異なる夜
夜の森は、むせ返るような百合の香りに満ちていた。
湿り気を帯びた風が、私の薄いドレスの裾を執拗に撫でていく。月は熟しきった果実のように赤く、重たく空に居座り、地上を銀色ではなく、どろりとした血の色に染めていた。
草を分ける音が聞こえる。この、焦れったいほどに急いだ足音。私の心臓が、甘い疼きと共に跳ねた。
「今日も無事会えたね」
藪をかき分けて現れた彼の姿を見た瞬間、私の視界は彼という存在だけで塗り潰された。
金属の甲冑が月光を反射してぎらりと光る。戦場から駆けつけてきたのだろうか、彼の肩は激しく上下し、剥き出しの首筋からは熱い汗が滴っていた。
「ふふ。待ってたわ♪」
私はわざとらしく首を傾げ、最高の微笑みを浮かべて見せる。
彼は吸い寄せられるように歩み寄り、私の細い腰を、壊れ物を扱うような手つきで抱き寄せた。鉄の冷たさが肌に伝わるけれど、その奥にある彼の体温は、私を焼き尽くさんばかりに熱い。
「君に会えなくて寂しかった。……この時を、一分一秒、ずっと待っていたんだ。君のいない戦場は、ただの地獄だったよ」
彼は私の髪に顔を埋め、深く、深く息を吸い込む。私の香りを、私の存在を、一滴も漏らさず魂に刻み込もうとするその必死な姿。愛おしい。なんて純粋で、壊れやすい生き物かしら。
「ふふ。私もよ」
私は彼の胸に頬を寄せ、その力強い鼓動を聴く。この音、この熱、この全幅の信頼。これこそが、私が何百年も探し求めていた栄養。
けれど、その甘美な沈黙は、無作法な足音と、冷ややかな金属音によって唐突に切り裂かれた。
「そこまでだ」
背後から突き刺さる、氷のように冷徹な声。
彼が弾かれたように私を庇い、背後の闇へと鋭い視線を向けた。私もまた、彼の肩越しに「それ」を見る。
そこに立っていたのは、鉄と血の匂いを全身から漂わせた、一人の男だった。
使い込まれた剣を強く握り締め、感情の欠落した瞳でこちらを射抜いている。その男の背後には、数人の武装した兵士たちが、まるで害獣でも見るかのような忌々しげな表情で控えていた。
「あら……お友達? じゃあ、なさそうね」
私はわざとらしく指先を唇に当て、クスクスと喉を鳴らした。
重苦しい空気。彼が私の前に一歩踏み出し、守るように腕を広げる。その背中がわずかに震えているのがわかった。恐怖ではない。怒りと、そして「奪われること」への拒絶だ。
「その男を連れ戻しに来た」
傭兵と呼ばれた男が、一歩、歩を進める。その足音が、私たちの楽園を土足で踏みにじっていく。
「性根の腐ったサキュバスからな。……おい、貴族様。いい加減に目を覚ませ。あんたが抱きしめているのは女じゃない。お前の精を吸い尽くして殺す、化け物だ」
「何を言うんだ!」
彼が叫んだ。その声は、森の静寂を震わせ、夜鳥たちを飛び立たせる。
「彼女は俺の愛しき伴侶で、女神で、ジュリエットなんだ! 彼女以上に俺を理解し、愛してくれる存在がこの世にいるものか!」
彼の絶叫に、私はうっとりと目を細める。ああ、素敵。なんて完成された世界。
けれど、傭兵は吐き捨てるように言葉を重ねた。
「尻尾の生えた女神なんて気味が悪い。……いいか、現実を見ろ。あんたには国に残してきた、ちゃんと人生を共にすると誓った婚約者がいるんだろ? その女性はあんたの帰りを、涙を流して待っているはずだ」
「ふふ。政略のね」
私は彼の背中に指を這わせ、その耳元で甘く囁いた。
婚約者? あの、愛も熱もない契約書の一行に等しい女のことかしら。
「彼と私の愛こそ本物よ。あんな冷え切った義務の繋がりなんて、私たちの前では砂の城も同然。そうでしょう?」
「そうだとも!」
彼は私の言葉に、狂信的なまでの力強さで頷いた。
「あんな女と老いるまで共にするなんてごめんだ! 義務や責任で縛り付けるのが愛だというなら、そんなものは捨ててやる! 俺が求めているのは、魂が震えるほどの、この真実の愛なんだ!」




