ある少年の話Ⅷ
倒壊した民家から食料を集め、ささやかな夕食とした。卑しいことをしている自覚はあったが、野草や果実を採取したり、動物を狩ったりする気力はなかった。火を焚くのだって、一度は諦めかけたくらいだ。
「ミレアを助けられる魔術師ってどこにいるんだろう?」
ぱちぱちと弾ける焚き火を眺めながら、食事中からずっと気になっていたことを口にしてみた。
「そりゃあ、王都じゃねえか? あそこはなんでも集まるからな」
「でも、魔族との戦争で出払ってるかも」
「少しくらいは残ってるだろ。王様を守らなきゃならないんだから」
「確かに。じゃあ、俺たちはこれから王都を目指すってこと?」
「そうなるな。どこにあるかも知らねえけど」
「大きい街の、さらにその先だって聞いたことあるから、とりあえず大きい街に戻ろう。そこで道を聞けばいいよ」
「よし! 行く先さえ決まれば、勝ったも同然だな!」
何に勝つつもりなのかはよくわからなかったが、俺は自然と笑顔で頷いていた。悲しいことがたくさんあっても、人間はそれに適応してしまうものらしい。これは俺が薄情だとかそういうことじゃなくて、残酷な状況下でも人間が前に進むための機能だと思う。
「明日は朝一で食料をかき集めて、そのまま出発しようぜ。飯は馬車の中で食べればいい」
どんどん計画――と呼べるほどでもないか――を立てていくエドの話を聞いていると、すぐにミレアを助けられるんじゃないかという気がしてくる。もちろん、高位の魔術師が俺たちみたいな田舎者の相手をするわけないとか、旅費をどうするのかとか、前途は障害ばかりだけど、それも乗り越えられる気がしてくるのだ。
「じゃ、俺はもう英気を養ってくる」
それまでぺらぺらと捲し立てていたのに、エドは急に立ち上がった。急な眠気に襲われたらしく、足取りがふらふらしている。
「おい、大丈夫か?」
苦笑しつつ声をかけたときだった。エドの姿が消え、代わりに何かがそれまでエドがいた場所に立っていた。一秒ほど遅れて大きな音が聞こえた。
揺らめく焚き火の光を受けて、その何かは現れたり消えたりしているように見える。それも一度に全体が照らされることはなく、部分ごとにその姿が露わになっていく。頭、胸、脚、また胸、右腕、また頭、尻尾。
「うあ、ああ……」
魔族を始めて目にした感想としては、酷くお粗末なものだった。いや、この反応こそ、そのおぞましさを的確に表していたと言えるかもしれない。
その魔族は人の胴体、手足を持っていた。が、身体は皮膚の代わりに鱗で覆われており、背後には長い尻尾が見える。さらに奇妙なことに、頭部は馬の形をしていた。馬とトカゲと人間が合体したとしか言いようのない、奇怪な姿である。
どうしてこうもまじまじと観察できているのか。まるで時間が止まっているかのようだった。死を前にしたとき、すべてがゆっくりと見えるというのは本当だったのか。それとも、お互いに硬直しているだけなのか。火の揺らめき方を見るに、正解は後者のようだ。
「×××××」
魔族が口を開いた。それが声だと認識することはできても、まるで聞き取れなかった。馬のいななきが聞こえても、その意味がわからないのと同じようなことだろう。
魔族が近づいてくると、顔がよく見えるようになった。馬が笑うならこういう顔になるだろうという、笑顔にしか見えない表情をしている。だが、心地のいい笑顔ではない。明らかによくない企みを抱えた笑みだ。
逃げ出そうと思っても、身体が動かなかった。眼球をきょろきょろと彷徨わせるのが精一杯で、足が地面から離れる気配などない。そして今、当てもなく彷徨っていた眼球は、一つの物体を捉えた。
それは建物の残骸に埋もれるエドだった。左半身の輪郭が曖昧なのは、薄暗いせいだろう。ぴくりとも動かないほど、よく寝ている。だけど、今は寝ている場合じゃない。魔族が目の前にいるんだ。早く逃げよう。起きてくれ。
いくら念じても、エドが起きる気配はなかった。声をかけようにも、なぜか声は出ない。そうしている間にも、魔族はゆっくりと、だが確実に近づいてくる。焚き火が踏み消され、魔族は大きな黒い影と化した。
思考がすべて吹き飛ぶような恐怖。その恐怖がようやく生存本能を刺激したのか、俺は脱兎のごとく駆け出した。そして理解した。エドが魔族に殺されたことを。左半身がぼやけて見えたのは、ぐしゃぐしゃに潰れていたせいだということを。
走って走って、村を抜けて森に入った。不気味な怪物は、付かず離れず追ってくる。俺を苦しめる時間をできるだけ引き延ばそうとしているかのようだ。
森を駆ける。よく知った森なら上手く撒けるかと思いもしたが、振り返るたびに現実を突きつけられた。脚はとっくに限界を迎えていて、いつ止まってもおかしくなかった。
もう無理だ。そんな考えが頭をほんのわずかに掠めたとき、足に木の根か何かが引っかかった。身体が宙に浮き、顔から着地した。
森は暗く、視界は土と涙で滲み、もはや何も見えない。だが、木々の隙間を縫って月光が差したとき、それを反射するものがあった。ミレアを閉じ込めた、封印結晶だ。転んだ拍子に懐から飛び出してしまったのだろう。
無様な姿をミレアに晒してしまっているようで、もういっそ殺してほしかった。そして、俺もエドのところ行かせてくれ。そう死を願っても、あの魔族はちっとも追いついてこなかった。五秒でも立ち止まれば追いつかれそうな距離だったはずだが、すでにたっぷり三十秒は経っている気がする。耳を澄ませても、足音も聞こえない。
「助かっ……た?」
恐怖が和らぎ、声が出るようになっていた。
「助けてやったんだよ」
「ゲホッ、ゴホゴホッ!」
独り言に返事があるとは思わず、俺は盛大にむせ返った。誰だ、いったい誰が助けてくれたというんだ。そもそも、どうやってあんな化け物から俺を助けたんだ。
湧き上がる疑問を列挙する間もなく、謎の人物は告げる。
「大した怪我はしてないだろ。ついてきな」
視界に人影が映った。森の奥へと進んでいくその人物は、足音一つ立てずにどんどん離れていってしまう。遅れてはいけないと思いつつも、立ち上がるのには時間がかかった。数歩先の封印結晶を拾い上げてから、後を追った。
村人の俺でも立ち入ったことのない森の深部。謎の人物は躊躇なく歩を進める。この先に何があるのか。どこまで行くのか。出会った瞬間から止まぬ疑問の奔流は、目的地に到着したと同時に思考の堤防を決壊させた。
天まで届きそうな巨木が正面に見え、その周りをこれもまた大きな木々が囲っている。それぞれの木々は橋のようなもので繋がっており、複雑な立体構造を形成しているようだ。それ以外にも、見たこともない植物が夥しいほど生えていて、今まで目にしたどんな幻想絵画よりも幻想的な光景だった。
「着いたぞ。ここが我ら森の民の国だ」
満足そうに言う謎の人物。いや、森の民という自称が正しいのならば、人物とは言いかねるかもしれない。森の民とはエルフのことであり、エルフと人間は異なる種族だからだ。
「人間のお前がここに滞在するには、陛下のお許しが必要だ。今から謁見に出向くぞ」
「は?」
「こっちだ」
謎の人物、もとい謎のエルフは、俺に構うことなく先を急ぐ。目まぐるしい展開に思考能力を奪われてしまっていた俺は、諾々とついて行くことしかできなかった。




