7. 憑依魔法
フィデルは後輩のイアスを連れて、自らが担当する二九七号への栄養補給へ向かった。フィデルは寡黙で会話を始める気質ではないが、この日は珍しく自分から話しかけた。
「二九八号にも身体異常はなかったみたいだな」
「うっす。出鼻を挫かれなくて一安心しましたよ」
「しかし、これが始まりだ。せめて二九七号の訓練相手になる程度には育ててくれよ」
「ふん、こっちの台詞っす」
イアスの強気な台詞にフィデルは苦笑した。地方から魔王都の養成機関に移籍後、初めて単独で養成職につくため気合が入っているのだ。それが空回りしなければいいのだが、とフィデルは少しだけ気を揉んでいる。今しがた話しかけたのも、そんなイアスを気遣ってのことであった。
二体は赤子たちのいる新生児室に入る。黄金羊の乳が入ったミスリル製のカップに、神聖鳥の血を五滴ほど垂らした。神聖鳥の血には瘴気から人間の身を守る効果があり、全養成機関で利用されている。新生児期に十分な量を摂取することで瘴気への完全耐性が手に入る、とアンティエルの研究で明らかにされた。
二九八号はこれを嫌がらずによく飲むし、寝つきも寝起きもいい。二九七号は真逆で、経験豊かなフィデルもやや手を焼いていた。
この日もイアスの方が先に二九八号を寝かしつけ、今はぼーっと籠の中を覗き込んでいる。まん丸な頬を指でつついてみると、この世のものとは思えないほどの柔らかさ。イアスは言葉の話せない赤子が好きではないが、この感触だけは好きだった。
ふいに二九八号が目を開けた。吸い込まれるような深紅の瞳。イアスはじっと見つめられ、その瞳から目を話せなくなる。
二九七号の泣き声が遠のいていき、イアスは底なし沼に引きずり込まれるような錯覚を覚えた。すぐに目を逸らせという理性による命令は、ほんのわずかな時間稼ぎにしかならなかった。藻掻けば藻掻くほど沼の深みに嵌っていくように、抵抗は二九八号の瞳の引力を強めただけだった。
ようやくフィデルは二九七号を寝かしつけ終え、イアスに声を掛ける。
「待たせたな。行くか」
その声に驚いたのか、籠を覗き込んでいたイアスは咳き込んだ。
「大丈夫か?」
咳が落ち着いて顔を上げたイアスを見て、フィデルは言いようのない奇妙さを感じていた。どこがどう違うと指摘できるわけではないが、まるでイアスが別人になってしまったかのような。
「……大丈夫っす」
「そうか」
「うっす」
最後の返事はいつも通りのイアスであった。激しく咳き込んだせいで顔色が悪くなり、それが違和感に繋がったのだろう。フィデルは疑念をそう片付けた。
***
まさか憑依魔法に抵抗されるとは思わず、つい力が入ってしまった。この後輩魔族に耐性があるのか、新生児の身体では十全に魔法が使えないのか。もし後者ならば、成長には時間がかかるため厄介である。とはいえ、とりあえず憑依には成功したのだから早速行動に移ろう。
「先輩、俺ちょっと、先生のところに行ってくるっす」
「お前みたいなやつが行っても、取り合ってくれるとは思えんがな」
「物は試しっすよ。ちょっと二九八号のことで相談があるんで、じゃ!」
先輩との長時間の会話は危険であると判断し、半ば強引に話を断ち切った。ちょっとした言葉遣いや態度から憑依を見抜かれる恐れがあるからだ。術者が私であることまでが露見することになれば、それは計画の失敗を招きかねないほどの一大事と言えるだろう。
先生の部屋までの経路を迷いなく進む。有り余る時間を使って、何度も脳内で反復した甲斐があったというものだ。
憑依は術者と憑依体、つまり私本体と後輩の距離が離れれば離れるほど操作が難しくなり、消費魔力量も増加する。そうそう魔力が切れることがあるとは思えないが、無理は禁物だ。
今日の目的は、先生からこの世界の情報を聞き出すこと。必要があれば先生の秘密の実験を知っていることを明かし、脅してやるのもやぶさかではない。
記憶は完璧だったようで、間もなく先生の部屋に着いた。ここまでは想定通り。部屋に入る前、あの二体は扉をノックしていただろうか。いや、ノックせずに部屋に入り、その後に先生を呼んでいたはずだ。
大きく息を吸って、吐く。一思いに扉を開け、努めて明るい声を出す。なるべく馬鹿っぽく。
「せんせー、ちょっと質問なんすけどー」
返答はない。前回の訪問時も同じだった。数度呼びかけた後、これもまた前回後輩がやっていたように壁を叩きながら叫ぶ。
「先生!」
「おい、ちょっとこっちに来い!」
部屋の奥から先生の声がした。薄暗い部屋を声のした方へと行く。扉がもう一枚あり、奥から物音が聞こえる。
「早く入ってこい!」
「うっす!」
扉を開けると、前室よりもやや明るい奥行きのある部屋が現れた。部屋には等間隔にベッドが並べられ、それが部屋の手前四分の三ほどを占めている。
「こっちだ!」
先生の切迫した声を聞き、慌てて駆け寄る。入って左手すぐのベッドの上で暴れる人間を、先生が必死の形相で押さえつけている。
そばまで行くと、暴れているのは十歳に届かぬ程度の少年だと見受けられた。魔族である先生の腕を退けるほどの怪力を発揮し、今にもベッドから逃げ出そうとしている。
その赤黒く血走った目は、およそ人のものとは思えなかった。