蒸気怪盗、江戸の空を翔ける
雷撃の夜から数日。
江戸の町には、新たな噂が駆け巡っていた。
──夜ごと現れる、蒸気仕掛けの怪盗。
瓦屋根を飛び移り、煙と共に金銀を奪い去るその姿から、人々は「蒸気怪盗・黒鴉」と呼び始めていた。
「黒鴉だと? 火付盗賊改の連中も手を焼いてるらしいじゃねぇか」
湯屋の帰り道、縫次郎はお結とお蘭から同時に耳打ちされた。
「縫次郎さん、また無茶する気じゃないでしょうね」
お結の瞳は不安に揺れる。
「ふふ……無茶も男の華、でしょ?」
お蘭は扇子を唇にあて、艶やかに笑う。
その時──。
空を裂くように甲高い汽笛音が響いた。
「出たぞ、黒鴉だッ!」
見上げれば、夜空を切り裂き、蒸気の翼を広げた影が舞う。
ランプの灯に浮かぶは、真鍮の仮面と黒き外套。背から突き出す煙突は白煙を吐き、まるで機械仕掛けの鴉そのものだった。
「フハハ……江戸の財は、俺のものだ!」
挑発の笑いと共に火薬の閃光が走り、提灯が吹き飛ぶ。町人たちの悲鳴が夜に溶ける。
「御用改めだァッ!」
縫次郎は刀を抜き、火花を散らしながら屋根へと跳んだ。
その背を追って、鉄の同心がギギギと蒸気を吐き、鋼の脚で瓦を砕きながら駆ける。
──江戸の夜空で、蒸気と火花の捕物が始まった。
「縫次郎さん、こっちへ!」
お結の投げた投網が宙を舞い、黒鴉の進路を遮る。
「ふふ……なら、私は火を添えてあげるわ」
お蘭が扇子を翻し、仕込まれた花火玉が爆ぜる。
夜空を彩る赤と金の閃光が、黒鴉の翼を焼いた。
「ぐっ……!」
片翼が火花を散らした瞬間、縫次郎は跳んだ。
「これで──終いだッ!」
刀が閃き、蒸気の翼を断ち切る。
黒鴉の身体は大きく弧を描き、屋根瓦を砕きながら墜ちていった。
仮面が、カラン……と夜に転がる。
現れたのは──まだ十七、八の少年の顔。
蒼白な瞳には、奇妙な歯車の紋が刻まれていた。
「こいつ……子どもじゃねぇか……」
縫次郎の胸に冷たい戦慄が走る。
町人たちも息を呑み、江戸の夜は一瞬にして静まり返った。
だがその沈黙を破るように、闇の奥から低い声が響いた。
「黒鴉は駒にすぎぬ。歯車はまだ……廻り始めたばかりだ──」
どこからともなく、不気味な笑いが木霊する。
誰も姿を見つけられず、ただ声だけが江戸の空に残った。
縫次郎は歯を食いしばる。
──背後に潜む黒幕は、まだ手の内を明かしていない。
そして物語は──次回へ続く。