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月影館おそうじ日記 清掃騎士団長とムーンジェイドの指輪  作者: 乾為天女


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第5話 月に揺れる男、ビジルの深呼吸

 朝。玄関前に、革鞄を抱えた青年が立っていた。眼の下に薄い影があり、背筋は真っ直ぐ。彼は鞄から巻物の図面を取り出し、淡々と言った。


 「危険箇所。床板が抜ける場所、二十六。階段の手すり、三。窓枠の釘、九」


 数が多い。ホタルは図面を覗き込み、息をのんだ。赤い印が丁寧に付けられている。


 「ビジル。魔導書係だ」

 「屋敷の図面は、全部頭に入ってる」


 ビジルは感情のない声で、呼吸の仕方まで教えた。

 「怖いときは四つで吸って、四つ止めて、四つで吐く。手を動かす前に」


 ホタルは素直に真似をした。呼吸が整うと、確かに手が動く。

 「ありがとう。助かる」


 ビジルは少しだけ視線を落とした。礼に慣れていないらしい。


 ところが、昼前。雲が流れ、月の欠け方が変わったように見えた瞬間、ビジルの顔色が揺れた。眉がきつく寄り、声が尖る。


 「オックス。お前、歩幅が無駄に大きい。掃除の速さで勝負しろ」

 「いいぞ!」


 オックスの目が輝いた。こういう時だけ子どもみたいだ。


 ビジルは唇を噛み、止めようとした。

 「……今の俺は、言い過ぎる。だが止まらない」

 「止めなくていい。勝負だ」


 子どもたちが廊下の端に並び、声をそろえる。

 「よーい!」


 ホタルは止めなかった。代わりに、ふたりの走る道だけ先に雑巾で拭いた。滑る場所を避け、床板の弱いところに布を置き、踏まないよう印をつける。


 「よい……どん!」


 オックスとビジルが走り出す。ほうきを持ったまま、床を撫でるように掃く。ビジルは呼吸を数え、オックスは息を切らしながら笑う。子どもたちが賭けの真似をして、貝殻を握りしめた。


 「オックス、速い!」

 「ビジル、曲がり角うまい!」


 ホタルは廊下の端で見守り、転びそうな子の襟を掴んで止めた。勝負の終わり、オックスが勝った。


 「勝った!」

 「……くそ」


 ビジルは悔しそうに顔をしかめたが、次の瞬間、肩を落として息を吐いた。

 「……今の俺、嫌いだ」

 「でも、危ない場所を教えてくれた。助かった」


 ホタルが言うと、ビジルは目を伏せ、喉の奥で小さく音を鳴らした。笑いとも咳ともつかない。


 廊下の足音が、いつもより軽く響いた。競争が終わったのに、屋敷はまだ、楽しそうに走っている。


 ビジルは図面だけでなく、部屋ごとの注意書きも作った。『床板弱い』『窓枠釘あり』『階段は片手で手すり』。字は細いのに、目立つように赤い線が引かれている。子どもたちはその紙を宝物みたいに撫でた。


 「これ、読めるようになった!」

 「読めたら、守れる」

 ビジルはそう言って、少しだけ口角を上げた。


 勝負のあと、オックスが息を切らしながらも笑っているのを見て、ビジルは目を逸らした。

 「……お前は、笑うのが得意だな」

 「得意じゃない。癖だ」

 「癖なら直せ」

 「直さない」


 口喧嘩みたいで、どこか安心する。ホタルは二人の間に雑巾を差し出し、落ち着いた声で言った。

 「次は、勝負じゃなくて協力。窓拭きは二人でやると早い」


 ビジルは頷き、オックスは渋々ながらも手を伸ばした。二人の手が同じ布をつかんだ瞬間、廊下の足音が一歩だけ近づいて、また離れた。見守っているみたいに。


 昼前の雲の切れ間で、ホタルは廊下の端で図面の赤印を布で拭きながら、東京の締切前の電話のベルを思い出した。胸が詰まりそうになると、ホタルは教わった通り四つ数え、ゆっくり吐いた。布が指先に触れると、足元が落ち着く。


 オックスが床板の釘を締めしながら言った。「……言い過ぎる」 ホタルが笑って返す。「言い直せる」 言葉は短いのに、手は止まらない。


 窓の外で鉱山の灯りが揺れ、窓の風が混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、呼吸の数が一つ増えた気がした。



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