第8話 ありがとうの紙片が、屋敷を柔らかくする
昼。ホタルは台所の端で、小さな紙を切っていた。古い包み紙を裂き、短い言葉を一枚ずつ書く。
『オックスへ 道を教えてくれてありがとう』
『ビジルへ 危ない場所を教えてくれてありがとう』
『マルゲンへ 当番表を作ってくれてありがとう』
『デニソンへ 石のことを教えてくれてありがとう』
子どもたちが覗き込み、目を丸くする。
「それ、なに?」
「手紙。短いやつ」
「配りたい!」
ホタルはうなずき、紙を束ねて渡した。
「名前を呼んで渡してね。走らない」
「はい、隊長!」
また隊長だ。ホタルは笑いながら見送った。
子どもたちは役所や店まで走り、途中でちゃんと歩き直し、紙片を届けて戻ってくる。そのたびに胸を張る。
オックスが紙片を受け取ったとき、彼は固まった。顔が動かない。目だけが泳いで、紙を見つめ、急に視線を逸らす。
「……どこで拾った」
「拾ってない。書いた」
「……」
オックスは紙片を胸のポケットへ滑り込ませた。子どもが「顔赤い!」と騒ぐと、オックスは咳払いで誤魔化し、子どもを追いかけようとして床で滑りかけた。
「止まって!」
ホタルが叫ぶと、オックスはぎりぎりで止まった。
ビジルは紙片を受け取ると、指先で文字をなぞり、短く息を吐いた。
「……こういうのは、効くな」
「効く?」
「胸がうるさい」
マルゲンは紙を読んで、ふっと笑った。
「言葉が残るのは、助かる」
デニソンは紙を畳み、眼鏡を押し上げる。
「この屋敷も、同じだよ。言葉が残る」
そのとき、廊下の足音が鳴った。いつもの追い払う音ではなく、合図みたいな規則正しさ。ムーンジェイドの欠片が淡く脈打ち、光が壁に薄く広がる。
ホタルは耳を澄ませ、笑った。
「今の足音、追い払ってない」
子どもが「足音さん、ありがとうって言われたのかな」と言い、別の子が「足音さんにも渡す?」と聞いた。
ホタルは紙を一枚切り、書いた。
『足音さんへ 見守ってくれてありがとう』
それを窓際に置くと、風がふっと吹き、紙が揺れた。足音が、少し遠ざかった。
紙片を配る途中、子どもたちは町の人にも声をかけた。鍛冶屋の前で「いつも鉄の音ありがとう!」と叫ぶと、鍛冶屋は槌を止め、真っ赤な顔で「うるさい、早く帰れ」と言いながら、焼きたてのパンの端を袋に入れて渡した。
市場の老婆にも紙片を渡すと、老婆は受け取った紙を裏返し、また戻し、最後に袖にしまった。
「変な子が増えたね。……悪くない」
屋敷に戻ると、パンの匂いに子どもたちが飛びつく。ホタルは切り分け、順番に配った。
「食べる前に、手」
「はーい」
手を洗う列ができる。列ができること自体が、少し前なら想像できなかった。
窓際の『足音さんへ』の紙が揺れたあと、床のきしみが一歩ずつ丁寧になった気がした。足音が、走らない。そこが妙に可笑しくて、ホタルは声を殺して笑った。
床板が小さくきしみ、子どもたちは顔を見合わせて笑った。
オックスがパンを切り分けしながら言った。「……走るな」 ホタルが笑って返す。「歩ける」 短い言葉の代わりに、布の音が途切れず続いた。
窓の外で鉱山の灯りが揺れ、包丁の音が混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、ありがとうの束が一つ増えた気がした。




