第1話 石が光った夜、鉱山町に落ちる
冬の終わり、東京の会社帰り。ビル風が冷たくて、ホタルは襟を立てた。駅前の細い路地を抜けた先、古道具屋の店先に小さなショーケースが置かれている。埃の膜の向こうで、淡い緑の石が月明かりみたいに光った。
「……きれい」
指先でガラスを拭うと、石はさらに柔らかく輝く。掃除の癖で、無意識に角を丁寧になぞった。その瞬間、掌の奥でぱちん、と弾けた。光が跳ね、息が漏れ、足元が抜けた。
次に目を開けたとき、ホタルは石畳の路地に座り込んでいた。空気は煤と土の匂いが混じっている。遠くで金属を打つ音がして、風が冷たいのに、どこか湿り気がある。看板に読めない文字が並び、角を曲がった先に、煤けた鉱山道具が積まれていた。
「おい、危ない」
声と同時に腕を掴まれた。立ち上がろうとしてよろけたホタルを、背の高い青年が支える。短い髪、腕の筋、制服の胸に磨かれた徽章。青年は反射でホタルの袖についた泥を指で摘まみ、きれいな布でさっと拭いた。
「転ぶ前に止めた。……ここ、石が出る町だ。足元、油がある」
言い切ると、青年は道の脇に落ちていた紙屑を拾い、ゴミ箱に入れた。見返りもなく、当たり前みたいに。
「助かった、ありがとう」
そう言うと、青年は一瞬だけ目を瞬かせ、咳払いで誤魔化した。
「……俺はオックス。清掃騎士団の隊長だ。君、旅人か?」
ホタルは首を振った。説明できない。代わりに、震える手でポケットを探り、何もないことに気づいて呆然とする。オックスは困った顔をしながらも、近くの水場へ案内した。石の樋から落ちる水は冷たい。オックスは屋台の主人に何か言い、温かい飲み物を受け取ってホタルに渡す。
「飲め。喉が凍る」
甘い香りがして、息が戻る。ホタルはカップを両手で包み、少しずつ飲んだ。
「ここは……どこですか」
「ルノワーズ王国、鉱山町ジェイドホロウ。……役所へ行こう。まず話を聞く」
役所の机で、ホタルは言葉が詰まった。紙と羽ペンが出され、係の人が眉を上げる。ホタルは深呼吸し、空欄を埋める代わりに短く書いた。『掃除は得意』。
その文字を見た係の人が、思わず笑った。
「それなら、月影館の話をします」
町外れの古い屋敷。夜に窓が勝手に開き、廊下に足音が響く。近づかない方がいい、と言われる場所。けれど――そこに、親のいない子どもが住みついているらしい。
オックスは顎に手を当て、短く息を吐いた。
「……子どもを放っておける町じゃない。だが、あそこは危ない」
ホタルはカップの底を見つめた。危ない、と言われた場所に、子どもがいる。掃除が得意。それだけが、自分の手の中に残っている。
夜。町の外れで門の前に立つと、冷えた鉄の匂いがした。屋敷の奥から、子どもの笑い声が転がってくる。足音も、規則正しく鳴っている。
「……行くのか」
「……行きます。掃除なら、できます」
ホタルが門に手をかけた瞬間、木がきしみ、月明かりが庭に落ちた。
役所を出ると、町の夜は早かった。鉱山の灯りが点々と並び、道端の水たまりに揺れる。すれ違う人たちは黒い粉を頬につけ、手袋を外した指先が荒れている。けれど挨拶だけは明るく、ホタルの服装を見ても、笑って会釈してくれた。
道の角で、子どもが二人、空き瓶を蹴って遊んでいた。瓶が石畳で跳ね、変な音を立てる。オックスが「危ない」と言う前に、ホタルがしゃがんで瓶を拾い、靴の先で瓶の口を潰さないよう布に包んだ。子どもたちは驚き、すぐに真似をして拾い始める。
「怪我するから、ここに集めよう」
「おねえさん、手が早い!」
その声に、オックスが小さく肩をすくめた。彼は「ありがとう」とは言わない。代わりに、子どもたちの頭の高さに合わせてしゃがみ、短く言った。
「次からは、蹴る前に周りを見る」
ホタルはそれだけで、この人が子どもを放っておけないのだと分かった。だから月影館へ向かう道も、自然に決まった。
門の向こうの庭は荒れ、枯れ草が膝まで伸びている。それでも、屋敷の窓辺には小さな布切れが結ばれていて、風に揺れていた。誰かがここを“空っぽ”にしないように、何かを結んだのだと思った。
ホタルは袖口を握り、掌の汗を布で拭った。見知らぬ町、見知らぬ屋敷。けれど、布が手にあるなら、まず一歩は踏み出せる。
子どもが背中を押した。「ほら、入ろう!」
木がきしみ、月明かりが庭に落ちた。




