第9話 足音の正体、泣き笑いの影
夕方。足音が廊下の突き当たりで止まり、次の瞬間、壁に影が映った。最初は木の枝の影かと思った。けれど、揺れ方が違う。人の形。小さな影が皿を持ち、別の影へ差し出している。
「……あれ、だれ?」
子どもが息をのむ。
影の食卓は、どこか懐かしい。椅子が並び、湯気が上がっているように見える。皿を差し出す子どもの影は、返事を待っている。けれど、返事がない。影の肩が落ちた。
子どもはその場で膝をつき、影に向かって皿を差し出した。
「ごはん、いる?」
返事はない。影は揺れただけで、消えかけた。子どもの目が潤む。
ホタルはしゃがみ、子どもを抱き寄せた。背中を撫で、影へ向かって言った。
「見守ってくれてありがとう」
言葉は短い。けれど、廊下の空気が柔らかくなった。影が一瞬だけ揺れ、皿を差し出す手が止まった。足音が、遠ざかっていく。
「……聞こえた?」
子どもが小さく聞く。
ホタルはうなずいた。
「返事はなくても、ここにいる気持ちは残ってる。だから、言っていい」
オックスが壁を見つめ、唇を噛んでいた。握った拳が白い。ホタルは気づかないふりをして、子どもを立たせた。
「台所へ行こう。今日は井戸の水でスープが作れる」
「わーい!」
子どもたちが走り出しそうになるのを、ホタルが手で止める。
「曲がる前に止まる!」
「はいっ!」
オックスは遅れて歩き出し、ぽつりと言った。
「……ありがとうって言うと、ああなるのか」
「なります。たぶん、ずっと」
オックスは返事をしなかった。けれど、廊下の隅の汚れを拭きながら、さっきより丁寧に布を動かしていた。
夜。台所でスープの匂いが広がると、足音が一度だけ台所の前で止まり、静かに去った。見張りみたいに。
影が消えたあと、台所でスープをよそうと、子どもが皿を二枚持ってきた。
「一枚は、足音さんの」
「こぼれるよ」
「こぼさない!」
子どもは真剣な顔で皿を置き、湯気を見つめた。ホタルは少しだけスープを分け、皿を窓際に置いた。
「……食べなくても、匂いは届く」
オックスが眉を動かす。
「届くのか」
「届くって思うと、手が止まらない」
子どもたちは窓際の皿に向かって「いただきます!」と声をそろえた。
その瞬間、廊下の足音が一歩だけ鳴り、台所の前で止まった。床のきしみが、まるで返事みたいに短い。
「返事した!」
子どもが叫ぶ。
ホタルは笑って、布で鍋の縁を拭いた。
「じゃあ、明日も作ろう。おいしいの」
オックスは皿を洗う水を汲みながら、小さく言った。
「……ここは、前よりうるさいな」
「うるさいの、嫌?」
「……嫌じゃない」
それだけで十分だった。
オックスが皿を洗いながら言った。「……うるさい」 ホタルが笑って返す。「うるさくしてる」 言葉が少なくても、手元の動きが返事になった。
窓の外で鉱山の灯りが揺れ、床のきしみが混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、一つ多い食卓が一つ増えた気がした。




