ある少年の話Ⅴ
苦労して貯めたお金は結局、ほとんど使わなかった。ちょっと高級な昼ご飯を食べたものの、まだまだお金は残っている。目的を失ったお金を抱え、俺たちは帰りの馬車に乗り込んだ。
荷台の幌から顔を出し、封印結晶を太陽にかざす。特に何が起きるわけでもなく、ただただ眩しいだけだった。見た目はきれいな石ころにしか見えないが、本当に魔族すらも封印する力があるのだろうか。
街と村の中間地点を過ぎ、少し行くと小さな町がある。そこで軽食を購入した。あまりのんびりしていると日が暮れて危険なのだが、昼の高級料理が少なすぎて空腹に耐えられなかったのだ。
休憩を終え、荷台に手を乗せて足をかけたときだった。男の叫び声が聞こえた。
街道の方に目をやると、馬でこちらに向かってくる男。
「……ぁぁぁぁ!」
男は叫び続けている。まだ少し距離があって聞き取りづらい。だが、男の様子は尋常ではなく、何かよからぬことを想像させた。例えば、街道上に盗賊が出たとか。
荷台にかけていた足を下ろして、男がこっちに来るのを見つめる。
「大変だあああ!」
今度は聞こえた。エドと顔を見合わせる。
「今、大変だ、って言ったか?」
無言で頷き、エドに同意を示す。やはり盗賊が出たのだろうか。だとしたら、この町に泊まるか、大きい街に戻らなければならないかもしれない。
「盗賊だったら嫌だな」
エドも同じ考えに至ったらしく、苦々しそうな顔で言う。
だが続けて聞こえた叫び声は、俺たちの考えをさらに悪い形で否定した。
「魔族だ! 逃げろおおおおお!」
町の人たちも男の声に気づいたらしく、急激な混乱が波のように広がっていく。
「魔族なんて、この辺りじゃ聞いたことない。何かの見間違いじゃないのか」
父さんが冷静に言う。いや、冷静を装っているだけかもしれないし、魔族の存在を否定したいだけかもしれない。だって、もしあの男の叫んでいることが事実ならば――
「おい、あんたら、早く逃げろ! デカい街まで逃げられればなんとかなる! 今ならまだ間に合う!」
馬を走らせていた男は、いつの間にか俺たちのところまで来ていた。激しく唾を撒き散らしながら、俺たちに捲し立てる。興奮と恐怖のせいか、顔色は赤とも青とも言えない不気味な色をしていた。
父さんは男に歩み寄り、馬上の男を見上げながら言った。
「落ち着いてください。それは本当に魔族だったんですか?」
「間違いねえ、俺の故郷はあいつらに滅ぼされたんだからな! 信じる信じねえはあんたの勝手だが、それで死んでも文句言うんじゃねえぞ! じゃあな!」
立ち去ろうとする男の前に父さんが回り込む。男が手綱をぐいと引いた。
「なんだよ、危ねえだろうが!」
「一つだけ聞かせてください。あなたはどこで魔族を見たのです?」
「この先の街道を真っすぐ行ったところだ」
「む、村は、村はどうなっていましたか?」
「質問は一つだけなんだろ!? 村なんて知らねえよ!」
父さんの返事を待たず、男は馬を走らせた。前に立っていた父さんがしりもちをついたのにも構わず、どんどんと遠ざかっていく。エドが男の背中に怒鳴り声を浴びせかけても、男は振り向きもしなかった。
普通は目の前に人がいたら、馬を発進させるわけがない。それでも男は発進させた。この危険な行動へと男を駆り立てたのは、魔族への恐怖に違いない。そう思うと、俺はエドのように男の行動を咎めることができなかった。あの男と同じ立場に置かれたら、俺もきっと他人の危険を顧みることなどしない気がしたのだ。
「おい、どうする?」
エドの声で我に返った。
「どうするって?」
「村だよ! あの男を信じるなら、魔族が出たのは村の方ってことだろ? もし村が魔族に襲われてるなら助けに行かないと!」
「あ、ああ……」
俺の中ではすでに村のことは諦める方向へと思考が流れており、エドの言葉でそのことに気づかされた。自分からこんなに情けない声が出るなんて知らなかった。
そんな俺に気づいたのかはわからないが、エドは俺の胸倉を掴んで声を荒らげる。
「ミレアがどうなってもいいのか! 俺はよくない! 俺だって――」
父さんがエドを抑えたため、続きが言葉になることはなかった。それでも、続きはなんとなくわかってしまった。
わずかに頭を左右に振って、父さんは俺とエドを交互に見る。眉間に皴が寄っていて、何かを悩んでいるのがわかる。その何かはおそらく、俺たちをどうするかということだろう。
父さんは村を見に行こうと考えているに違いない。だけど俺たちを危険な目に遭わせるわけにはいかないから、俺たちを逃げすのか連れていくのかで悩んでいるのだ。
十数秒で頭の動きが止まった。結論が出たらしい。
「お前たちはもう来年には成人だ。お前たちがどうするかは、お前たちで決めろ。俺は村を見に行く」
「親父さん、一緒に行かせてください!」
「わかった」
「なあ、お前も来るだろ?」
エドの瞳が真っすぐこちらを見据えている。その曇りのない瞳の中で、俺は自分が頷くのを見た。そこに俺の意志は介在していなかったように思う。
「よし、そうと決まれば急ぐぞ。魔族に鉢合わせしないように街道を外れるから、乗り心地の悪さは覚悟しといてくれよ」
出発前の父さんの言葉通り、乗り心地はこれ以上ないほど悪かった。荷台に尻を打ちつけた回数は数え切れない。頑強なエドですら酔ってしまったようで、顔を青白くしていた。常日頃から馬車酔いする俺などは言うまでもない。
魔族の影を見ることもなく、村のそばの丘が見えてきた。これを回り込むとすぐに村だ。ここまで何もないと、やっぱりあの男の見間違いだったんじゃないか、そんな気がしてくる。
「やっぱりあいつの気のせいだったんだよ」
そんなエドの呟きも、余計にその気にさせた。
「あーあ、ただ馬車酔いしただけじゃねえかよ」
酔っていると言っても、憎まれ口を叩く程度の余裕はあるらしい。俺は返事代わりに苦笑を浮かべるのがやっとだ。
「おい……!」
風に乗って、御者台から父さんの声が聞こえてきた。ギシギシと軋む車輪や荷台の音のせいで聞き取りづらかったが、たぶんその声は震えていた。先頭にいる父さんには、何かが見えたのだろうか。急激に嫌な予感が膨らむ。
荷台の右側から顔を出す。丘が邪魔で何も見えない。顔を引っ込め、今度は左から顔を出す。
「嘘だろ……」
知らず、呟いていた。
俺の背後でエドが顔を出す気配。すぐさま叫び出す。
「なっ、なんだよ、あれは!」
俺とエドの中身のない感想はおそらく、村人の正常な反応だったに違いない。今朝まで暮らしていた場所が消え失せいていたら、誰だってこんな風に言葉を失うだろう。
俺たちの知っている村はもう、そこにはなかった。




