ある少年の話Ⅺ
「どうした。やらないのか?」
名も知らぬエルフは淡々としているものの、異様なほどの圧迫感があった。声に棘はないのに、まるで厳しく叱責を受けているような気すらする。
「覚悟はあるんだろう?」
なおも叱責は続く。体感としては、もはや怒鳴られているのと相違ない。
「さあ、答えろ」
「――やります」
そう答えたときには、ミレアを助けたいという気持ちは頭になかった。ただこの場を切り抜けたいという、生存本能のようなものに突き動かされていたように思う。
「よし。それではこの条件が達成された暁には、このファルシファルが責任をもってお前の願いを叶えてやろう」
このとき始めて、ファルシファルと名乗ったエルフの声には愉快げな響きがあった。妖精と形容されるエルフではあるが、その声は嗜虐的でまるで悪魔のようだった。
そしてこの感想が正解だったことは、すぐに証明されることとなる。
はるか下方に見える無数の黒い点。この距離から見れば蟻同然のそれらは、勇者が率いる二万超の戦士たちである。彼らが対峙しているのは、その四分の一ほどの数の魔族。これも上空からでは点にしか見えない。上空からというのは文字通りで、俺は足場もない空に浮かぶように立っている。
「あれらが今回の犠牲になるわけだが、もたもたしていると魔族に殺し尽くされてしまうかもしれんな」
横に立つファルシファルが言った。立つと背が高く、少なくとも俺の一・五倍はある。ネアスやネアンネルの身長を考えるとこれは異常な高身長だが、実は彼らとファルシファルは種族が違う。
ファルシファル曰く、太古の時代にはエルフは空に国を築いていたらしい。初めてファルシファルと会った空間は、その国の名残であるとのことだ。
空の国が崩壊して以降、彼らの多くは地上で暮らすこととなった。その子孫がネアンネルたち森エルフ――ファルシファルは森猿と呼ぶ――である。
空に残ったエルフたちは空エルフと呼ばれ、森エルフと区別される。もちろん、二種族の違いは身長だけではない。特に顕著な違いは、寿命と魔法適性である。
森エルフの寿命がせいぜい二、三千年のところ、空エルフは数十万年も生きる。また、森エルフが人類の二倍の魔法適性を持っているとするならば、空エルフは森エルフの数百倍の魔法適性を持つという。これはファルシファルの肌感覚であって証拠などはないが、ネアンネルも概ね同意するそうだから、大きく間違ってはいないのだろう。
また、空エルフは子孫を残していないという。つまり、存命の空エルフは太古の時代からの生き残りしかいないことになる。もちろん、ファルシファルもその一人だ。
「さあ、これを受け取れ。装着した状態で『転生魔法発動』と人語で唱えるだけで、眼下の人間たちを生贄とした転生魔法が発動するようにしてある。我が手製の魔法具だ」
ファルシファルの言葉とともに、視界の中央に輪状の物体が現れた。小さな青い宝石がはめ込まれた簡素な指輪である。左手の人差し指に着けると、やや緩い。が、一瞬後には輪が縮んでぴったりの大きさになっていた。さすが魔法具といったところか。
俺が転生することになったのは、俺が魔法適性を持った身体を手に入れるためだ。転生魔法には生贄が必要であるらしく、今回のように生贄となる人間が一定の範囲内に収まる場所が整うのを待たねばならなかった。今日は絶好の機会と言えるだろう。
今、勇者軍は迫りくる魔族たちを迎撃するような形に展開している。だが残念ながら、彼らの大部分はその役目を果たす前に死ぬ。そのことに対して、俺は少しも罪悪感を持っていない。こいつらが弱いせいで魔族が村に現れ、みんなが、ミレアが死んでしまったのだから、死をもって償えばよいのだ。そしてその死は、人類の悲願たる魔王討伐として結実する。そう思えば、罪悪感など湧きようもない。
詳しいことはわからないが、ファルシファルは魔王と勇者の双方に恨みがあるらしい。だからこそ、ミレアを助けるための条件が今回のように理不尽なものとなったのだ。しかし俺はもう条件など関係なしに、魔王を殺して、勇者一族も殺したいと思うようになっていた。なぜなら、魔王が人間の国を攻めることを決めたから戦争が起きているのだし、勇者が弱いせいでどんどん人が死ぬからだ。
当然ながら、どちらともを殺したからといって、魔族と人間の戦争が終結するわけではないだろう。これは所詮、規模の大きな八つ当たりでしかないのだから。
それでも、俺はやる。ミレアを救うために八つ当たりをして、八つ当たりをしてミレアを救うのだ。今や手段と目的は、ほとんど一体のものとなっていた。
「転生魔法発動」
そう唱えたとき、俺の内には甘やかな全能感が満ちた。己の目的を果たすためだけにこれだけの命を犠牲にできる人間が、この世にどれだけいることだろう。
しかしそれを体感すると同時に、意識は消滅していた。次にそれを取り戻したときには、俺は死んだ勇者の三男になっていた。イクサスという新たな名は、意外なほどすぐに馴染んだ。
***
二万人超が投入された、魔族との大規模な戦闘。それを生き延びた兵士は、一千人に満たなかった。その中でまともな精神状態を保っていた者はさらに少なく、両手でわずかに余るほど。そしてさらに悲惨なことに、勇者は死に、聖剣も失われてしまった。魔族との戦争において、類を見ない大敗北だった。
生還した兵士は皆、陣の後方に配置されていた者たちであり、前線で何が起きたのかはわからないと話した。しかし、魔族との接触にはまだ多少の猶予があったのは確かなようで、今回の敗北は魔族の大規模な奇襲によって前線が崩壊したせいだと判断された。
近いうちに再び魔族の侵攻が予想されるため、死んだ勇者の弟が勇者を継承し、すでに出立している。とはいえ、聖剣がなくてはせいぜい侵攻を遅らせることくらいしかできまい。アッシャー王国、さらに言えば人類は、滅亡を予感していた。
こうした暗澹たる時代にあると、人々は救世主を求めるものである。救世主計画が始動したのは、それからすぐのことだった。