第7話 錆びた鍵の物置、消さない落書き
朝。物置の前で、オックスの指が震えていた。錆びた鍵穴。鍵を差し込み、回そうとして止まる。肩が固くなる。
「……開けないの?」
子どもが首を傾げる。
ホタルは横から覗き込まず、周囲の掃除を始めた。物置の前に積もった落ち葉を集め、壁を布で拭く。オックスの背中が、少しずつ呼吸を取り戻すのがわかる。
「鍵、貸せ」
マルゲンが言うと、オックスは首を振った。
「……俺がやる」
その言葉を聞いて、ホタルは黙ってうなずいた。
子どもが壁の落書きを見つけた。
「これ、オックスに似てる!」
煤で描かれた棒人間。胸に丸い徽章があって、やたら足が太い。オックスはそれを見て、布を手に取った。拭こうとして――止まった。
ホタルが言った。
「消さなくていい。残してもいい」
オックスは喉を鳴らし、布を握りしめたまま、弱い声で漏らした。
「……ここに、いたことがある」
言葉はそれだけだった。けれど、空気が変わった。子どもたちが笑うのをやめ、落書きをじっと見た。
ホタルは落書きの横に、小さく丸を描いた。
「じゃあ、ここは“いた場所”ね。今も」
オックスが眉をひそめる。
「意味が分からない」
「今、あなたがここにいる。だから」
子どもが手を挙げた。
「じゃあ、私もここにいる!」
「俺も!」
次々と声が上がる。オックスは困った顔をし、でも鍵穴から手を離さなかった。
「……せーの」
鍵が回った。錆びた音。扉が開き、古い掃除道具の匂いが流れ出す。ほうき、バケツ、布。使えるものが残っている。
オックスはその中から、小さな木の玩具を拾った。欠けた馬の形。指で撫で、胸元にしまう。
ホタルは見ないふりをした。聞かない。代わりに、道具を分けて配った。
「今日の係、始めよう。ゆっくりでいい」
廊下の足音が、遠くで一度だけ鳴った。まるで、扉が開いたことを知っているみたいに。
物置の中の掃除道具は、古いけれど手になじむものばかりだった。ほうきの柄には削れた跡があり、誰かの小さな手が握っていたのだと分かる。
オックスは玩具の馬を胸にしまったあと、誰にも見られないように息を吐いた。ホタルは知らないふりをして、子どもに布を渡す。
「これはね、拭き終わったら水で洗う。絞ったら干す」
「干すの好き!」
子どもが庭へ走ろうとして、途中で止まる。ホタルが何も言わなくても止まった。自分で止まれたことが嬉しいらしく、子どもは照れた顔で歩き直した。
オックスはそれを見て、喉が動いた。
「……偉い」
子どもがぱっと笑い、オックスの腕にぶら下がる。
「もっと言って!」
「……一回で十分だ」
ぶっきらぼうなのに、逃げない。ホタルはその背中を見て、ここが“いた場所”で、今も“いる場所”になっていくのを感じた。
物置の前で、ホタルは錆びた鍵穴の横で木の玩具の馬を布で拭きながら、東京の子どものころの校庭の砂を思い出した。胸がきゅっと縮むと、ホタルは四つ数えて長く吐いた。布の感触が、足元を今に戻した。
子どもたちは壁の落書きを見つけて「隊長の足!」と騒いだ。ホタルが手を出して止めると、皆がいったん立ち止まり、順番に触った。廊下の足音が一歩だけ鳴って、まるで「そうそう」と言うみたいだった。
窓の外で鉱山の灯りが揺れ、扉の軋みが混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、残す落書きが一つ増えた気がした。




