ある少年の話Ⅰ
猫が伸びをする。背中が描き出す優美な曲線はすぐに消え失せ、もっと見ていたいという願いはいつも叶わない。まるで美の儚さを象徴しているかのようだ。やがて猫は石垣の上から飛び降り、その向こう側へと消えてしまった。見るべきものを失い、しばし呆然と立ち尽くす。
あの猫はよく我が家に来る。そのたびになけなしの食料を分けてやるのだが、食べるだけ食べるとそそくさと帰っていく。野良猫とは思えない毛並みの良さだから、うち以外からも餌をもらっているんだろう。取って食われる猫もいるというのに、何と贅沢なことか。もし生まれ変わるなら、あの白い猫のように食事に苦労せず、のんびりと過ごしたいものだ。
「カイン、なーに見惚れてるんだよ」
「は?」
声に振り返ると、エドが家の中から出てくるところだった。一緒に狩り用の罠づくりをしている最中だったため、外で猫を見てサボっていると思われたようだ。
俺が答えないうちから、エドは追い打ちをかけてくる。
「とぼけたって無駄だぜ。ミレアに見惚れてたんだろ?」
ミレア。名前を聞いただけで胸が高鳴り、顔が熱くなる。エドがにやにやと意地悪な笑みを浮かべているところを見るに、俺の顔は赤くなっているんだろう。
ただ、俺はミレアに見惚れていたわけではない。前にも似たようなことがあって、そのときはミレアに見惚れていたのは確かだが、今回は断じて違う。俺は猫を見ていたんだ。
気恥ずかしい気持ちを抑えて、どうにかエドの勘違いを正そうと試みる。
「ミレアじゃなくて、俺は猫を見てただけだよ」
「猫だぁ? そんなガキみたいな言い訳が通じるわけねえだろ」
「いや、言い訳じゃなくて事実を言ってるんだ」
わかるわかる、と言わんばかりに頷くエド。恋に正直になれない少年を理解している俺、みたいな態度は勘弁してほしい。
「もう今さら否定する必要なんてねえだろ。お前がミレアだぁい好きだってこと、俺は知ってるんだから」
確かにエドは、俺がミレアのことを好きなのを知っているが、「ミレアだぁい好き」という言い方は馬鹿にされているようで腹が立つ。それに、事実と異なることを指摘しておきながら得意な顔をしているのも腹が立つ。
自分の子供っぽさを自覚しつつも、俺は反論せずにはいられなかった。
「俺はお前が知ってることを知ってるんだから、わざわざ否定するわけないだろ。エドが間違ったことを言ってるから、訂正してやってるだけじゃないか」
「うーん、一理あるかもしれねえが説得力には欠けるな」
「なんでだよ」
「簡単な話だろ。ここに猫はいねえけど、ミレアはいるからな」
「猫はついさっきまでいたし、ここにミレアはいないだろ」
「いるよ?」
エドの汚い声とは違う、明るく澄んだ声。心臓が一つ大きく跳ねたのを合図に、鼓動の速度がどんどんと上昇していく。声の聞こえた後ろをそろりと窺う。まさかとは思うが、今までの会話を本人に聞かれてしまったのだろうか。
まず視界の端に、燃えるような赤髪が映った。次いで透き通るような肌、琥珀のごとき瞳。そこには予想通り、いや期待通りと言うべきか、ミレアの姿があった。
エドの冗談だと思っていたら、まさかの本人登場。気持ちばかりが焦り、上手く言葉が出なかった。
「い、いいいいい、いい、いいつ、いついつ、いつかっらここここに?」
「え、なんて?」
困ったような顔で笑うミレア。我ながら落ち着きがなさ過ぎたと反省する。だが、感情の急激な進路変更に心がついてこず、なかなか落ち着けない。エドへの苛立ちと、ミレアへの気持ちはあまりにも方角が違っていた。
「いつからここにって、少し前からこっちに歩いてきてるのが見えてただろ」
ミレアの代わりにエドが答えた。長年の付き合いのせいか、俺の呂律がどれほど回っていなくても、エドは俺のことを聞き取れる。あるいは聞き取るというより、俺の台詞を予想しているのかもしれない。それだと俺が単純なやつみたいで複雑だけど。
でも、そのおかげで助かった。場が繋がったし、俺も落ち着きを取り戻せた。
「俺は猫を見てたから見えなかったんだと思う」
「まだそれ言うのかよ。猫なんていねえじゃん」
「あ、私も見た! 白い子だよね?」
「そうそう!」
ミレアの顔がパッと明るくなった。かわいかったなー、なんて言いながらニコニコしている。これほど美しい笑顔が他にあろうか。
心強い援軍を得て、エドに言い返す。
「ほら見たことか。きっと、心の清い人にしか見えないんだね」
「な、貴様……」
昔話の悪役のような台詞。これは明らかに敗北者の言葉である。
しばらく反駁しようと言葉を探していたようだが、じきに諦めたように手をひらひらと振った。
「やめだやめ。まだ罠づくり終わってねえんだから、早く戻るぞ」
「ああ、そういえばそうだった」
今日エドがうちに来たのは、トゲウサギを捕るための罠を作るためだった。もう昼も近いというのに、作業は半分以上残っている。この調子だと、日暮れまでかかりそうだ。
「じゃ、じゃあ、俺たち作業に戻るから」
俺がそう言うと、ミレアは後ろ手に持っていた手提げを差し出してきた。
「ね、お昼持って来たんだけど、先に食べない?」
「え、いいの⁉ ありがとう、ミレア!」
「おお、さすがミレア! ちょうど腹減ってたんだよ!」
その言葉通り、エドの腹が豪快に鳴った。
「ずっと椅子に座ってただけなのに、なんでそんなに腹が減るんだよ」
俺がつっこむと、エドが笑い、ミレアも笑った。二人の笑顔を見ていると、俺まで笑わずにはいられなくなった。
「あのさ、さっきの話聞いてた?」
ミレアお手製のサンドイッチも堪能し終わり、俺は気になっていたことを確かめるべく慎重に切り出した。気になっていたこととはつまり、ミレア本人に俺の気持ちがバレていないかどうかだ。
「さっきって、白い猫ちゃんの話?」
「えっと、その前にしてた話のこと」
「あ、ごめんね。ちょっと遠かったからよく聞こえなかったみたい。もう一回話して?」
「いや、いいのいいの! 全然大丈夫。むしろ聞こえてなくてよかったっていうか」
心からの安堵で気が緩み、ついそんなことを口走ってしまう。しかし、ミレアの顔がわずかに曇るのを見て自分の失言を悟った。聞かれたくない話なんて言ったら誰だって気になるし、悪い想像をしてしまうものだ。挽回の言葉を探しても、スカスカの脳みそからは何も出てこない。
「何か……隠しごと?」
問い詰めてくるミレア。答えに窮すれば窮するほど、俺の心証は悪くなる。そしてそのことを意識すればするほど、気の利いた答えは遠ざかる。ああ、いったいどうすればいい!
「ったくお前は、隠しごとの一つもできねえんだなあ」
「ちょっと、何を言い出すんだよ」
エドの意味不明な乱入。小声で制止するも、エドは止まる気配がない。
もう終わりだ。自分の口で言うならまだしも、エドにバラされる形でミレアに気持ちが伝わってしまうなんて。
「ほら、あれだあれ。もうすぐミレア、誕生日だろ? だから俺たちで何か、プレゼントっていうか、そういうの考えてたんだよ。せっかく驚かせるつもりだったのに、カインのせいで台無しだぜ」
完全なる出まかせに唖然としてしまう。こういうときのエドの機転と度胸には、目を見張るものがある。そのせいでひどい目に遭ったことも数知れないのだが。
俺にだけ見えるよう、エドが汚いウインクをしつこく見せつけてくる。一つ貸しだからな、という心の声が聞こえてくるようだ。
仕方ない。ここは甘んじて受け入れて、エドの話に乗ろう。
「ごめん、隠しごとしてて」
「ううん、こっちこそごめんね。でも、こんな二か月も前から考えてくれてたなんて、その気持ちだけでもすっごく嬉しい」
「そう言ってもらえると助かるよ」
「こうなったら、プレゼントがあるってわかってても驚くようなもんを用意しとかねえとな」
二か月前という、「もうすぐ」とは言い難い時期であることに言及されたのには肝を冷やしたが、不自然に思っていないようで安心した。ミレアの純心そうな笑顔が心に痛かったが、辛うじて笑顔で返せたと思う。
一方のエドは、後ろめたさを欠片も感じさせぬ様子でおどけていた。豪胆というか、図々しいというか、馬鹿というか。でも、それが少し羨ましくもあった。
「じゃあ、何が来ても驚かないように準備しておかなきゃ」
「え、それは弱ったな」
エドが本当に困ったように言うものだから、笑いを堪えきれなかった。プレゼントを用意する気なんてなかったくせに、余計なことを言うからだ。
「その様子じゃ、エドには任せておけなさそうね」
「いや、俺に任せてくれ。何かすげえもんをカインに考えさせておくから」
「それは結局、俺任せじゃねえか」
「バレたか」
こうして俺たちは、ミレアのための誕生日プレゼントを考えることになった。罠づくりがこの日のうちに終わることはなかった。




