第16話 熱と水桶、オックスが言葉を拾う
夜。無理をしたのは分かっていた。大掃除の日々、井戸水を運び、階段を上り下りし、子どもを止め、笑って、また拭いて。ホタルは布団に沈み込み、熱で世界が揺れた。
子どもたちが不安そうに覗き込む。
「ねえ、起きて」
「だいじょうぶ?」
オックスが水桶を運び、子どもたちに目で合図した。声を張らない。走らない。静かに。いつも自分が言われる側なのに、今日は彼が言う側だ。
「水、ここ。布はそこ。……足音さん、今日は静かにしろ」
最後の言葉に子どもが笑いそうになり、オックスが睨むと、子どもは口を押さえた。
オックスは桶の水を布に含ませ、ホタルの額の汗を拭いた。彼の手つきは丁寧で、汚れを拭くときと同じ速さだった。
「……いつも助かってる。ありがとう」
小声だった。言い慣れない言葉が口から出て、オックス自身が驚いたように目を見開く。
ホタルは目を閉じたまま、笑ってうなずいた。声が出ない代わりに、指先だけでオックスの袖をつかむ。
「……離すなってことか」
オックスがぼそりと言うと、子どもがまた笑いそうになり、今度はデニソンが咳払いで止めた。
ビジルが戸口に立ち、呼吸を数える。
「熱。水分。……無理をさせすぎた」
「俺が運ぶ」
マルゲンが言う。
「当番表、明日は変える。全員の手を休ませる」
屋敷の外で、足音が一度だけ止んだ。ふっと空気が静まり、屋敷が息を止めたみたいだった。
オックスはホタルの額にもう一度布を当て、短く言った。
「……戻れ。起きろ。まだ、拭く場所がある」
ホタルは目を閉じたまま、指先でオックスの袖を握り直した。返事の代わりに。
ホタルが熱でうなされる間、子どもたちは静かに働いた。湯気で温めた布を交換し、井戸の水を運び、床の灰を拾う。いつもなら走り回るのに、今日は歩いた。
「静かにすると、足音さんも静か」
子どもがささやく。
オックスは布を絞りながら、子どもに言った。
「無理をするな。疲れたら座れ」
「隊長も座って」
「……俺は平気だ」
平気、と言いながら背中が固い。マルゲンが水桶を代わりに持ち、黙って頷いた。
ビジルは台所で薬草の匂いを確かめ、適量を鍋に入れた。
「苦い」
「苦いのいや」
「……飲め」
言い方は相変わらずだ。でも鍋の前でずっと見張っている。湯気が上がるたびに呼吸を数え、火傷しない温度に調整している。
ホタルはその音を遠くで聞きながら、短く思った。ここは、私の知らない優しさが、形になっている。
夜の熱の中で、ホタルは布団の端で冷たい布を布で拭きながら、東京の終電のアナウンスを思い出した。胸がきゅっと縮むと、ホタルは四つ数えて長く吐いた。布の感触が、足元を今に戻した。
オックスが額を拭きながら言った。「……戻れ」 ホタルが笑って返す。「戻る」 短い言葉の代わりに、布の音が途切れず続いた。
窓の外で鉱山の灯りが揺れ、井戸の蓋の音が混ざった。屋敷の中はまだ古いけれど、静かな歩き方が一つ増えた気がした。




