6. 記憶の回復
先生は部屋の中を徘徊した後、様々な道具を籠の横に並べ始めた。時折笑い声を漏らしており、検査時の粛々とした様子とはまるで違う。
「さあ、ここからが本番だ」
検査は終わったのではなかったか。その疑問が浮かんだと同時に、私はかかとに針を刺されていた。この身体で感じる初めての痛みは、脳まで貫くような鋭さがあった。刺された後も傷がじんじんと痛むのはおそらく、針先に毒の類が塗布されていたのであろう。
足を持ち上げられる。最初は意味がわからなかったが、かかとから垂れていく温かいものを感じ、先生が血を集めているのだと理解した。
普通なら、針の傷でこれだけの出血は起こらない。針先に塗布されていた毒の効果だと考えられる。
出血で頭がぼーっとし始めたところで、足先にべとべとしたものが塗りつけられた。血が流れ出る感覚は止まったものの、傷にはまだ鈍い痛みが残っている。
「これ以上は命に障るからな」
靄のかかったような意識の中、先生の呟きが聞こえた。人体、それも新生児にまで詳しいらしい。
検査に用いるには、過剰な量の血液である。となると、やはり検査は終了していて、この血には別の用途があると考えるのが妥当だ。何かしらの研究をしているという話だから、それに関係するものかもしれない。
ふいに手に硬質な物体が押し当てられた。薄く目を開くと、水晶玉だろうか、無色透明な球体が見えた。先生はそれを両手で掴ませたいようであったため、やらせたいようにしてやる。
この球体には心当たりがある。魔力量の概測に使うものだ。魔力量は成長によって増加するため新生児時点の計測は意味が薄いと思うが、これも研究として何かしら意味があるのだろう。
これは対象の魔力を自動的に吸収し、その量に応じて様々な色に発光するように設計されている。これを知っていると、魔力量を低く見せることが可能である。方法は簡単で、魔力の吸収に抵抗すればよいのだ。その逆に、魔力量を多く偽ることはできない。持っている以上のものを吸収されるというのは、原理的に不可能だからだ。
さて、私がここで本来の魔力量を発揮してしまえば、この測定器が塵と化す可能性がある。私は測定不能なほどの魔力を秘めている、と言い換えてもよい。この事実を白日の下に晒してしまえば、危険因子として排除されかねない。
したがって、私はここで自分の魔力量を低く見せるべきなのだ。問題は、どの程度低く見せるかという点。仮に魔族が求める水準があった場合、それに満たない時点で排除対象になりかねない。つまり、あまり低く見せすぎてもいけないのだ。
無論、これらの考えがすべて間違っていて、杞憂に終わることも十分に考えられる。ただ、この養成機関の仕組みがわかっていない現状では、余計なリスクを背負うことはできない。一度の失敗が、人類の破滅へ繋がってしまうかもしれないのだから。
球体が光を発し始めた。最初の白っぽい光はすぐに黄色になり、やがて緑になった。緑は十代半ばの平均程度であるが、新生児にしては破格である。だが、ここまでは問題ないはずだ。二九七号から漏れ出ている魔力は、これの比ではなかった。生まれる時代が違えば、二九七号は魔法使いとして大成していたかもしれない。
吸収される魔力を調節し、緑と青の間ほどで止める。目安としては、成人平均をやや下回るといったところか。
「青、いや、その手前か。悪くはないが、やはり二九七号には及ばないと見える」
先生の言葉からも、私の読みが正しかったことがわかる。調整は完璧だ。盗み見た先生の表情は落胆しているように見受けられたものの、これから私を殺処分しようとするような雰囲気ではない。難所は乗り越えたと考えてもいいだろう。
短時間の記憶ではあるものの、情報の奔流に溺れそうだった。確かにこれは非常に重要な記憶であり、先ほどの直感が正しかったことが証明された。
今回思い出した記憶のおかげで、毛布についていたべとべとしたものは、かかとに針を刺されたときの止血薬だとわかった。先生が溢したのか、私に塗られたものが付着したかのどちらかだろう。
そして、今回のもう一つの疑問。なぜ記憶を失うことになったのか、より正確を期せば、記憶の再生が困難になったのか、ということ。これについても、答えは得られている。
原因は、最後に飲まされた緑色の液体にある。飲まされる直前、私はこの目でそれを確認していた。その上で、ただの回復薬だと判断した。
だが、それが間違いだったのだ。一般的な回復薬に独自の工夫を施したものだったのだろう、軽い催眠作用があったように思う。それが先生の意図するところかはわからないが。
普段なら取るに足らない作用であっても、あのときは血を抜かれたり、魔力の調整をしたりして消耗していた。悪条件が重なり、記憶障害という結果を招いてしまったのだと考えられる。
ところで、記憶を取り戻すという体験を通して、私は一つの気づきを得た。それは、私には他にも失われた記憶があるということだ。失われた記憶の領域があったとして、今の体験はそのほんの一部しか満たしてくれず、いまだ失われている部分が殊更強調されてしまった、とでも言おうか。とにかく、私の記憶は不完全なのだ。
突如芽生えた、尋常ならざる喪失感。遠い昔にあったことが思い出せないとか、そういう正常なものではない。記憶がごっそりと抜け落ちている。まるで誰かが意図的に奪ったかのように。
失われているのは、前世での記憶。それは間違いなかった。記憶を消去する魔法は存在するから、誰かがそれを私にかけたのかもしれない。しかし当時、私は魔族以外に敵がいないほどの強者であった。誰が私にそんな真似をできるというのか。
誰もできないとなれば、それは私が進んで記憶を差し出したことを意味する。ではなぜ、私は記憶を差し出したのか。何も思い出せない。
それでも、焦りは先ほどよりずっと小さい。止血薬がきっかけとなったのだから、思いもよらぬ何かがきっかけとなるやもしれない、と事態を楽観視しているからだ。
一方で、それは喪失から目を逸らすための自己欺瞞だ、と冷静な自分もいる。実際、半分以上は自己欺瞞なのだと思う。
だが、前を向くためなら私は自己欺瞞を選ぶ。今まで失ってきたものと比べれば、記憶の喪失など些事だからだ。あえて心を乱すほどの価値もない。
私はただ、この道を進む。