第2話 恐れを知らぬ子供たちと、ほこりの王座
朝。月影館の玄関を押し開けた途端、乾いた埃がふわっと舞った。廊下の板は黒ずみ、窓は煤けた布で塞がれている。何より、そこを全力で滑っている子どもがいた。
「わーっ!」
子どもは勢いのまま曲がり角に突っ込み――ホタルの胸に飛び込んできた。ホタルは反射で受け止め、膝をついた。子どもの膝が擦りむけている。
「痛い?」
「へいき!」
へいき、と言いながら目が潤んでいる。ホタルは笑って、袖で埃を払ってから、水で濡らした布を探した。ない。台所を覗くと、蛇口は錆で固まり、ひねっても音がしない。
「水が……」
「こっち!」
別の子が廊下を駆けてきて、指をさした先で、足音がどんどん近づく。子どもたちはそれを「足音さん」と呼び、鬼ごっこに混ぜているらしい。
「足音さん、来い!」
「ほら、逃げろ!」
オックスが真顔で参加していた。革靴が埃で滑り、彼は派手に尻もちをついた。子どもたちが爆笑し、オックスは眉をひそめて立ち上がる。
「今のは床が悪い。俺の負けじゃない」
「負けたー!」
子どもたちが囃し立てる。オックスはむっとして、廊下の隅の汚れを指でこすり、きれいになった指先を見せつけた。
「見ろ。俺はこういうのが得意だ」
「掃除で威張るな」
ホタルが思わず笑うと、オックスは耳の上を掻いた。
「水がないと始まらない」
「勝負だ。先に水を見つけた方が偉い」
言い出したのはオックスだった。子どもたちは「勝負!」と叫び、屋敷の中を散っていく。ホタルは廊下の窓に目をやった。塞がれた布の隙間から雨樋が見える。外へ回り、樋の下に桶を置き、昨夜の露が溜まった水を集める。少しずつ、でも確かに。
桶を持って戻ると、子どもたちが拍手した。
「すげー!」
「雨の水だ!」
オックスは悔しそうに鼻を鳴らし、でも桶の水面を見て、ふっと肩を落とした。
「……俺の負けだ。君の方が早い」
ホタルは子どもの膝を拭き、布で巻いた。
「ほら、これで大丈夫。走るなら、次は曲がる前に足を止めてね」
「はーい!」
礼は言わなかった。けれど、包帯を巻かれた子どもは指先でそっと布を撫でて、満足そうに笑った。
廊下の奥で、足音が一度だけ止まった気がした。ホタルは耳を澄まし、静けさの中で小さく呟く。
「……ここ、きれいにしよう。安全にして、住める場所にしよう」
オックスは立ち上がり、ほうきを肩に担いだ。
「俺も手伝う。今日からだ」
屋敷の中は想像以上に広かった。廊下が二本、階段が二つ。曲がり角が多く、子どもが走り出したくなるのも分かる。ホタルは床の板目を目で追い、きしむ場所を覚えた。
台所の棚を開けると、乾いた豆と塩、古いスプーンが出てきた。スプーンの柄には小さな傷が並び、何度も握られた跡が残っている。ホタルはその傷を指先でなぞり、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
子どもたちは寝室の布団を勝手に引っ張り出し、「基地!」と言って積み上げる。オックスが止めようとすると、布団の山が崩れてオックスが埋まった。
「助けてー!」
「自分で出ろ!」
言い合いながら、オックスは布団の端を丁寧に畳んでいる。怒っているようで、手は優しい。ホタルは笑って、布団の埃を叩く順番を作り、子どもたちに持ち方を教えた。
「振り回さない。口を閉じる。叩いたら、ここに置く」
「わかった!」
足音が近づいたとき、子どもが「足音さんも叩いてるのかな」と言った。ホタルは答えず、耳を澄ませた。足音は、確かに布団の山を避けて通った。
子どもたちは床板のきしむ場所を見つけて「ここ、鳴る!」と騒いだ。ホタルが手を出して止めると、皆がいったん立ち止まり、順番に触った。廊下の足音が一歩だけ鳴って、まるで「そうそう」と言うみたいだった。
窓の外で鉱山の灯りが揺れ、桶の水面の揺れが混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、手当ての手順が一つ増えた気がした。




