10.新世界に向けて
「ふふふ、抜け目がなさそうに見えて案外抜けておる」
飲み物に混入していた強力な催眠剤によって、フィデルの精神は今、完全な無防備となっている。この状態ならば、アンティエルの術は非常によく作用する。
「ちと骨は折れるが、やるしかあるまい」
いつの間にか、アンティエルの身体は黒い靄に包まれていた。靄は不定形でありながらある程度の指向性をもって、ぐったりとしたフィデルへと向かっていく。靄はフィデルを飲み込み、輪郭の曖昧な球体を作り上げた。
アンティエルが行使したのは、記憶の改竄を行う瘴気術。健常な精神を持つ者には作用しづらいが、今のフィデルのように薬物の影響を受けていると抵抗するのは難しい。
「ふう、こんなものか」
仕事に満足がいったのか、ため息とともに呟く。
靄が薄れてもなお、フィデルは口を半開きにして呆然としていた。これを回復させるには、催眠を解くための薬を服用させる必要がある。
「よし、起きろ」
薬を飲ませ終え、フィデルの向かいに座ったアンティエルが告げる。すると、今までの放心状態が嘘のようにフィデルの瞳に生気が宿った。
「何か、少しぼーっとしていたようです。すみません」
「おいおい、しっかりしてくれ。お前までここで寝ていく気か?」
「いえ、そんなことは。私の部下が先生のお手を煩わせてしまったようで、申し訳ありませんでした」
「わかればいい。早いところ連れて帰ってくれ」
「承知しました」
「連れてきてやるから、そこで待っておけ」
「いえ、私が行きます」
アンティエルは少々狼狽えた。奥の荒れた部屋を見られてしまえば、せっかく記憶を改竄したのに余計な疑念を抱かれかねないからだ。
「い、いや、儂が行く。他人にうろうろされるのが嫌いなんだ」
「そういうことでしたら」
どうにか誤魔化したアンティエルは、奥の部屋で眠るイアスの元へ。ここでも同じように記憶の改竄を行った。
その筋書きは、
『二九七号の検査結果をもとに、育成方針の相談に訪れたイアス。相談の途中、アンティエルはイアスに疲労が溜まっていることを見抜き、それを回復させるための睡眠治療を施すことになった。そこへフィデルが栄養補給の時間が迫っていることを知らせに来た。フィデルに経緯を話すと、フィデルは治療の完了を待つと言うので、それまで茶を振る舞っていた』
というものである。これはフィデルも同様だった。
鎮静剤が効いており、瘴気術の行使には手間取らなかった。あまり時間がかかるとフィデルに怪しまれる恐れがあるため、アンティエルは胸を撫で下ろした。
イアスを肩に担ぎ、奥の部屋から出る。尻尾で扉を閉めてから無理矢理イアスを立たせ、気付けの香を嗅がせた。直に目が覚めるだろう。
「ほら、完全回復だ」
そう言って、フィデルの隣の椅子にイアスを座らせる。
「まだ寝ているようですが」
「意識はほとんど覚醒しているはずだ。肩を貸してやれば歩くぞ」
「そうでしたか」
実際にフィデルが肩を貸してやると、覚束ないながらイアスは目を閉じたまま歩いた。治療室の入り口で振り返り、フィデルは粛然と言った。
「重ねてお詫び申し上げます。いずれ何かお詫びの品を」
「一番の詫びは、お前たちがもうここに来ないことだ」
「それは手厳しいですね」
「早く帰れ」
「はい。失礼します」
部下に肩を貸す上司を見送り、アンティエルは扉を閉めた。
「これでやつが消されるのを防げただろうか。感謝してほしいものだな」
アンティエルの呟きを聞いた者は、誰もいなかった。
「あれ、先輩? 何してるんすか?」
「やっと起きたか。まったく、手のかかるやつだ。これでは赤ん坊を二人育てているようなものじゃないか」
イアスが起きたのに気づくなり、フィデルは突き飛ばすようにイアスを肩から下ろした。イアスの足がふらついているのは、鎮静剤が神経を鈍くしているからだろう。
少しの間考え込み、イアスは治療室での出来事を思い出したようだった。
「ああ、そうか。俺、治療室で寝ちゃったんでしたね」
「上司に迎えをやらせるとは、いい度胸をしている」
「もー、そんな褒めないでくださいよー」
「新生児期はいつ何が起こるかわからない。職務怠慢だと報告できないわけではないんだぞ」
「あ、ほんとにすんませんでした。マジで反省してます」
フィデルは返事をすることなく歩き出した。
***
目が覚めて籠の中にいることに気がつき、私はひどく安堵した。そして自分が安堵したことに対して、思わず自嘲してしまう。籠の中を好むなんて、心まで赤ん坊になってしまったかのようではないか。けれども、そんな感情を抱いた自分を肯定したくなるほど、籠の外では色々なことがあった。
常に頭にあり続けた、人類にとって最悪の仮説。様々な状況から判断して、この仮説を排除することはできずにいた。だがそれは、自分の思慮深さや公平さを裏付けるためのものであり、言ってしまえば自己満足に過ぎなかったのだ。これが真実であるなどと、本気で信じた瞬間は一秒たりともなかった。私にとって、そんな都合のいいことがあるはずないと思っていたのだ。
しかし、真実だった。人類は魔族に敗北し、現在は魔王によって支配されている。ああ、なんと喜ばしいことか。これで私は真の救世主となれる。
救世主と名乗るからには、それにふさわしい舞台が用意されていなければならない。入念な準備をして転生し、もしそこが平和な世なら、私の存在意義はどうなる。私の前世はどうなる。
私が救世主でいられる舞台が用意されているのか。転生するときの懸念はそれだけだった。
だが、これで懸念はなくなった。今の世界は完璧な舞台だ。まさに私が望んでいたものをそのまま具現化させたかのようである。人類を魔族の軛から解放し、世界を新たな段階へと導くという理想を実現するのに、これ以上の舞台があろうか。
待っていてくれ、私が築く新世界を。




