5. 記憶の断絶
見覚えのある天井が目に入り、いつもの部屋に戻されていることに気がついた。どうやってここまで戻ってきたのか、その記憶が曖昧である。
遡ることのできる最新の記憶は、検査を終えた後、先生が部屋を徘徊していたときのことだ。カタカタとうるさく、危うく防音魔法を使いそうになったのを覚えている。
だが、記憶はそこから断絶していた。眠かった覚えはない。むしろ、騒音のせいで目は冴えていたはずなのだ。
では、なぜ記憶がないのか。気づかぬうちに眠ってしまったのだと切り捨てることもできるが、どうにも気になって仕方がない。何か重要なことがあった気がするのだ。
しばらく考えてみても、やはり思い出せない。思い出せないということは、大事ではないということなのではないかという気もしてくる。それでも私の意識の深層は、記憶の重要性を主張することを止めない。そうしているうちに思考が循環し始め、まともな思考能力まで削がれていく。
思考能力の低下は、意志力の低下に繋がる。意志力の低下は、この孤独な救世主計画においては命取りとなる。誰も私を励まし、叱咤し、人類を救うことへ動機付けする存在がないからだ。
寝る。起きる。飲む。排泄する。この四つだけで構成される時間。これが真正の新生児ならば問題なく過ごせただろうが、あいにく私はそうではない。無限の円環に閉じ込められているような気分になり、精神が蝕まれていく。こうした精神状態の悪化が積み重なり、今のような不毛な状況を招いたのかもしれない。
最強の戦士となるべく育てられた前世も、単調な繰り返しは多かった。魔法も武芸も習得には時間がかかるため、何度も反復して練習したものだ。しかしあのときは、わずかでも前に進んでいるという実感があった。それに救われていた。
そして今とは違い、魔族ではなく人に囲まれていた。もしかすると、私は魔族の放つ邪悪な気配に侵されているのかもしれない。
ああ、まただ。またやつらが近づいてくる。きっとこの気配を感じるたびに、私の魂は傷つけられているのだろう。
例のごとく、あの液体を飲まされる。もはやあの鉄臭さすら感じない。
記憶を辿るという作業は、自身の魂を覗くことであった。その内省の時間は元来の私の卑屈さを露わにし、自分が救世主であることへの疑念すら抱かせてしまう。
身体が揺れている。魔族が私を腕の中に抱え、優しく揺すっているのだ。視界の端に、同じようにされている二九七号の姿が目に入った。
魔族の腕に抱かれる人間の赤子。転生した当初、私の脳裏をよぎった最悪の仮説を象徴するかのような光景である。
もし仮説が正しかったとき、私は適切に動くことができるだろうか。たとえそうでなくても、こんな有様では何も成し遂げられないのではないだろうか。
自分が情けない。こんなことを思うのは、随分と久しぶりな気がする。前世では万能感に溢れ、満を持して転生してきたというのに。
揺れが心地よく、腕の中は温かい。ここだけが唯一、無限の円環から離れられる場所だった。もう籠の中に戻りたくはない。やめてくれ、離さないでくれ。私を一人にしないでくれ。
無様な懇願は届かず、私は再び籠の中に横たえられた。柔らかい毛布の感触。少し身じろぐと、何かひんやりとしたものに触れた。非常にべとべとしていて、実に不快である。
……
……
……べとべと?
これは明らかに毛布の肌触りではない。毛布についた汚れだろうか。最初に思いつく汚れの元は排泄物だが、液体しか摂取していない今、排泄物はそれほどべとべとしていない。よって、その線は除外してもいいだろう。
そうなると、これはいったい何なのか。
べとべとの正体など、本当はどうでもいい。ただ、悲惨な現実と向き合う力を失っていた私は、それを確かめるという現実逃避へと流されていった。
べとべとは足に触れている。正体を確認したければ、足を持ち上げて顔の前に持ってきたり、上体を起こしたりすればいい。だが、新生児の身体ではそれができない。
考えた末、背中をもぞもぞと動かし、籠の中で頭と足の位置を反転させることにした。そうすれば、毛布についているべとべとをこの目で拝めるはずだ。
四十五度回転したところで籠の側面に足が着くようになり、そこからは籠を蹴ることで回転効率が格段に上昇した。後半の四十五度では虚無感に襲われつつも、どうにか百八十度の回転に成功した。
軽く息を整えてからべとべと探しをする。黄みがかった毛布と同系色で見づらかったため、発見には数分を要した。
色は薄い黄色。手に触れると、やはりべとべとしている。主成分は油だろうか。埃っぽさの中に草を感じる独特の匂い。これだけの手がかりがあれば、正体はすぐにわかる。間違いなく止血薬だ。
途端、現在進行形でそれを経験しているかのように、断絶していた部分の記憶が流れ込んでくる。最初に思い起こされたのは、先生と呼ばれていた魔族の顔。猟奇的な笑い声が脳内を反響し、私は記憶の中に没入していった。