奉行所の影
雷撃の夜から数日。
江戸の町では《煙突小僧》の騒動が、まるで怪談のように語られていた。
──だが真相を知るのは、ごくわずか。
下っ引き・火ノ川縫次郎と、鉄の同心だけである。
「おう、縫次郎! 南町奉行所からお呼びだとよ」
仲間の声に背中を押され、縫次郎は重い足取りで奉行所へ向かった。
木戸をくぐれば、畳敷きの広間には張りつめた空気。
その中央に座すのは──南町奉行・榊原主膳正。
切れ長の目、白髪交じりの髷、黒衣の裃姿。
威圧感は蒸気の唸りよりも重かった。
「火ノ川縫次郎、ならびに……鉄の同心よ」
低い声が、座敷に響く。
「貴様らが町を救ったという話は聞いた。だが同時に、幕府の規律を乱したとも聞いておる」
縫次郎は唇を噛む。
鉄の同心は隣で無言のまま、青白い瞳を伏せていた。
──廃棄を言い渡されるのは、時間の問題。
「鉄の同心は、欠陥品。暴走すれば江戸を焼き尽くすやもしれぬ。
よって……廃棄処分と致す」
広間がざわつく。
「ま、待ってください!」
声を上げたのは、お結だった。奉行所の奥に連れてこられていたのだ。
「この同心は、人を守りました! 命を懸けて! それを……廃棄なんて!」
「ふふ……幕府って冷たいのねぇ」
紅蓮お蘭は扇子を開き、挑発するように微笑む。
「男たちの面子一つで、人を切り捨てる。──だからこそ、私たち女が惚れるのは無茶な男ばかりなのかしら」
奉行は眉をひそめたが、返す言葉を発する前に──
轟、と。
奉行所の屋根が爆ぜた。
瓦が宙を舞い、蒸気の霧が広間に流れ込む。
「敵襲ッ!」
現れたのは黒装束の群れ。
腕に仕込んだ管から白煙を撒き散らし、歯車仕掛けの爪を光らせる。
──蒸気兵。
黒幕に雇われた刺客である。
奉行所の役人たちは大混乱。
その中、縫次郎は一歩前に出た。
彼の瞳が青白く光る。
「……見える。歯車の縫い目が──!」
縫次郎の眼は、敵の機構の綻びを正確に捉える。
「鉄の同心! 俺が縫い目を示す、叩けぇッ!」
鉄の同心が唸りを上げ、蒸気の噴出と共に拳を振り下ろす。
歯車の芯を打ち砕かれた蒸気兵は、白煙を吐いて崩れ落ちた。
次々と倒れていく刺客たち。
縫次郎と鉄の同心の連携は、もはや人と機械を超えた“相棒”のそれだった。
やがて静けさが戻る。
南町奉行はしばし沈黙したのち、低く告げた。
「……この働き、将軍家の耳にも届くであろう」
縫次郎は膝をつき、深く息を吐く。
その背後で──
烏の装束を纏った影が、路地裏から月を仰いでいた。
「報告します。計画は順調。江戸は歯車の檻に沈みます」
その声は風に消え、江戸の夜に不吉な余韻を残した。
──そして物語は、次回へ続く。