けられるよりも重く俺の肩にのしかかっていた。
「だったら、助けてあげる?」
耳元で、鈴を転がすような、場違いに甘い声がした。
酒場の喧騒が、その一瞬だけ遠のいたような気がした。
「……ッ!」
反射的に腰のナイフに手をかけ、振り返る。
そこにいたのは、酒場には到底そぐわない、透き通るような白い肌の女だった。
豊かな銀髪の間から覗くのは、あの夜に見た怪物と同じ――山羊のような、歪な角。
「お前は……サキュバス!? どうやって……街の障壁を!」
「しっ。静かにしないと、あなたの『良からぬ噂』が立つわよ? 正義の傭兵様が、サキュバスを連れ込んで密談中……なんてね♪」
女は楽しげに目を細め、俺の向かいの席に滑り込んだ。
彼女が座った途端、周囲の酔客たちの視線が吸い寄せられる。だが、誰も彼女の正体には気づかない。彼女の放つ強烈な魅了の香りが、男たちの理性を霧のように覆い隠しているのだろうか。
「な、なんの用だ。俺を殺しに来たのか」
「まさか。私は、あの肉片になった塊の妹よ。リリアの、ね」
妹。その言葉に、背筋が凍るような戦慄が走った。
あの惨殺死体の身内が、目の前で微笑んでいる。
「……つまり、俺の首を獲って、姉の供養にしたいわけか」
「いいえ。あんな不器用な死に方をした姉なんて、自業自得だわ。でもね……」
彼女はテーブルに身を乗り出し、長い爪で私のジョッキの縁をなぞった。キィ、と嫌な音が鳴る。
「サキュバスの仲間たちが、姉を探しにここへ来たらどう思うかしら? 彼らは執念深いわよ。愛する同胞が、人間に無残に切り刻まれたと知ったら……。あなたは、これから先、ぐっすりと眠れる日が来るかしら?」
「…………っ」
「いいえ。眠れないわね。だって、あなたのせいで、あなたが行く先々の村や街が真っ赤に染まるんですもの。罪のない子供たちや、優しそうな村人たちが、姉の代わりに肉片に変わっていく……。ねえ、素敵じゃない?」
「クソッ!!」
拳を叩きつける。ジョッキが踊り、麦酒がこぼれた。
だが、彼女は瞬き一つせず、その赤い瞳で俺の心の奥底を覗き込んできた。
俺が一番恐れていたことだ。
一匹殺せば済むと思っていた。だが、魔物には同胞がいる。俺一人の首で済むはずがない。俺の「正義」が、さらなる地獄を招く。
「……何が望みだ。俺に何をさえたい?」
掠れた声で、俺は敗北を認めた。
女は、満足そうに唇の端を吊り上げた。
「簡単よ。――生き返らせればいいの」
「正気か。……死人を、それも魔物を生き返らせるだと? 一体どうやって」
「方法は私が用意するわ。姉は特別な個体だったから、その魂を器に戻す方法は、私たちの一族に伝わっている。……でも、一つだけ足りないものがあるの」
彼女はそこで言葉を切り、俺の瞳をじっと見つめた。
「『愛』よ。姉を呼び戻すための、道標となる純粋な愛。……あの、姉にお熱だった貴族の男。彼を霊峰の頂まで連れてきて」
「……あいつを?」
俺は絶句した。
俺がリリアを奪い、俺が絶望の淵に叩き落とした、あの男。
俺の顔を見ただけで、彼は再び狂い出すだろう。そんな男と共に、魔物が棲むと言われる霊峰を登るなど――。
「彼なら、喜んで来るわ。たとえその先に何があろうともね。……さあ、どうする? 傭兵さん。村が焼けるのを見るか、それとも姉を蘇らせる、ちょっとした旅に出るか。ンフフ♪」
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を揺らして酒場を出ていこうとする。
その背中には、禍々しい尻尾が揺れているのが見えた。だが、周りの酔客たちは、ただ美しい女が去っていくのを、惚けたような顔で見送っている。
「……ちくしょう」
汚らわしいサキュバスの気配が消えた後、俺はジョッキに残った、泥のような麦酒を一気に流し込んだ。
胃の奥が熱く焼ける。だが、その熱さよりも、これから始まる「救いのない旅」への予感が、俺の喉を締め付けていた。
俺は椅子を蹴立てて立ち上がると、武器を掴み、あの貴族が眠る屋敷へと足を踏み出した。




