第20話 ムーンジェイドの指輪、帰る場所を選ぶ
昼。月光の間に、机が置かれた。デニソンが紙を広げ、儀式の図を描く。満月の夜。ムーンジェイドの指輪を媒介にして、“戻る可能性”を開く。成功すれば、ホタルは元の世界へ戻れるかもしれない。
「決める必要がある。満月までに」
デニソンの声は静かだった。
ホタルは台所へ逃げるように戻った。鍋の中で湯が鳴り、子どもたちが湯気で遊んでいる。笑い声。走りそうになって止まる足。拭いた床。干した雑巾。乾いた匂い。
ホタルは指先で雑巾を握りしめた。ここに来てから、何度「助かった、ありがとう」と言っただろう。言った分だけ、屋敷は息をした。
背後で扉が軋み、オックスが入ってきた。手の中に小さな布包み。
「……磨き直した」
布がほどける。第15話の指輪が、月明かりみたいに光った。オックスはそれを両手で差し出した。
「ここで一緒に暮らしたい」
言葉は短い。けれど、彼の喉が一度詰まり、肩が震えた。逃げないように踏ん張っている。ホタルはその様子を見て、胸が熱くなった。
子どもたちが息をのんで見守る。ビジルが戸口で呼吸を数え、マルゲンが手を止め、デニソンが目を細めた。
ホタルは涙を拭き、指輪を受け取った。指先が温かい。
「助けてくれてありがとう。私も、ここを選ぶ」
言った瞬間、ムーンジェイドの光が穏やかに広がった。窓の外の月が、柔らかく揺れる。足音は、もう怖い音じゃない。家の中を歩く、ただの生活の音になっていた。
子どもが叫ぶ。
「やったー! 家だ!」
「走るな!」
ホタルとオックスが同時に言って、同時に顔を見合わせた。
笑いが弾ける。屋敷が息をする。湯気が舞い、雑巾が揺れ、指輪の石が静かに光った。
満月の夜が来ても、もう迷わない。帰る場所は、選べる。ここに、今の自分の手が届くから。
夕方。ホタルは庭で洗濯物を干し、風を感じた。布が揺れるたび、屋敷の中の空気も揺れる。足音が、布の揺れに合わせて一歩鳴る。返事みたいに。
子どもたちは満月の夜の話を聞いて、最初は黙った。次に、皆で口を開いた。
「帰らないで」
「でも、帰りたいなら……」
「わかんない」
言葉が揃わない。だからこそ本当だ。ホタルは子どもたちの頭を順番に撫でた。
「どっちでも、気持ちは間違いじゃない」
ビジルが呼吸を整えながら言う。
「選ぶのは、お前だ。……俺は、選べるのが羨ましい」
マルゲンが皿を並べ、淡々と言った。
「飯はここにある。帰っても、ここで食えるようにする」
デニソンは笑って肩をすくめた。
「学者の仕事は道を示すだけ。歩くのは君だ」
ホタルは指輪を握り、指に通した。石が温かい。窓の外の月が、もう怖くなかった。
ホタルは指輪を指に通し、子どもたちの寝息が聞こえる廊下をゆっくり歩いた。
木目の凹凸が足裏に伝わる。怖さは消えない。けれど、怖さを抱えたままでも、手は動くし、言葉も渡せる。
月影館は、返事のように一度だけきしんだ。




