8. 瘴気暴走
「そこの、そう、それだそれ、その中にある茶色の錠剤を取っとくれ!」
先生の指示に従い、ベッド脇の引き出しの中から言われた通りのものを取り出した。
「早く、こいつに飲ませろ!」
先生が尻尾を使って器用に口をこじ開け、そこへ錠剤をねじ込む。歯が触れて、指から出血した。
「もう一粒だ!」
それを飲ませ終えると、それまでの暴れようが嘘のように静まった。先生の激しい息遣いだけが聞こえる。
「先生、今のは?」
心当たりはあったが、あえて尋ねた。これは確認しておかねばならないことなのだ。目の前で起きたことが私の予想通りならば、これはまさに……
「瘴気暴走だ」
「瘴気暴走?」
予想通りの言葉に、あらかじめ決めておいた返答をする。
「何だ、知らないのか」
知らないわけはない。しかし、ここは素直に頷いておく。これには無知を装って油断させるという意味もあるが、相手に喋らせて自分を落ち着かせる時間を稼ぎたいというのが本心だ。今の精神状態では、この後の行動に支障が出かねない。
「馬鹿っぽいとは思っとったが、本当に馬鹿なんだな」
「ええー、ひどいっすよ」
たはは、と笑って見せる。上手く笑えていただろうか。
「ちょどいいところに現れた褒美に教えてやろう」
先生は機嫌がいいらしい。返事もしないうちに、勝手に話し始めた。
「瘴気暴走というのは、人体に蓄積した瘴気が暴走する現象だ。症状は様々だが、最終的には死ぬとされている。これは儂ら魔族には起こりえぬものだが、人間を相当程度の瘴気に触れさせてしまうとほとんど確実に発生する。これを予防するために、お前たちは神聖鳥の血が入った乳を飲ませているというわけだ」
期せずしてあの鉄臭さの正体を知ることになったが、ある程度予想していたため特に驚きはなかった。そもそも乳は血から作られるのだから、気にするほどのことでもないだろう。
先生は咳払いをし、ちらちらとこちらを窺いながら、最後にこう付け加えた。
「ちなみにこれ、儂の研究成果。地方から来たとはいえ、これくらい覚えておけよ?」
「うっす」
おそらく先生は、自分の研究成果を知らしめたいがために瘴気暴走を説明する気になったのだろう。だが動機がどうあれ、十分に落ち着きを取り戻すことができた。先生の長話には感謝したい。
計画を変更し、先の瘴気暴走についてもう少し話を聞くことにした。憑依体を操作する魔力にまだ幾分かの余裕はあるし、特に問題あるまい。
「ちなみに聞いておきたいんすけど、あの茶色い薬にはどういう効果があるんすか?」
「ただの鎮静剤だ。瘴気暴走の発作を止めるほどの効き目がある」
「神聖鳥の血は効かないんすか?」
「瘴気による不調には有効だが、それが瘴気暴走にまで発展してしまえば効かない。多量に投与すれば回復も見込めるのかもしれんが、今のところそういう結果は得られておらんな。神聖鳥の血は需要過多で無駄遣いもできんし」
回答は望んでいたものとは違ったが、そう簡単にお目当ての情報が手に入るはずもない。だが、ここで浮かんだ疑問くらいは解消しておこう。
「でも、この少年だって神聖鳥の血を飲ませていたんでしょう? それなら、なんで瘴気暴走を?」
「神聖鳥の血は、十歳を過ぎるころまで飲み続ける必要がある。理由は知らんが、こいつはそれを怠ったんだろうな。こうなると、担当養成職は責任を取らされることになる。お前も気をつけろよ?」
先生は嫌味な笑いを浮かべたものの、しばらく言葉を発さずにいると顔が曇った。
「で、お前は何をしに来たんだ。早く本題を話せ。さもなくば帰れ」
「すんません、本題の前にあと一つだけ聞いていいっすか?」
ここへはただ情報収集をしに来ただけなのだから、実際には本題も何もない。が、こう言っておけば質問権を一回分余計に手に入れられる。
「図々しいやつだな。最後の一つだぞ」
先生の言葉に頷き、再び質問を投げかける。
「瘴気暴走は、最終的に死ぬと『されている』と言いましたよね。では、死ぬ以外の可能性もあるということですか?」
一番聞きたかったのはこれだ。瘴気暴走が起きたとして、そこから生還する術はあるのかということ。知らず、後輩の演技を忘れてしまっていた。
「いやに丁寧な口ぶりだな、気持ち悪い。研究者として、検証していないことを断言する気にはなれないからそういう言い方になっただけだ。だがまあ、今後の研究次第では死なずに済む方法、つまりは回復させる方法が見つかるかもしれん、とだけ言っておこう」
なるほど、誠実な回答と言える。しかし、つまりは現段階で瘴気暴走を止める方法はないということだ。目の前で瘴気暴走の発作が静まったのを見たときには、これはまさに天からの贈り物だと思ったのだが。いや、天に住まう者を知る人間としては、天からの贈り物など願い下げだ。
「ちなみに付け加えておくと、いずれ人間どもは、瘴気に対する生得的な完全耐性を獲得するだろうと言われとる。というのも、一世代前の子どもたちと比較して、どうやらここ数年の子どもたちは耐性を獲得するのが早くなっているのだ。これに関して、儂は一つの仮説を立てておる」
「それはどんな?」
もう先生の話に興味はなかったが、続きを話したくてうずうずしている様子だったため、仕方なく適当に相槌を打っておいた。気分は損ねない方がいいだろうという判断だ。
うむ、と先生は満足げに頷き、
「親の瘴気耐性の一部が子に引き継がれるのではないかという主張もあるのだが、儂はもっと単純に考えておる。すなわち、親や祖父母が高濃度の瘴気に晒され続けていたことにより、人体に変異が生じ始めているのではないか、と」
「なるほど。納得っす」
口ではそう言いつつも、高濃度の瘴気という言葉が引っかかっていた。濃い瘴気というのは、魔族の周囲にしか発生しない。この事実と先生の話を合わせると、人類が高濃度の瘴気に晒され続けているというのは、人類が魔族と近しい距離で生活しているということになる。しかもそれは、今の私の祖父母世代位から始まったらしい。
「――今のように魔王様が人類を支配する時代が続けば、いつの日か人類が瘴気に対する完全耐性を獲得する日が来るかもしれん。それまでに、どちらの仮説が正しいか決着をつけてやらねばな」
思考の切れ間に、先生の言葉が入り込んできた。脳内で魔族語を翻訳し間違えたのかと思いもしたが、きっとそれはない。ここまで潤滑に会話できていたのだから。
「ああ……」
息が漏れただけだった。何か口に出そうにも、もはや単語一つ思い浮かばない。魂の動揺が憑依体へと伝わり、身体が強烈な震えに襲われる。
吐き気を催したときには、私の魂は籠の中へと戻っていた。意図せぬ憑依体からの離脱は猛烈な倦怠感を引き起こし、意識を保つことなど不可能だった。