9. 事後処理
イアスは胃の内容物を吐き出し、急な嘔吐に困惑した。そして自分の所在地を理解したとき、困惑は頂点に達した。
口周りの吐瀉物を手で拭いながら、完全には覚醒していない頭で状況を整理しようとする。
『吐きながら眠りから覚めると、そこは治療室であった』
「いや、何だそれ」
イアスは笑った。状況の不可解さに耐えきれず自壊しそうになる精神を守るため、防衛機構のようなものが作動したのかもしれない。
吐いたと思ったら笑い続けるイアスを見て、アンティエルもまた酷く困惑しているのだろう。自らの聖域が穢されたにもかかわらず、ひたすらに立ち尽くし、文句の一つも聞かれない。
それでも、先に混沌から抜け出したのはアンティエルだった。長年の治療室勤務によって培われた職業的習性が、イアスを患者として捉え、その症状を分析する思考に切り替えたのだ。
「お前、どうしたんだ?」
返答はない。もう一度問いかける。
「どうした、大丈夫か?」
「何が」
「何がって、お前が吐いたから心配してやって――」
「うるせえなあ!」
イアスの凶暴な眼光に後ずさるアンティエル。そのとき、引き出しの上に茶色の錠剤が目に入った。
咄嗟にそれを掴み取ったと同時に、イアスが襲いかかる。アンティエルの問いかけは、イアスの絶妙な精神バランスを破壊する結果に終わった。
強靭な外骨格に包まれた下半身を避け、上半身を狙った蹴り。壁とベッドの間という狭い空間であるため、その軌道を予想することは容易い。
アンティエルはサソリの鋏を持ち上げ、守りの構えを取った。強靭な外骨格に覆われたそれは、比類なき硬度を誇る。
衝突。重厚な金属音にも似た音が密閉空間に反響した。
八本足で身体を支えるアンティエルは、安定感に優れている。滅多なことでは体勢を崩さない。はずなのだが、今は前の足四本が浮いていた。強烈な蹴りは下から上へ放たれており、それが足を浮かせたのだ。
外骨格の中でも腹部は比較的柔らかい。浮き上がった身体に潜り込んだイアスは、そこへ強烈なアッパーを叩き込む。斜め上方に吹き飛ばされ、天井で跳ね返って落ちた。下敷きになったベッドが割れ、木片と埃が飛散する。
横転したアンティエルは身体の構造上、すぐには起き上がれない。そこへ追撃に迫るイアス。その顔には先ほどからの笑いが残っており、破壊に喜びを感じているようにしか見えなかった。
左を下に倒れたアンティエルは、右の鋏と尻尾を使って人間の身体の部分を、特に頭部を守った。しばらく乱打を続けたイアスだったが、やはり外骨格には効き目が薄いと見て、人体部分に狙いを定めたようだった。
鋏と尻尾の間隙を突き、的確に拳を当てていく。精度を上げただけに威力は下がっていたものの、それまでよりも格段にダメージが大きくなっている。そのことは、アンティエルの苦悶の表情から窺えた。
防戦一方と表現することすら憚られる、圧倒的な力の差。しだいにアンティエルの防御は精彩を欠くようになり、多くの攻撃が人体部分に当たるようになっていた。
床には血が滲み始め、わずかだが外骨格の破片までもが散っている。勝負ありと判定を下す審判はおらず、イアスの猛攻は続く。アンティエルの絶命は時間の問題だと思われた。
しかしそれから十分後、立っていたのはアンティエルだけだった。
「いったい何がどうしたと言うんだ」
魔族には強力な自己再生能力があるが、それに任せておくには傷が深いと判断し、アンティエルは回復薬を飲んだ。そうして傷を癒してから、自らの毒に侵され床に倒れるイアスを観察し始めた。最初の一撃を食らった際、アンティエルは身体を守ると同時に毒針でイアスに傷をつけていたのだ。
そこからは毒が回るまでの耐久戦。身体を横に倒されてしまったのは想定外だったが、堅牢な鎧がしっかりと役目を果たしてくれた。やがて毒にもがき苦しむようになったイアスに鎮静剤を飲ませ、戦闘は終了した。アンティエルはこの戦法だけを頼りに、これまでの戦乱の世を切り抜けてきたのである。
イアスをベッドに寝かせ、鎮静剤を追加で五錠、さらに解毒薬と回復薬を飲ませた。鎮静剤と解毒薬の同時投与は有害な相互作用を起こす恐れがあるため、それを相殺するために回復薬を加えた形である。
「吐き、笑い、暴れる。いったい何が……」
アンティエルは起き上がってからずっと、同じようなことを繰り返し口にしていた。研究者としての好奇心が原因究明へと駆り立てているのだろう。
「こんな症状は見たことがない。できれば聞き取りをしてみたいが、果たしてそれが可能かどうか」
ぶつぶつと独り言を漏らしながら部屋を徘徊する。しばらくそうして、何もわからないことがわかると、イアスが目を覚ますのを待つことにした。
フィデルが治療室を訪ねてきたのは、戦闘から一時間後のことだった。
例のごとく訪問を告げる声に返答がないと見るや、フィデルはずかずかと治療室の奥の部屋を目指して進んだ。アンティエルはちょうどそこから出てくるところで、フィデルはいきなり本題を切り出した。
「先生、イアスが来ませんでしたか」
「ああ、お前か。来たぞ」
「そうですか。それで、今はどこにいるかご存じですか?」
「奥の部屋で寝ておる」
顔を顰めるフィデル。それまで事務的な口調は一変し、フィデルは憤りを露わにした。
「寝ている? 栄養補給の時間が迫っているというのに、まさかサボっているのではないでしょうね。職務怠慢を見逃しているならば、先生のことも合わせて報告せねばなりませんよ」
「馬鹿を言うでない。儂があんな邪魔なやつを置いておくわけなかろう。ちょっとした事情があるんだ、聞け」
「それが聞くに値するならばお聞きいたしましょう」
納得していない様子のフィデルだったが、話を聞くにつれ、その表情は真剣なものになっていく。どうやらこれは、聞くに値する話だったらしい。
「お話だけでは信じられませんでしたが、そうですね、この有様を見ると、ええ、信じざるを得ませんね」
一部が欠け落ちた壁と天井、陥没した床、粉砕されたベッド。奥の部屋に移動して惨状を目の当たりにフィデルは、珍しく滑らかに言葉が出ないようであった。
「部下がご迷惑をお掛けし、大変申し訳ございません」
「そんな形式ばった謝罪はいらん。それよりも、こいつの症状を儂に研究させてくれないか」
「イアスの件は上に報告せねばなりませんし、それは難しいと思います。こうした危険行動を取る者を保育担当にはしておけませんから」
「それもそうだな」
アンティエルはこだわることなく、あっさりと引き下がった。先に奥の部屋から出て、フィデルの方を振り返る。
「では少し、こっちで報告内容の整理でもせんか? 茶を淹れてやろう」
「私一人では正確な報告は難しいと考えていたので、お言葉に甘えさせていただきたいと思います」
謝意を伝え、フィデルはアンティエルの後に続いた。
差し出された飲み物に口をつけるフィデル。アンティエルはじっとその口元を見つめている。そこにどんな表情もないのが、かえって隠された感情があることを示しているようだ。
まもなくフィデルは瞳の光を失い、椅子の背もたれにぐったりと身体を預けることとなった。