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窮北日誌

作者: 五行 理

 わたしが赴いたのは樺太である。まさに全島の形勢を探り、国家の大計を述べようとしたのである。

 元治元年、シララオロに仮住まいし、戍卒じゅそつの西村傳九朗とともに訴状を函館府に奏上し、これを請願して退き、ポロアントマリにおいて命を待つ。

 明くる慶応元年三月二十四日(1865年4月19日)、漁舟三隻が府報をもたらし、「岡本文平は戍卒何某とともに樺太全島の踏査を申し出る。これは統治を裨益することで、その志は褒めたたえるに値する。議論の末、その申し出を許可する。奥地を踏査する者の多くは失敗するという。このため、誓書を提出せよ」と知らせる。

 時に本国は事件が多く、屯戍員が少ない。このため、調役の古橋忠は誓書の提出に拘泥するので、誓書を呈して、「もし漂流して辺境の地に至ったとしても、かりにも国家の法令を守らないとあらば、意味をなさないでありましょう」と言うと、忠はわたしの志を感じて、あえて何も言わず。

 傳九朗が、「国政は多忙を極めるから、参議の意見には賛否両論でるだろう」と怒るので、古橋氏が手紙を書いて、茶を濁すようなことはしないようにと参議を諭してくれる。

 四月一日(4月25日)、西南の風が吹き、天気は朗らかに晴れたので、早々にポロアントマリを出帆する。舟はまるで矢のように速く進み、午後にチベシャニに至る。

 四月二日(4月26日)、湖を二つ過ぎて氷床の厚い氷の上を渡り、トンナイチャに至る。

 四月五日(4月27日)、シュマコタンに至る。残雪が未だ消えず、ソリを使ってここを通過する。

 四月七日(4月28日)、ロレイに至る。

 四月九日(4月29日)、オタシャムに至る。

 四月十日(4月30日)、雪が降る。海風が冷たく吹きすさぶ。

 日暮れにシララオロに至り、傳九朗とこの先へ進むか討議する。しかし議論は広がらず、三十日間逗留して議論が決し、ともに行くこととなる。

 五月十日(6月3日)、晴れて南風が吹き、ワアレを出帆する。

 この行程には強壮な現地人を募って五人を得る。一人はウエキチというシララオロの人で、村長をしており口才がある。定役の水上重太夫がわたしに勧め、同行させることになる。一人はトハヲというマトマナイの人で、かつて在住士官の栗山太平に従って奥地をめぐり歩き、ヌエに至ったことがある。一人はシュウキチというアイの人で、敏捷で炊飯が得意である。一人はケシユリカ、一人はエロロサッテ、ともにシュシュウシナイの人で、力が強く労務によく耐える。

 松前商人の伊達何某の舟に出逢い、まさにシッカに赴こうとしていたので、水上重太夫らが討議して、食糧と荷物をその舟に載せ、わたしたち二人を独木舟に乗り込ませて先行させる。わたしは不便であることを伝えて、さらにアイヌを三人雇って独木舟二隻で行く。

 わずか一里ばかり進む間に東北の風が盛んに吹きすさび、たちまち大霧になって周囲がわからなくなり、舟が波にもまれて漂い、転覆しそうになる。

 わたしはかつて、氷床を渡っているときに氷が砕けて水中に落ちて幾度も死にかけたが、今ふたたびこの災難に遭う。このため、わたしは罵って、「わたしは国家統治のため、境界をはっきりさせて国家万世の礎を築こうとしている。悪神よ、どうしてしばしば高い志を持つ者を苦しめるのだ」と言う。

 午後、チカヒルウシナイに至る。風雨が入り混じって吹きすさび、波濤が岸をたたいて鳴り響いた。

 傳九朗は、「ここでようやく地獄を脱したぞ。ただ風波の難を免れただけではない。明日は必ず晴れるだろう」と言う。この夜は現地人の住居に泊まる。

 五月十一日(6月4日)、思った通りに晴れわたり、西風が吹く。辰の上刻にトッソを過ぎ、午の上刻にマクンコタンに至る。

 巨大なクジラが群れをなすのを見る。幾千頭いるのかわからない。天を仰ぎ、潮を吹く。飛沫が迸散するさまは、まるでにわかに白雨に至るかのような様相を呈している。背を沙上にさらし、しばらくしてからゆっくりと去るクジラがいる。まことに奇観をなす。

 けだし、北海にはクジラが多く、それはこの地のみではない。もし、西洋の捕鯨法に倣ってこれを獲れば、その利益はニシン、サケやマスのそれを倍以上も上回るだろう。

 未の刻にホヤンケを過ぎ、晩にモットマリに至る。

 五月十二日(6月5日)、天気は昨日と同じようである。

 進んでカシボを過ぎ、ノッカ山を遠望する。樹木がこんもりとしている。ウエンコタンを過ぎ、シリトルに至る。

 ここは山色が美しく人の目を喜ばせ、心をのびやかにし、くだらない考えを消してくれる。ただし、山水の美しさはこの如くだが、いまだに居住する者がいないのは遺憾である。

 わたしはかつて、国じゅうを歩いて土地々々を見て回ったが、平安なときは水が清く、山が秀で、風景が極めて佳麗で、そして人心は倹約を旨とするため大国の風格はなく、浪花は俗であり、江戸は粗であり、皆それに飽き足らず、人はひそかにわが里の楽しさを思うものである。

 わたしは阿波の人である。里を三谷とし、山をよりどころとして村をなす。谷は奥深く、峰は秀で、老木が並び立ち、青々と茂って青天を凌ぐ。ほとんど都会のなきところで、平生はこれをもって自負している。

 北海のオショロ、オタルナイなどの山川を見ると夾然として自失してしまう。島内諸所をことごとく見ると、まさに人の意表に出ていることを知り、まるで国家のようだと感じる。わたしの素志を達することができれば、老いて死のうとも遺憾はない。

 晩にシャコタンに至り、ここに泊まる。ウイルタを見る。

 五月十三日(6月6日)、天気は昨日と同じようである。

 正午、コタンケシで休憩し、晩にナイオロに至る。ナイオロはコタンケシを隔てること四、五里ほどで、その間は山脈が長く連なり極めて秀麗で、山のふもとは突然に広く平坦になっている。

 わたしは、「シッカは島の中央に位置し、その土地は未だわれわれには適さない。もし樺太を経営しようとするなら、ナイオロを選んで占拠すべきであろう」と言う。

 なかんずく、かつて、「シッカ河畔に居住したい」と請願すると、庁議は河原およびその傍地を占うことを許し、経営費四十余金を支給した。

 水上重太夫はもとより工事に慣れており、わたしに、「子のために家屋を造るには、このように三十五金では足るまい。その不足分をわたしが補おうではないか」と言って、ついに酒井銑次郎の漁夫五人およびアイヌ二人を使って何某に預け、これを造る。

 この工事が竣工する前に今回の踏査が決まり、ナイオロを居住地と定めて竣工を待ってその材料を移そうとして、わたしはかつて奥地のロモヴォを推すことを論じてその地を第一としたが、何某らの異議をどうすることもできず、達することができなかった。このため白木にしたためて、「此より方百間、岡本某在住の処」と記す。けだし、何某が誤認しないことを望む。

 五月十四日(6月7日)、シッカに至る。午後、東風が吹き小雨が降る。このため、ここに泊まる。

 詩を賦してその志を、

三面青山そびえ

迤邐翠黛新たに

曠野数十里

泱漭垠を見ず

一水は東北より

一水は西北より

二水合流のところ

耕漁貨殖すべし


誰か知らん洪基を立つに

急務邊陲に在らんと

男児見るところあり

あえて機宜しきを陳ぜんと欲す

中原陽九に会う

孤忠表するに由なし

むなしく卜居の志を

しばらく後人の紹を俟つ

と吟ずる。

 五月十五日(6月8日)、霧中を敢行し、午後、タライカに至る。現地人に酒を飲ませ、舟を買う。ワアレで出した金額に比べると、さらに大きい。

 さらに食料と雑具をシッカで揃えようとしたため、数日逗留。しばしば現地人の住居に行く。

 詩を賦して見るところを、

東家わずかに去るまた西家

幽静まことに世嘩を避くるにたえたり

松子衣をむきて上客に供し

鮒頭水に漬け慈爺じじすす

古潭コタンの地は良皮屨を産し

山靼人さんたんじんは好細紗を輸す

うなかれ苗民我が種にあらずと

なお京貨を蔵し人にむけて誇る

と吟ずる。

 五月二十四日(6月17日)、早々にバンケタライカを出発し、舟を湖中に浮かべて現地人の一人に命じて道案内をさせ、シンノシレトコに向かう。

 従者は六人、食料は十包、ほかの器物も同じくらいだが、ウエキチらが舟載過重を危ぶむ。

 ここから連日の陰雨。わたしは急いで進もうとした。傳九朗はわたしに賛同し、先にわたしを乗せ、背後を振り向くとウエキチらを罵って、「この程度で何を恐れているんだ。俺はお前たちのように怯えはしない」と言って出帆した。

 東北へ一里ほど進む。右を顧みると海浜がバンケタライカと一直線に連なり、ウイルタの住居が三戸ある場所をモシリヤという。

 左を顧みると湖の傍らに二戸ある場所をヨッタマという。

 また、東の一里ばかりをケウレといい、三戸ある場所をタロケンルンという。

 湖はここに到ってようやく終わり、狭くなる。南北二十町に過ぎない。湖の傍らは雑木が生い茂り、東方の山脈は起伏に富んで波上に景色が映り込んでいる。まことに絶景である。

 水もまた清く澄んで冷たいことは、バンケタライカの比ではない。ついに右に曲がって陸に上がり舟を曳く。三百歩ほどで潮が引いて海底が現れる。

 南風が吹き、これ以上進めず。

 五月二十五日(6月18日)、天気はいまだに悪い。アイヌは皆、晴れるのを待とうと言う。

 わたしは傳九朗と舟を残して陸地を進んだ。三、四里ほどでバナカに至る。小山があり、山の緑はどことなく力強い。

 ウイルタのシナコヌという者が追っかけてきたところに出逢う。米とタバコを分け与え、先導させる。

 二里ほどでノコロに至る。

 山脈が中断して辺りが突然ひらける。ひらけた土地の広さは約二十町ほどある。じめじめした場所が多く、ジュンサイが生い茂っている。東北の山脈は次第に遠くなり、徐々に高くなっていく。山の蒼さが雲にそびえている。

 河が一筋ある。広さ三十間、深さ四尺。夏と秋との境はマスが極めて多いという。

 西方の山に寄り添うようにニヴフの住居が一戸ある。ここから清らかな泉が湧いている。

 ニヴフによれば、「冬季の気候は甚だ寒いが、午後になればバンケタライカより遥かに暖かくなる」という。

 この夜、同行する現地人およびニヴフに酒を飲ませる。この地のニヴフはタバコを所望し、バンケタライカのニヴフは酒を所望した。

 傳九朗は、「これでは、いつまでも止まらんぞ」と言う。

 このため、これらを与えず、ウエキチらに命じて酒樽と米を家の中にしまわせた。ニヴフらはこれに怒り、夜になると去る。

 五月二十六日(6月19日)、霧中を敢行し、早々に出帆する。

 山頂を見ると、落ち葉や青々とした松葉の色が滴らんばかりである。その下は禿げあがった山肌が灰色をしている。

 一里ほど進むと、五、六町ほど山脈が中断している。河が一筋あり、深さはへそに至る。この場所をキンタンキという。

 霧が晴れて山を東南一里の先に望む。この場所をベセトコという。

 バンケタライカから見える場所で、バンケタライカからこの場所に至る。

 辰の下刻、山を下ろうとしたが、風が吹いたので中断する。

 五月二十七日(6月20日)、風に阻まれる。

 午後、傳九朗が散歩に出て小石を持ち帰る。石は赤紅色をしている。傳九朗が、「ここから南の海浜は巌岩だらけで、俺はこれを錐断した。巌岩の中には金があるように思える」と言う。

 以前、バナカを過ぎたとき、砂鉄の地に散らばっているのを見る。今またこの石を見る。恨むべきは、わたしは未だに化学を学んでいないことである。

 五月二十八日(6月21日)、濃霧が四方をさえぎる。

 三里ほど南へ進むと、岩壁が険峻としている。瀑布があり、まさに恵である。まるで垂簾のような見た目で、しつをかき鳴らすような音がする。

 海面は水中の石が点々として、まるで露髻ろけいのような様相を呈している。

 ここを過ぎると山がようやく低くなり、水際の砂浜が平坦になり、水中の石が長く連なっている。

 二里ほど進み、小川がある場所をカリクニという。河畔に舟を留める。春夏の境は、ニシンが極めて多いという。

 さらに進むとシナコヌに再会し、チルアサに至る。

 南北に延びる湖があり、ここから南へ進み東へ折れて二里ほど進むと、土地はようやく低くなり平坦となる。

 天気がようやく晴れて、舟の中から四方を望むと、はっきりと見渡せる。

 東方に山がある。山のふもとは残雪が白く輝いている。この場所をムシビという。文化年中に間宮倫宗がめぐり歩いた場所であり、ここに留まったという。

 湖がある。南北は一里ほど、東西は十町にみたない。

 東に砂丘が堤防のようになっている場所があり、草が青々としている。

 シナコヌがこれを指して、「俺の仲間はシンノシレトコに行くと、帰りに必ずここに寄る」と言う。

 このためわたしが、「バンケタライカの人間が自ら言っている、シンノシレトコの先には行ったことがないというのは本当か」と問うと、シナコヌは、「違う。彼らは郷導されるのを嫌うんだ。だから知らないふりをする。日本人は彼らを見つけると酒をふるまうが、俺の仲間には問おうとしない。今になってなぜ問うんだ」と答えた。

 湖に沿って進むと、ついに海上に出る。歩いて湖を測ると、その広さはわずかに五十間である。その最も高い場所は二丈に過ぎない。湖の西は最も狭く、最も低い。

 このため、わたしはバンケタライカのアイヌを罵って、かつ、「昔から今まで、志の高い者が未だにこの地に来たことがないことを嘆くばかりだ」と言う。

 そして、「もしも多額の金銭をなげうってこの地を開拓すれば、わずかな日数で達成できるだろう。そうすれば大艦が通過し、あるいは停泊することも自由になる。世界の奥地を開拓しようと望み、その対象としてシンノシレトコを考慮する者は是非ともこのことを議論すべきである」と言う。

 五月二十九日(6月22日)、天気が温和で、まるで本国の暮春の陽気のようである。

 辰の上刻、シナコヌらと同行し、ムシビを出帆して晩にバラトンナイに至る。

 およそ十二、三里の間は、丘陵の高低が入り混じり、断続的に続いている。五葉松が生い茂っている。長いものは五、六尺。短いものは一尺に満たない。

 地勢はいたるところで尽きて、弓のような形状をしている。徐々に南へ、徐々に東へ進み、バラトンナイからムシビを遠望すると、まさに北北西の中央に位置している。

 その中間を一里強ほど隔てた場所をアタラベシカという。小さい岬から岸の下は石が多く、ほとんど足を踏み入れられない。岸の上は平坦な丘で五葉松が多く、一望すると青々としている。

 ここから四里ほどの場所をアレテッペイという。小さい湖が三つある。湖南は山が隆起し、草木が縫うように交錯して美観を呈している。

 ここから五里強ほどの場所をエンルムカという。海面に石が二つある。数十歩ほど離れており、その間は深さが二仭ほどあり、舟を留めることができる。

 ここから南は水の色が澄みわたり、まるで鏡のようである。シッカ以来、見てきた場所とは比べものにならない。けだし、シッカの近傍は濁流が多い。

 この間は河と湖とが交わり、水が極めて清らかなためである。

 申の刻、傳九朗が白鳥を獲ると言うので、同行して山に登る。山の高さは数丈ほどで、南方を遠望すると海湾が弓のような形状をしている。

 曲がりくねって続いている場所をカバシベ岬といい、東南は甚だ高い。

 その先のわずかに削られている場所をシンノシレトコという。地勢は南北数里、西から東に至る。

 およそ十町ほどは遥か海中の白波が揺れ動いているが、岸の下は穏やかである。暗礁が妨げる場所であることが分かる。

 ここはかつてアイヌの村落であった。墳墓があり、墓標を建てたが、ロシア人が来てすべて焼き払い、灰になったという。

 閏五月一日(6月23日)、曇る。シナコヌに命じて先行させ、進むこと一里。南風が生臭い空気を送る。

 皆が、「アザラシだ」と言う。たちまち、巨大な一頭を見る。シナコヌが傳九朗に教え、舟を留めて陸を行き、これを狙撃して喉元に三発命中させる。

 すると皆が躍り上がって海に向かい、これを解体する。

 カバシベ岬は長さ三、四町。広さ一町ほどである。ここはアザラシの巣窟で、起き上がっているもの、寝そべっているもの、飛び跳ねて戯れるものがいる。その声のありさまは、たとえようがない。

 シナコヌらは長さ十余丈ほどの槍を持ち、這うように進んでアザラシの傍らに出ると、一気に刺そうとしたが、遅れてしまい手間取る。傳九朗が先んじて狙撃するも死なず、シナコヌらも獲ることができなかった。

 岬の先端から振り返ると、湖が一つ見える。南北に一里ほどあり、水が清らかで飲むことができる。

 西方の海中に一続きの暗礁がある。岬の先端から斜めに北方へ伸びて徐々に遠くなる。潮路が河のようになっている。

 東南へ二、三里ほどのところに小島を遠望する。島の周囲は二里ほど。アトゥイモシリという。

 シナコヌが、「カバシベと島との中間は水深が浅いが、つねに波が立っている。しかしロシア人は一年おきにこの島に行くんだ」と言う。傳九朗が、「どのような島なんだ」問うと、シナコヌは、「北側は巌岩が多く、南側は砂浜で、もともと樹木が多い。しかし、ロシア人が来て伐採するから、ほとんどなくなった」と答えた。

 わたしは、アイヌらが未だかつて島に行ったことがないと言っておきながら、島の地勢に詳しいことを怪しんだ。けだし、春月の夜に氷上のアザラシを刺して、氷が裂けるたびに漂流して島のそばに至るので、これを忌み嫌って、あえて語らないのである。

 申の刻、シンノシレトコを過ぎ、四、五町ほど北へ進み、そこで泊まる。カバシベから東北に位置するシレトコに至る。地形は弓のようである。距離にして二里ほどの近さで、岸の下には雪が残っている。

 引き潮がシレトコにあたり、渦を巻く。波が舟を揺らして進むことが難しい。半里ほど遠回りして過ぎるも、シレトコに衝突しそうになる。

 シナコヌが、「騒ぐな」と言う。先へ進みシレトコを望むと、巌岩は東西およそ七、八町ほどで、巌岩の下は十歩ほどである。その外側はすべて暗礁である。

 ユリカモメが多く、巌の穴に巣をつくっている。大小の群れをなして暇なく舟を掠め、四散すること幾千万羽いるかも分からない。鳴き声が甚だかまびすしい。

 二つの大きな岩がそびえ立ち交錯しており、まるで犬が噛み合うがごとき様相を呈している。

 ここから東北へ暗礁が連なっている。半里ほど進んで暗礁の切れ間に舟を通そうとしたが、シナコヌがこれを許さなかった。

 このため、五、六町ほど外側からまっすぐに過ぎる。ついにノタヌキに至る。邦人の伐った材木を得て、これを焚く。

 ウエキチがこれを知って、「これは弁財船が載せてきたものだ」と言う。シュウキチもまた、「これはマクンコタンで採れたものだ」と言う。

 詩を賦して見るところを、

靺鞨まっかつ知る何れの処ぞ

赤狄捜るべからず

沓渺天地濶し

東南唯だ一洲

浮雲海角を蔽し

濔望人を愁えしむ

もっとも聞く舟楫を通ずるを

わたらんと欲すも自由ならず

遠礁左右を分つ

あたかも池中に浮くがごとし

翻瀾しばらく論ずる無し

すべからく大風の秋を戒むべし


これ昔探討の者

周覧本州に限る

世を挙げ皆な懦弱なり

誰か此の間に向て游ばん

今吾れ此の土に来り

浩嘆す廟謨の婾するを

豈に忍ばんや千里の土

委棄荒陬に付するに

點虜巧みに蚕食し

遺民未だ柔んじ易からず

単身大胆を提し

素志何れの時にか酬いん

と吟ずる。

 閏五月二日(6月24日)、空が曇り雨が降る。シナコヌとロシアのことについて談義する。

 シナコヌは、「十年前にロシア人がここに来た。大艦があって、その中で最も大きいものは帆柱が五本あった。そのうちの一隻がカリクニに着岸した。当時、われわれはこの船団を叩こうとしたが、ロシア人が銃で対抗したので、われわれは退散するしかなかった。ロシア人は山靼にいるという噂だ。さまざまな物資を持ってきては現地人にわたし、見返りとして子供を連れて帰り、文字を教えるという。乱暴するわけではなく、成長するのを待って帰すらしいが、実際には連れていかれたニヴフは未だに帰ってこない」と言う。

 これを聞き、ただただ大息するのみである。

 閏五月三日(6月25日)、雨が束の間止む。

 シレトコに標柱を建て、表面には、「字知床(シレトコ)敷香シッカ川より凡そ三十八里程」と記し、裏面には、「元治元年閏五月朔、之を建つ」と記す。左面に傳九朗の名を記し、右面にわたしの名を記す。

 ふさわしい場所を選んで標柱を建てようとして草をむしったが、七、八寸ほど掘ると、全面氷土が凝固してそれ以上掘ることができない。わずかに一尺ほど掘って終わる。

 大きな岩の上からあたりを俯瞰すると、十丈ほどの険峻な岩壁になっており、恐怖で心が震えて目がくらみ、長く留まっていられず、縮みあがる。

 このため先へ進み、ただ見るのみ。巌岩の間にユリカモメが無数の群れをなしている。白黒が入り混じる様子は、まるで碁盤のような様相を呈している。

 標柱が一本建っている。けだし、安政年中に同心の川上何某が建てたもので、文字が半ば擦れて読めない。

 近世の邦人でここに至る者は、川上何某と栗山何某との数人に過ぎずという。

 詩があり、

絶壁試しに登臨すれば

風煙転じ廊寥なり

誰か知る布衣の者

ここに去りて銅標を擬せんとは

と吟じられている。

 閏五月四日(6月26日)、雨が止む。シュウキチらがカモメの卵数十個をシレトコで獲って来る。

 午後、晴れる。わたしは傳九朗とシュウキチを連れてシレトコを散歩する。岩の下の水潮のところから、裸足になって体を傾け、身をかがめて進んだ。水面は膝上に至る。

 仰ぎ見ると、大きな巌岩がそびえ立ち、上に出て下に入るさまは、まるで老人の背が曲がるような様相を呈している。

 小石片があちこちにあり、カモメが寸分の隙間もなく巣を作っている。

 巌岩の下からこれを遠望する。卵の頭がいくつも連なりあらわになっている。あるいは巣をつくらず、すぐに卵を助けるカモメがいる。

 それなのに、皆が頭上高くに飛来して、その多くを獲ることができない。これらを狙撃すると、一発で二、三羽を撃ち落とす。しかし、多くは岩の間に群がり、わずかに四羽を獲るのみ。

 カモメはこのときに至るまで火器を知らず、弾を発するたびに驚いて飛散し、あるいは墜落し、あるいは足で卵を蹴落とし、この勝負の勝利は言うまでもない。

 皆が争って卵を守り、母鳥が死ねば、すぐに別の母鳥が両翼で覆う。この情景は人に憐憫の情を抱かせる。

 閏五月五日(6月27日)、舟を発して北へ進む。

 二里ほど進むと、南方から雷鳴が鳴り響く。しばらくすると、黒雲の一帯がシレトコの遠方に連なり、にわか雨の様相を呈す。

 礁石が五、六町ほど先に連なり、礁石の傍らの一箇所に舟を繋げられる場所を見つける。

 皆が、止まって雨を待とうと言うので、天幕を結びにかかる。

 作業が終わろうとしたとき、ついに雨が降りだしたので、ここに泊まる。

 閏五月六日(6月28日)、午後、晴れる。海浜を散歩する。

 気温が上がって暖かくなり、詩を賦して思い悩む心を、

寂寞情緒無し

詩を題し物華を弄す

壮心方に欝勃とす

豈に敢て荒遐を厭わんや

と吟ずる。

 閏五月七日(6月29日)、大霧が午後になって少し晴れる。

 出帆しようとしたが、また濃霧が発生する。一里ほど進み、シラルンに至る。小さい岬である。

 シレトコからここに至る地勢は、まるで弓張り月のような様相を呈している。シレトコを遠望するには絶好の位置にある。

 岬の先端は暗礁が多く、大きな岩があり、立ち上がるさまは剣のように高く、五、六丈ほどある。

 小休憩をとり、また進む。三里弱進むと、海中に暗礁が点々としているので、暗礁の外側に沿って進む。

 一里ほど進むと、ノシケシララに至る。海畔に巌岩が壁立して数千歩先まで連なり、暗礁が海面に点在する。

 暗礁の間を過ぎていくも、舟が暗礁に触れて砕けそうになる。このため暗礁の外側から遠ざかる。

 波が逆巻くので、アイヌは皆、これを危ぶむ。回り込んで北方に出ると、甚だ深く湾曲している。皆が良港だと言う。

 日暮れになったので、ここに泊まる。

 シラルンからここに至るまで、海湾は半月のような形状をしている。徐々に北へ、徐々に西へ広がり、山や丘が断続し、西岸に比べれば劣るが、山々は高く大きく、大小の樹々が多い。

 閏五月八日(6月30日)、東北風が極めて強く、急な大雨が降る。激しく打ちつける波濤は雷のようである。

 天幕の柱が倒れそうになる。頭上は雨漏り、足下は湿り、坐る場所がなく、難苦ここに極まる。夜に至ってようやく止む。

 閏五月九日(7月1日)、雨が上がり、風向きが西に転ずる。波濤の勢いは、ますます甚だしい。皆、悶々とする。わたしは、ほとほと困り果てて横になる。

 閏五月十日(7月2日)、また雨が降る。波濤は未だ止まず。

 午後、やや晴れる。山中を散歩して草花を採る。ユリが多い。紫や赤い花が生い茂り、豊かで艶やかなさまは愛すべきものがある。また、ホソバオケラやイタドリの類いが多い。

 閏五月十一日(7月3日)、北風が吹いて小雨が降り、極めて寒い。

 北の地は、西南風が吹くたびに晴れ、暖気が吹く。本国と異ならず。ただしこの間、東北風が多く、霧が風に流されて飛来する。稀に晴れるのみである。

 昼間は木綿の衣服を着て、夜間は犬皮の衣服を着るが、それでも寒さを凌げない。裸足で歩いて行くと、水沢は甚だ冷たく、長く立っていられない。

 わたしは、「祝融しゅくゆう氏に願って山沢を燃やし陽気で満ちれば、北海も長く太陽の光を仰げよう。さまざまな穀物を栽培するために人びとを育てるべきであることに疑う余地はない。百年後の未来、気候が穏やかになれば、山林も豊かに育ち、薪木が不足する恐れもなくなろう。そうしなければ、樺太全島は無用の長物になってしまい、国家を助けることにはなるまい」と言う。

 この日、ついに農書を読む。そして数種の耕作法をまとめ、のちの世の人びとのために、熟考したことを告げようとした。

 北方の地の気候は本国とは同じではないが、未だにその方策を尽くしていない。あらゆる植物を植えないのは誤りである。ましてや、本国のダイコンやゴボウの類いは皆よく繫殖して、イネやアサ、ムギもまた収穫できるだろう。その耕作法を得ることができれば、どうして食べ物が少ないと苦しむことがあろうか。

 閏五月十二日(7月4日)、小雨が降るも晩には晴れる。風が甚だ強く吹いている。

 閏五月十三日(7月5日)、朗らかに晴れるも、風が未だ止まない。

 閏五月十四日(7月6日)、風が転ずる。早々にノシケシララを出帆し、小さい岬を三つ過ぎ、また山を二つ遠望する。西岸から見えた山々である。

 正午にムシビに至る。およそ六里ほどの間、丘陵が断続的に続く光景は前路と変わらない。大岩が海中からそびえ立っている。長さ五、六丈。まるで人が肘を伸ばしてじっと直立するような様相を呈している。岩の下は暗礁である。西南の波勢は平穏なため、舟を停泊させて逆風を避けられる。

 ムシビの東北一里先からここを遠望すると、北東の端にある。午後、アザラシを拾う。舟歌をうたいながら進む。見える景色は、ただ一帯に広がる山脈のみである。

 北に向かって走る。樹木が鬱蒼と生い茂り、巌岩が多い。六里ほど進む。海中に暗礁が多い。

 岸上の細流は石の割れ目から注ぎ出て、瀑布のようになっている。清らかで冷たく、穢れておらず、そのさまは愛すべきものがある。

 一里ほど進むと、巨大な巌岩が並び連なり、ところどころに泉が湧いている。これまでで最も清らかである。

 さらに一里ほど進む。夕日が山に入ろうとするので、ここに泊まる。

 閏五月十五日(7月7日)、順風が吹き、帆を揚げて快走する。

 二里ほど北へ進む。山勢は高低が断続的に入り混じっている。

 小さい湖がある。湖上に群がりたつ山々がたびたび現れ、まるで屏障を連ねるような様相を呈している。青々とした山々が人の目をくらませる。

 少し北へ進むと湾になっている。湾内には岩礁が多い。

 山の隅に大きい巌岩が高くそびえ立っており、まるで馬鞍のような様相を呈している。

 海面には暗礁が多い。暗礁の間の繋泊できる場所をホンガリコという。ここから地勢は弓のような様相を呈している。

 四里ほど北へ進むと、巌岩の下に瀑布が多い。水がよどみなく流れ落ち、横に向かって流れ、小さな流れが大きな流れに合流している。

 岬の先端に大きな巌岩が横向きに立っている。その下は擦り減っている場所が多く、通過できる。水際には暗礁が多く、舟を停泊させるのに最も安穏な場所をフレトンナイという。

 また三里ほど北へ進む。地勢は先ほどと同じようである。小川が複数あり、山からやや離れている。翠屏が横たわり、青黒くとても趣深い。

 また四里ほど北へ進む。ところどころに泉があり、石の割れ目から湧いている。

 岬の外側の波勢は甚だ広大で、この場所をサガストという。時はすでに日暮れとなり、ここに泊まる。

 閏五月十六日(7月8日)、早朝は寒く、濃霧が発生して、まるで止むことのない雨のような様相を呈している。順風に乗って出帆する。

 四里ほど北へ進む。山のふもとに土砂崩れの跡があり、赤土が露出している。

 正午、ジライナイに至る。

 風が転じて激しくなる。ウイルタの住居を河畔に見つけたが、人を見ない。舟を揚げようとしたが、この場所は不都合である。

 少し北へ進むと、河の傍らに木幣が立っている。舵を転じてここに着けようとする。河の流れが潮の流れとぶつかり、波立って舟に入る。食料と器物がすべて水に浸かる。

 この日は寒気の激しさが厳格で、まさに厳寒の気候である。

 閏五月十七日(7月9日)、濃霧。四方八方、視界が遮られる。

 閏五月十八日(7月10日)、小雨が降り、寒さが甚だしい。

 閏五月十九日(7月11日)、雨が止む。山を登り、土を掘る。土壌は肥沃で耕すべきである。

 閏五月二十日(7月12日)、雨が止み、晴れわたる。

 風がなく、出帆しようとしたが、波が高いため断念する。晩に散歩して帰り、食に就く。にわかに月が輝き、波際に景色が映り込むのを見る。それと同時に樹々の間からツルの鳴き声を聞く。

 詩を賦して、

誰か知らん窮北の地

此の可憐の宵有らんとは

星月金波砕く

鵑声寂寥を破る

と吟ずる。

 閏五月二十一日(7月13日)、晴れる。順風に乗って出帆するも、波が高く転覆しそうになる。海上に台風があることを疑う。

 一里ほど北へ進む。河が二筋ある。そのうちの一筋をホムシという。深さは臍の上くらいに至り、もう一筋はやや浅い。

 ウイルタがおり、男女六、七人が河畔に立って我々の舟を見送る。手を挙げて声をかけたが応じない。

 また一里ほど北へ進む。海面に岩礁が多く、波がやや静かになる。このため、舟を停泊させる。

 岬の北には険しく高い峰があり、空を刺さんばかりである。緑が滴り、まゆずみを塗り重ねたような青黒い。ところどころに残雪があり、白く輝いている。これを遠望すると、近いようにも、遠いようにも見え、世俗的な事柄にとらわれることなく、世を残す想いを人に抱かせる。

 ふたたび一里ほど進む。山脈が中断する。

 河が一筋ある。深さ二、三尺ほどである。河の傍らに鳥が多い。その最も多い場所をシイトミという。

 鳥の見た目はワシに似ている。翼に斑点があり、カツカツと鳴く。ワシと異ならない。これを従者らに問うと、皆が、「ときどき、南の空高くに飛んでいるのを見るぞ」と言う。

 申の刻、天幕を河の傍らに結び、衣服を洗うが水は冷たくなく、水質は極めて清らかである。

 閏五月二十二日(7月14日)、晴れなのか曇りなのかはっきりしない。

 二、三里ほど進む。河が二筋ある。一筋は、昨日、泊まった場所と同じようである。もう一筋はやや小さい。

 さらに一里ほど進むと、また河が一筋ある。先ほどの二筋の河と大差ない。

 二里ほど進むと、また河が一筋ある。この場所をヌウという。数百歩ほど外側からここを遠望すると、急流が潮の流れとぶつかり、その勢いは潮流に負けない。その流れの勢いには驚くべきものがある。

 無数のアザラシが波間に出没するのを見る。ほかの地とは甚だ異なる。河の傍らには、またクマタカが多い。

 雨が降りだしたので、休憩しようとする。舵を転じて河へ向かい、波間に舟を横づけして雨が過ぎるのを心配しながら待つ。

 河口は、広さ七、八十歩。深さ一尋ほどある。水は清らかで冷たくない。アイヌが、「鳥が多いのは、魚が多いからだ。漁場としては申し分ない。シヒシャモにこれを見せたら、彼らはどうする」と言う。シヒシャモとはアイヌが日本人を呼ぶときの呼称である。けだし、漁夫が魚を欲するので、こう呼ぶのである。

 たちまち、河を隔てる林の下にヒグマが現れ、静かにして過ぎるのを見守る。傳九朗がヒグマを狙撃しようとして、銃弾を二つ持って行く。ウエキチらがこれに従う。棹をさして渡るも、見失う。

 閏五月二十三日(7月15日)、霧のために衣服が濡れる。この状況を敢行して出帆する。

 海畔は一面に山が連なっている。ところどころ崩れて、枯れ木があるいは立ち、あるいは倒れており、奇観をなしている。

 少し東へ進み、そして北へ進むこと五里ほど、大きな岬に出る。崖が険しい。

 岩窟の高さ五、六丈。水際に大きな岩が八、九つ並び立っている。その下に細い穴が多くある。最も大きい岩は、遠くからこれを見ると穴の中は奥深く暗く奇怪であり、潮水が噴出するさまは、まるで雷が白雨を駆けるような様相を呈している。近くで見ることはできない。

 ここから北は、奇妙な姿形をした岩々が入り混じり、奇観をなしている。さらに北へ進むと、岬が終わり湾となる。

 湾は甚だ広い。このため繋泊して風波を避ける。残念なことは両側に暗礁が多いことである。岬の東側の海面には、三、四つ大きな岩が高くそびえ立ち、また奇観をなしている。

 山脈が中断して河があり、深さ二、三尺ほどである。この場所をウエンコタンという。やはり、ここもアイヌ語の地名である。ヌウからここに至るまで、およそ七里という。

 閏五月二十四日(7月16日)、北風が吹く。小雨が降り、甚だしく寒い。

 閏五月二十五日(7月17日)、北風が寒気を送る。肌がぴりぴりするほど寒さが厳しく、骨身に沁みる。終日、炉を焚く必要があり、薪をくべて暖をとり、イラクサの皮を糸にして衣服を縫う。このため、アイヌのいわゆるハイはイラクサではないかと思う。アイヌがこれでつくる衣服は清らかで白い。

 もしこの衣服をもって各地で交易をすれば、絹や綿、諸物の利益を下回ることはないだろう。

 農家は、「多少の例外はあるが、五穀を生産できないのであれば、マメやウリ、あるいは生姜などを植えれば一里四方ごとに毎年若干の収穫があろう。言うまでもなく、イモやアサは日常的に必要なものであり、これらはどこでも生産できる。丘陵もまたその対象となろう」と説く。

 閏五月二十六日(7月18日)、東南風が吹き、霧や雨がときに降り、ときに止み、合間々々で日光が漏れる。寒気が殊のほか甚だしい。

 閏五月二十七日(7月19日)、晴れなのか曇りなのかはっきりしないのは昨日と同様である。この夜、かがり火を焚き、河でマスを得る。

 閏五月二十八日(7月20日)、南風が吹き、晴れわたる。早々に河から出帆しようとしたが舟が浅瀬に引っかかる。河の流れが潮の流れとぶつかって波立ち、舟が転覆しそうになる。

 エロロサッテが何とか抑え込み、うしろを振り返って声を上げる。わたしは羅針盤を失い、シュウキチは酒壺を落とす。すべてが水に濡れ、これらを乾かす。

 しばらくして、また進む。乱雑な岩がところどころ海面から顔を出す。およそ二里ほど進むと、一つの岩があり、半球状をなして屋根のような様相を呈している。カモメが隙間なく巣をつくっている。

 アザラシが多く、石辺に横たわっている。首をかしげて周囲を見渡しているが、甚だ動きが鈍い。傳九朗がこれを狙撃すると三発全弾命中する。ほかのアザラシは逃げていく。

 仰ぎ見ると、山にかかる雲がもやのようになり、人を掠めようとする。山の上半分は五葉松が多い。

 ついに西に折れ、また北へ向かい走る。海を隔てること二、三里ほどのところにある山々は最も高く、谷間の積雪が白く輝いている。

 山のふもとから海に至る地勢は平坦である。風景は南方とわずかに異なる。指顧して進む。三里ほど進むと河が二筋あり、ニヴフが魚を獲っているところを見る。

 ここについて地名およに住居の有無を問うと、南に向かってアザラシの啼き真似をして、過ぎたところを指してガシバと言う。この場所を指してチャモキと言う。このため、命じて導いて帰らせる。

 住居が二戸あり、男女六、七人。皆、辮髪を結っている。銀製の耳輪をつけ、アザラシの皮で作った上着を着て、その下に唐木綿を着る。シッカにいる者と異ならない。

 住居を造るために木を用い、角材を作ってこれを数尺ほど重ねる。間口およそ五、六間。奥行も同等である。中央に炉があり、トドマツの樹皮で屋根を覆う。シッカの住居に比べて、甚だ堅固である。

 ニヴフの子が炉を覗き込み、埋火うずみびの中のエンゴサクを探り、これを食べさせてくれる。帰る頃合いになると、ふたたびエンゴサクを持ってくる。

 このため、返礼として米とタバコを渡す。そのときタバコが地面に落ちたが、それを子に拾わせると、少しも残さず拾い上げる。

 この四方、二、三里には山々が横たわり、まるで屏障のような様相を呈している。東北の丘陵は甚だ高く、中央は平坦で広々としており、遠くまで見渡せる。土壌は極めて肥沃で耕すべきである。

 閏五月二十九日(7月21日)、晴れわたること昨日と同様である。

 進むと、長い崖が二里以上にわたり連なるのを見る。高さ三丈ほどある。河が一筋ある。深さはそれほどでもない。ここから北は、土地が平坦で広く、際限なく見渡せる。ただ落葉松を見るのみ。

 八里ほど進むと湖があり、海に注いでいる。ニヴフが砂浜の上に立っているのを見る。舵を転じてここに着ける。ニヴフらは湖口に来て舟を導く。

 人が到来したと聞いたニヴフらは、われ先にと前に出て見に来る。女性は断崖の上にしゃがみこんで、あえて近づかない。

 丘の上に住居が九戸ある場所をロゴヴォという。北は湖に臨む。湖北にさらに一戸があり、向かい合っている。

 湖の横幅は一里ほどある。湖中に小島が二つあり、樹木が生い茂っている。まるで描いた風景のような様相を呈している。湖南は山脈が連なり、その光景は秀でて美しく愛すべきものがある。

 申の刻、住居を訪れたが甚だ生臭く、以前に見たところと甚だ異なる。住居の傍らに漁網が置いてある。すべてイラクサの樹皮でつくったもので、甚だ強靭である。

 ニシンを見る。湖中で獲るところだと言う。

 閏五月三十日(7月22日)、甚だ暑い。

 十二、三里ほど進む。砂浜は平坦で遠くまで見渡せる。ヨモギが芽を出している。二、三里ほど外側からこれを遠望すると、水天一色となり、まるで境目が無くなったように見える。

 その間に断崖が二、三箇所あり、崖上のところどころに五葉松が生えている。十二、三里の間は一滴の水をも見ない。

 湖があり、海に注ぐ。広さおよそ三百間ほどある。南岸にはジュンサイがまばらに生えているが、北岸には五葉松が生えている。

 湖勢は、東南に向かって徐々に広くなり、広さ六、七里ほどある。海を隔てること二、三町ほどに過ぎない。湖中に小島が数島あり、サケ、マス、アザラシが多く、間々、クジラがいる。

 ニヴフの住居が八戸、ウイルタの住居が七戸あるのを見る。この場所をメロクヴォという。

 数里にわたり南望できる。屏障が横たわり、樹々が美しい景色をつくって照り映えている。まるで仙境のような様相を呈している。

 上陸しようとすると、湖口に立っている男女六、七人が走り寄って舟を助ける。こののちシュウキチは舟を停泊させて回り込む。

 湖の傍らに住居を見つけて、ここを訪れる。現地人らが独木舟に乗り込み、ともに来る。込み合い喧騒なので追い払おうとしたが、去らず。

 チャエの現地人でシリクナという者は、アイヌ語が堪能なので近隣の地勢について聞く。はじめはただ、「ここから北のことは知らん」と言う。

 ふたたび訪れて聞くと、「最北端の地は波濤が常に逆立っていて、舟が転覆するぞ」と答えた。けだし、ウエキチにこれを教えると尻込みする。

 六月一日(7月23日)、夜明け頃、ニヴフの婦女十数人が独木舟に乗ってきて住居を覗くが、起床前のために去る。起床後にふたたび来て、住居の中に満ちる。甚だかまびすしい。

 天鵞絨ビロウドを着た年のころ二十五、六と思しき一人の女性がいる。容姿端麗でアイヌ語によく通じ、流暢に話す。この女性に問うと、シリクナの妻でニシカという。

 ニシカは、「昔はバンケタライカに住んでいたよ。四年くらいかね。そのとき子を二人産んだよ」と言う。ニシカにタバコを二、三包、小針を二本、飯を一碗与える。そのほかの者には、タバコを一握り、小針を一本与える。

 出帆前、標柱を砂丘の上に建てようとすると、トナカイの角を拾う。ニシカは、「これは良くないことの前兆だよ。この角をもって湖に行くと魚が獲れなくなっちまうよ」と言う。わたしはこれを聞かず、湖にトナカイの角を捨てる。

 湖を七、八町にわたり測量すると、深い場所はあるいは三丈を超える。浅い場所でも一丈以上はある。

 先ほどの住居に帰ると、舟に乗ったニシカを見る。ニシカは忠告を無視したことを恨み、わたしにトナカイの角を渡して去る。

 湖を出帆して進む。これを測量し、半里ほど外側に至る。すべて一丈五尺ほどである。

 ニヴフが舟で追ってくるのに出逢う。ともに二里ほど進む。アイヌに命じて先行させ、わたしは傳九朗とともに舟を停泊させて陸を行く。

 陸地は、まるで銀砂平布のような様相を呈して日光が照りかえり、ほとんど直視することができない。裸足で過ぎるが、足がやや熱い。ただ海水だけが冷たく、耐えがたい。

 三里ほど進む。その間、小さい丘のところどころに落葉松が生えている。丘が終わると、一面がひらける。これを遠望すると、平坦な流れが南から北へ甚だ長く続いている。対岸の平山には樹木が生い茂っている。この場所をヌエという。

 遥か遠くの湖の傍らにニヴフの住居を見る。南方に四戸ある場所をケクルヴォといい、北方に三戸ある場所をアオヴォという。水際に立って迎え見るニヴフが甚だ多い。

 その中にアイヌ語に通じる者が二人がおり、一人をオッコチといい、もう一人をヨコベという。彼らと約束を交わし舟を河口に送らせ、ニヴフの住居を訪れる。

 周りを取り囲んで見る男女が四十人ほどおり、口々にシヒシャモと言う。けだし、初めて日本人を見るようだ。

 このとき、ちょうど袋の中のタバコが無くなり、余った粉を彼らに与える。ニヴフらは従わず、傍らの者にこれを分け与える。

 午後、アイヌと合流して天幕を湖口に結ぶ。メロクヴォを隔てることおよそ六、七里。ここまでの間に水は無く、わずかに雫のような場所を二、三箇所見るのみ。

 詩を賦して志を、

洪河数十里

遠く西南の際よりす

対岸皆な平山にして

一望するに寸翳無し

樹色何ぞ鬱青ならんや

鵰鶚雲を掠めて翔る

地勢覇王の畧にして

風物仙人の郷なり


家家多く水に傍い

各自相い遷徒す

振古より賦役無く

漁猟耘耔に代わる

我を視て笑うこと嫣然にして

語語天真を見る

俗はすなわち化外の様にして

心はこれ中州の民なり


とおし比羅夫

余風誰か復た訪ねん

朅来一千年

議論空く紙の上

天辺の日光薄く

海角腥風悪し

安んぞ得んや銕船をうかべ

縦横に鯨鰐を駆るを

願くは皮裘の侶となして

篳輅の微忠を效さん

唯だ経遠の志を期すのみ

一時の功績を求めず

と吟ずる。

 六月二日(7月24日)、わずかに曇り、北風が甚だ寒い。

 現地人が大勢で続々とひっきりなしにやって来る。かまびすしいこと、ここに極まる。

 ヨコベを呼び出し、遠近の現地人村落の状況を問う。

 ヨコベによれば、この河はすべてロモヴォという。ヌエというのは、河口を指して言うのみ。河に沿ってところどころにニヴフが住む。

 ここから最も近い場所をアリゲといい、一戸ある。次をチカルマといい、四戸ある。次をオシコリンといい、二戸ある。次をフレボヴォといい、一戸ある。次をオリモクヴォといい、五戸ある。次をチャブシカリといい、二戸ある。次をツラヲヴォといい、ウシクヴォといい、各々一戸ある。次をエブルツクといい、二戸ある。次をチルヴォといい、ラベといい、各々一戸ある。次をフルトといい、二戸ある。次をウルウといい、チャクヴォといい、各々一戸ある。次をアトルヴォといい、三戸ある。次をカバルといい、ホリクトモといい、各々一戸ある。ここから北には住人はいないという。

 正午、女子五、六人が連れ立ってやってくる。アイヌが彼女らをからかう。

 よくアイヌ語に通じる老父が一人いる。指さして、「こやつとこやつはわたしの子だ。こっちはわたしの子の妻だ」と言う。この老父は誰かと問うと、ウイルタの首長で名をキミチャンという。シッカの首長ショツロヌカの従父兄で、タゲに居住する者である。

 談義は奥地のことにまでおよび、いちいち応答する。ホロコタンに至るまで遺漏するところがない。

 かつ、「最北端の地には高い山がある。巨大な巌岩が海岸一帯にあるが、小さな湾が多くて舟を留めるには絶好の場所だ。ほかの場所は平坦な砂浜で、現地人は漁網を海に仕掛けている」と言う。

 こののちウエキチらが根も葉もない噂話を述べて、常に不満げである。わたしは考える必要もないと推知するが、あえて聞かず。

 わたしはキミチャンの言葉を聞いて、間違いなく極北の地には危険がないことを確信する。

 思うに神助があるだろうと言うので、嬉しいこと限りなし。

 このため、礼としてキミチャンにタバコ一斤を与え、かつ、飲み食いさせる。同席した現地人らがこれを見て垂涎する。

 六月三日(7月25日)、風が止む。

 到着初日同様に村人が宿所を訪れる。この日、キミチャンを招聘し、現地人の言語を学ぶ。わたしはウネという言葉をよく聞く。これを現地人に問うたが、分かる者がいない。

 キミチャンは、「このあたりでは蝦夷地方のことをバラボヴォって言って、蝦夷地方ではこのあたりをウネって言うんだ。スメレンクルはニヴフのことをツロブンって呼んで、ニヴフはスメレンクルのことをホッコニンって呼ぶんだ」と答える。この回答の御陰で、ウネはこの地方の総称であることが初めて分かった。

 また、湖口の深浅を問うと、「弁財を受け取るには都合がいい。ここに弁財は来ないのか。連れてきてはくれんか」と答える。松前の方言では商船を「弁財べざい」と呼ぶ。この地の現地人にもこの呼称は通用する。

 この地の現地人とタタール人との交易の状況を問うと、「彼らはタバコを沢山もってくる。貂皮一枚に対してタバコ一握りだ」と答える。酒は基本的に無く、冬季の間のみ少しばかり持ってくるという。

 六月四日(7月26日)、朗らかに晴れる。

 キミチャンとシッカの漁業について談義する。そこで、日本人の来航者が多いこと、酒井銑次郎がノコロに漁場を開いたことを告げる。

 キミチャンは、「わたしは死ぬ前に一度でいいから弁財が来るのを見たい」と言う。

 午後、トハヲに命じて宿所を守らせ、ヨコベを先導役として湖に舟を浮かべて行く。

 湖勢は東西およそ一里。鉄を垂らして深さを測ると、深い場所は一丈ほど、浅い場所は一尺に満たない。一里ほど遡ると河口にたどり着く。

 湖に入る。深さ一丈五、六尺。両岸には草が多く、その下は泥土が多い。シッカ河と比べると大きいが、ホロナイ河と比べるとやや小さい。

 河の傍らにウイルタの漁業小屋がある。行ってみると、ウイルタが五、六人いて、炉でサケを炙っている。小屋の中はサケで満たされ、坐る場所がない。各人にタバコを少し与えて去る。

 帰路、たまたまキミチャンが乗っている舟に出逢う。別の舟二隻が追いついて、われわれの舟を挟み込み、顔を合わせて笑う。

 舟にはキミチャンの二十歳くらいの娘が乗っており、見ると甚だ美しい。傳九朗が彼女にタバコを与えて、「俺の妹だ」と冗談めかして言う。わたしもタバコを取り、少女二人に与えて、「これはわたしの妹だ」と冗談を言う。舟の中いるとりまきが大いに笑う。ウエキチらもこれを真似する。舵を打ち鳴らして、歌いながらともに帰る。

 ニヴフの舟を湖畔に見る。トハヲが、「彼は昼間から居座って去ろうとしない。誰だったか忘れたが、そいつも外に出られていない」と言う。

 六月五日(7月27日)、不気味な風が吹く。

 舟を浮かべて湖の深さを測る。湖口の深い場所はほぼ三丈。浅い場所も一丈ほどある。縄の長さが足りなくなったので測量できず。しかしながら、湖の両岸は白波が立っているものの中央部は甚だ静かなので、湖の深いことが分かる。

 わたしは傳九朗に、「湖口はメロクヴォと比べても、一番大きいぞ」と言う。傳九朗は、「五百間は下回らんだろう」と答える。

 北岸の砂丘上に標柱を建てて、「真知床シンノシレトコより凡そ八十里」と記す。

 けだし、この地に至った者はあれど、この先に至った者はいない。安政年間中に踏査した栗山太平はこのヌエの地で歩みを止めたという。

 雨に遭ったので帰る。午後、キミチャンがまた来る。

 こののち傳九朗が皮の履物を失い、ケシユリカは矢と砥石を失い、ニヴフの中にも舵を失うものがいる。これに怒って罵り、「われわれの失ったものは、アオヴォの誰かに盗まれたんだ」と言う。キミチャンも同じことを言う。

 このため、キミチャンとニヴフに命じて先導させ、舟を浮かべて北へ進んでアオヴォに至り、輩のあとを追って、ついに追いつく。しかし、輩は嘲笑して意に介さない。

 そこでキミチャンに、「日本でお前のように物を盗めば、処罰され許されることはない。今後はよくよく戒めろ」と咎めさせた。

 あわただしかったためにタバコを携行しておらず、女子には各々針一本を与えて去る。

 その夜、アイヌに濁り酒を飲ませ、ニヴフに配った。しかし、彼らは濁り酒を知らず、飲みはしたもののこれを好まず。

 六月六日(7月28日)、晴れて風が吹いていない。

 ベレントのニヴフでニツトゲという者に命じて先導させ、湖に舟を浮かべて一里ほど進む。

 右を顧みるとニヴフの住居が七戸ある。この場所をアオヴォという。

 やや北に進み、三戸ある場所をケオヴォという。

 こののち湖の広さは十町ほど。西方に平山があり、落葉松が青々と生い茂っている。東方の海を隔てること、わずかに三、五町ほどである。

 正午、トクメツに至る。ヌエを隔てること、およそ四里ほど。住居が四戸あり、砂丘を背にして居を構えている。水質は極めて清らかである。

 男女二十数人が来る。その中の一人の女性は容姿端麗である。傳九朗が、「深山大沢に竜蛇を生ずるとは、実にこのことだ」と言う。これに微笑む。

 少し休憩したのち、また進もうとしたが潮のために止め、ここに泊まる。

 ロコゼンという二十歳くらいの者がいる。わたしが口髭を剃るところを見て、そばに来て、「エシモンテ」と言う。アイヌ語で「いいことだ」という意味である。

 傳九朗が同じように口髭を剃ると、ロコゼンは鏡を凝視するも恥じ入る様子はない。このためわたしは、「アイヌの心はまるで子供のようだ。もし多少なりとも息沢を施せば、われわれの風俗に馴染むのは疑いない」と言う。

 六月七日(7月29日)、順風に乗って一里ほど進む。湖の端が海に注いでいる。広さおよそ二、三百間。

 左にウイルタの住居が五戸ある。この場所をタゲという。ニヴフはここをヲルゴルヴォと呼ぶ。ヲルゴルはすなわちアイヌ語のオロッコ、ヴォはニヴフ語で村を意味する。アイヌがコタンと称するものと同じである。

 やや北へ進むと、またニヴフの住居が三戸ある。この場所をラトヴォという。

 西方の山脈は甚だ平らで大きく、天空の端を切っている。けだし、四、五里ほど外側にある。

 三里ほど進むと湖の流れが甚だ狭くなり、ようやく舟が通れるほどになる。引き潮に差し掛かると、舟が泥地にはまって動かなくなる。力を込めるも、舟を動かすことが極めて苦しい。このため、舟を停泊させて砂丘を行く。地勢はでこぼこしており、五葉松が多く、髪の毛が枝葉に引っかかって進むのが難しい。

 晩にチャエ湖に至る。トナカイ八、九頭が水上を渡るのを見る。ウイルタの飼うものである。ウエキチらがこれを射ようとしたので、わたしは叱って止めさせた。

 この夜、ニツトゲらが来て三人が泊まる。そのうち一人は女子である。

 六月八日(7月30日)、潮の様子をうかがいながら進む。未だ満ち潮にはならないが、舟を漕いで進む。

 湖は東西一里ほど。西北の平山は山際が見えず、樹木が青々と生い茂っている。見えるのは、ただ天外に一、二の峰の頂上のみである。

 湖西の山に寄り添うようにウイルタの住居が六戸ある場所をベレンゲという。

 河が一筋あり、甚だ大きい。河の傍らにニヴフの住居が八戸ある場所をトラバという。河にはサケやマスが多い。

 東側の海浜にウイルタの住居が二戸ある場所をワクルヴォといい、ニヴフの住居が四戸ある場所をウルトルヴォという。

 やや北に進むと、湖の流れが海に注ぐ。広さ七、八町ほど。深さ一丈ほど。ほぼシッカの河口と同じである。

 北岸をチャエという。ニヴフの住居が十三戸ある。傳九朗は、「十五戸を下回らないぞ」と言う。

 正午、チャエで休憩し、飯を砂上で炊く。現地人七、八十人が来てこれを見る。このため、傳九朗とともにニヴフの住居を訪ねる。ウエキチらはわれわれのそばに控え、ニヴフの男女が集まって周囲を取り囲む。

 五十歳くらいのニヴフがわたしの肩を撫でて語りかけてくる。その対応ぶりは非常に丁寧である。

 容姿端麗な女性が二人いる。ウエキチらが争って彼女らを称賛する。彼女らは互いに顔を合わせて笑い、顔を伏せて人を見ない。その様子は、まさに美女が微笑むようである。

 東北へ二里ほど進む。湖面はやや狭い。右にウイルタの住居が二戸ある場所をアゲという。

 五里ほど進むと、やや広くなる。七里ほど進むと、また徐々に狭くなる。

 西方に河が三筋ある。最も大きい河をハルコニといい、ニヴフの住居が二戸ある。河ではサケを産し、その数は極めて多いという。

 ここで湖勢は転じて、一方は西へ、もう一方は北へ行く。屈曲すること三、四里ほど。両岸は樹木が生い茂り、青々と潤っている。

 湖水が樹々の間から見え隠れする様子は、河中を行くようである。このとき、引き潮に遭い砂浜に出る。棹をさしてやり過ごす。

 日暮れにベレモチバに至る。

 六月九日(7月31日)、小さい湖を三つ過ぎ、陸に舟を揚げて曳いて進む。東北に進み、ベレントに出る。わたしは紋羽もんぱの肌着を着て、アイヌとともに舟を担いで裸足で進む。

 この地は五葉松が多い。松の根が露出している場所は、すべて白砂で日光を透照している。足を投じると地面が熱い。背中全体に汗をかき、疲労が甚だしい。

 正午、湖畔で休憩する。周囲を見渡すも山はない。北方の空には一面に煙雲が広がってる。

 時あたかも南風が強く吹き、飛ぶように進む。湖の広さ三、四町に過ぎない。

 五里ほどまっすぐ北へ進む。湖口に至って海に注ぐ。巨大なクジラが潮を吹いて湖中に遊泳するものが甚だ多い。

 西方の崖にニヴフの住居が十八戸ある。丘の上からこれを遠望すると、西方の平山が蛇行して長く連なり、すぐに西北に走る。その甚だ高いものは湖上の山脈をなしている。

 湖にはサケやマス、アザラシが多い。陸地に大樹はなく、ただ五葉松が生えているのみ。水の味は極めて旨い。

 六月十日(8月1日)、現地人の住居で過ごす。非常に貧しく、匂いがひどい。けだし、アイヌは皆、むしろを持っているが、ニヴフとウイルタとはこれを持っていない。

 ニヴフの住居では板の間の上にアザラシの皮、もしくは大きな皮衣を敷き、その上に横になる。器物も揃っていない。鍋や釜の類はすべて日本製である。ここに至って初めて満州の器物を見る。ニヴフはわれわれを歓迎し、惜別の意が顔色にあらわれたが、あえて賓席を設けず、強いて引き留めようともしない。

 この日、単衣ひとえを着たものの、なお熱い。午後、大雨が降ったが、日暮れには止む。

 六月十一日(8月2日)、早々に舟を湖口に浮かべる。引き潮に遭い、潮流が甚だ早い。

 鉄を垂らして深さを測ると、深い場所は一丈に過ぎず、浅い場所はわずかに六、七尺ほどである。このため、クジラが潜るには深さが足りないことを疑う。けだし、その潮流に乗って入るのである。

 舵を転じて一里ほど北に進む。左にウイルタの住居が一戸ある。湖はここに至って広く大きくなる。二、三里ほど西北に山脈が連なり、青々としている。北方にあるはずの端が見えない。タライカ湖と比べると、さらに大きい。

 湖の東側にウイルタの住居が四戸あり、男女六、七人が住居から出てきて、何かを言いながら走り回っている。

 着岸して見ると、老父が一人いる。迎えてわれわれを見ると、「あなたはシヒシャモではあるまいか」と言う。そして彼の婦女を呼び、草の実や干し魚などを多く持ってくる。けだし、現地人はロシア人を憎悪しているので、最初わたしをロシア人と勘違いし、恐れて逃げる。われわれが日本人であることが分かると、喜色満面となる。

 この日、詩を賦して、

久く長湖の名を聞く

実にこの間の宗なりと

一望湖上の景

終日ここに相従う

峰巒西北を抱き

屏様翠黛重なる

まさにここの迨逓の境

朝昏水雲封す

翁嫗苦に我を迎う

依依笑語濃かなり

狂夫もっとも癖多し

すなわち客蹤の寄せんと欲す

と吟ずる。

 六月十二日(8月3日)、雨に阻まれ、終日にわたり宿所に籠る。

 夜になると、ウイルタは許しを得て大勢集まり、ニヴフとともに来る。干し魚を懐から出して、タバコと交換してほしいと乞う。

 多少の例外を除き、ウイルタは金を無心するとき、まず贈り物をする。ニヴフと比べると、やや事情が分かるというものである。

 六月十三日(8月4日)、西風が吹き、晴れを報ずる。

 湖に舟を浮かべて進む。湖は東西二里ほど。北に向かって進む。北へ進むと徐々に狭くなる。

 湖の西側の山脈は中央の峰が甚だ高い。湖の東側に高い丘がある。高く隆起して丘の上には五葉松が青々と生い茂っている。

 十里ほど進むと、湖の端にたどり着く。日暮れとなり、引き潮となって水深が浅くなると舟が動かなくなる。衣服をまくり上げ、舟を担いで進む。

 陸は水はけが悪くじめじめして、遠くまで曲がりくねっている。水草が足にまとわりつき、歩くことが甚だ難しい。

 傳九朗はまず断崖上に登り、アイヌ語であわただしく、「礼夫務、礼夫務」と叫ぶ。言わんとするところは、陸路を行くのは不便であるから、舟に戻れということである。

 このため、右折して舟を動かして進む。甚だしく疲れる。皆が、「なんで泊まらんのだ」と言うので、舟を水中に繋ぎとめる。

 月が出ると風が柔らかくなり、凪になる。手を洗って飯を丸め、空腹を満たす。アイヌは干し魚を二、三枚食すのみ。

 六月十四日(8月5日)、曇るが、東方はわずかに晴れて太陽が海から顔を出す。

 寅の刻、アイヌを急ぎ促して、舟を進めること七、八町ほどで湖の端に至る。たまたま東風が吹き、雨が降りだす。寒気が厳しい。このため、天幕を砂丘の上に結ぶ。

 メロクヴォからここに至るまで、およそ四つの湖がある。この湖は最も大きく、チャエ湖、ヌエ湖に次ぐ大きさである。メロクヴォ湖はやや小さい。

 四つの湖は海に近い。遠いものでも十余町に過ぎず。この湖は甚だ近く、半町に過ぎず。

 午後、疾風が雨をたたきつける。寒気が特に甚だしい。

 六月十五日(8月6日)、西風が吹き、雨が止む。

 ウイルタの男女十数人がキイチゴを箱に入れて持ってくる。アイヌ語に堪能な者がおり、シッカ近傍のウイルタの消息を知らせる。じっくり話し込んで去る。

 六月十六日(8月7日)、西南の風が吹き、晴れる。未だ波濤は止まない。

 傳九朗は出帆しようとしたが、アイヌは全員それを認めず。意気が大いに阻まれる。

 午後、アイヌを招聘し、試しに相撲を取る。エロロサッテは中でも最も大きい。わたしはその足を蹴って倒す。ウエキチ、シュウキチ皆、倒れる。全員が大笑いする。

 こののちシュウキチらがニヴフと相撲を取る。かつて一度も負けたことがなかったが、このざまである。その術を知らないためである。シュウキチらはまた相撲を取ろうとするも、許さず。笑って止める。

 六月十七日(8月8日)、曇り、風が吹く。

 アイヌは皆、出帆しようと望む。傳九朗は快く思わない。わたしはアイヌに従い、出帆する。海浜は平坦で小高い丘が断続する。北西を向いて進む。

 遥か真北を遠望すると、山脈が連なり雲外に峰が三つ並び立つ。これをロゴリ山という。

 一里ほど進むと山に近づき、湖口が海に注いでいる。広さ二、三百間ほどである。西方の山々は、まるで屏障を並べたような様相を呈している。二つの山脈が対峙して並び立つ。その下はすべて湖である。

 けだし、ベレントからロゴリに至るまで十数個の湖がある。現地人はその間を往来する。

 陸に上がり、舟を担いで三里ほど進む。湖があり、海に注ぐ。

 湖の東側の高い丘の上にニヴフの住居が一戸ある場所をオトグツトという。

 たまたま風が強く、舟を繋ごうとするも転覆しそうになる。このため、湖上に天幕を結ぶ。

 天幕が完成すると同時に雨が降りだし、風の勢いがますます強くなる。山のように波濤が立つ。

 六月十八日(8月9日)、風が少し弱まるが、未だ波濤は止まず。

 散歩してニヴフの住居を訪れる。ニヴフは自らアイヌと称す。おそらく、父祖はアイヌの出身なんだろう。婦人一人と子五人を見る。心穏やかになる。

 小休憩して湖を望む。湖の周囲は二里ほどで、波が起こり、カモメが泳いでいる。湖上に山の水蒸気が明るく照りかえり、まるで絵画のような様相を呈している。

 ここから西岸のタムラヴォまでは二泊、ウシカまでは一泊で至るという。

 六月十九日(8月10日)、西南の風が吹く。未だ波濤は穏やかならず。

 アイヌは全員が出発を望まないが、これを促して出帆する。正午、東南の風に転ずる。申の刻、ロゴリ山の南側に出る。

 まるで平岡山のようである。その上には樹木が生えていない。湖があり、東から西に延びている。西を望むと湖上に樹木が生い茂っているが、中央部はやや少ない。

 湖の傍らにニヴフの住居が一戸ある場所をドロントという。オトグツトを隔てること六、七里ほど。その間は、地勢がまるで弓のような様相を呈している。

 丘陵が断絶するごとに湖があり、四方はすべて平山である。上陸すると住居から女児二人が走り出てくる。その住居を訪れると、戸を締める。戸を叩くも応ぜず。

 しばらくしてシュウキチが再訪したが、対応は変わらず。これを問うと、「ロシア人が真昼間から女子に会ったと聞くが、多くの者が集まっていようが一切遠慮しない」と答える。

 シュウキチはけだし、わたしをロシア人と思ったんだろうと言う。

 六月二十日(8月11日)、東南の風が吹く。出帆しようとしたが、傳九朗が異議を申し立てたので留まる。

 六月二十一日(8月12日)、東南の風が吹き、濃霧が発生する。午後に雨が降る。

 ニヴフが婦女を連れ立って、魚と百合根を持ってくる。ひれ伏して宿所に入って来る。全員がアザラシの皮衣を着ているが、大半がすでに破れている。

 ウエキチらが交互に老父に、「あなたはこの子をよく貴人に預けるのでしょう。刀剣や衣服はあなたが好きなものをどれでも持っていくといい」と言う。

 老父は笑い、母子もともに笑う。あえて仰ぎ見ず、まるで大賓に接するような態度である。

 六月二十二日(8月13日)、微風が吹き、雨が止む。晴れなのか曇りなのかはっきりしない。

 午後、ニヴフの住居を訪れると、夫婦がともに同居している。タバコを与えてませると、甚だ喜ぶ。さらに一握りを与えると、妻に命じてしまわせた。

 けだし、奥地の現地人はタバコを嗜み、タバコが足りないときは煙管キセルを燻らす。煙管が尽きれば煙嚢を燻らし、それが尽きれば草木の葉を燻らす。

 もしタバコをこの地で生産すれば、一大産業となるだろう。わたしはワアレでロシア人がタバコを生産しているところを見る。

 また、何某氏がタバコを得鷹で作るというが、長い期間にわたり摘むことができるという。タバコを生産すべきことは、疑いを容れない。

 六月二十三日(8月14日)、曇り。

 正午、西南の風が吹いて出帆しようとするが、トハヲとケシユリカが外出したので、これを待ち一時を過ごす。傳九朗が怒り、促して出発しようとする。

 わたしは、「すでに遅い」と言う。傳九朗は、「当然、懲らしめてやるべきだ」と言う。このため出帆するが、波が立って、舟が転覆しそうになる。

 わたしは意に介さず、舟に飛び乗る。一方の傳九朗は機を失い、波を避けて手間取る。

 舟で進むも、しばしばうしろを振り返る。未だ一里も進まないうちに霧が発生して日が暮れる。波がますます高くなって舟が揺さぶられ、転覆しそうになる。

 食料と器物がほとんど水没し、免れたのはわずかである。ワアレを出帆して以来、ここまでの災厄に遭うのは初めてのことである。

 六月二十四日(8月15日)、曇り。北風が吹く。

 まさに出帆しようとしたとき、波が立ち止める。

 丑の刻、木を集めて焚く。炎が盛んに燃えて空に昇る。光が宿所の中を透かし、まるで白日のような様相を呈する。

 ガシバからベレントに至るまで海浜を数十里。ヤマニレが生えているのは甚だ稀であるが、この近辺には甚だ多い。

 時折、異種族を見る。黒竜江流域の出身の者ではないかという。

 六月二十五日(8月16日)、早起きして食事を終え、半里ほど進む。丘陵が中断して、地勢が平坦となる。

 西にロゴリ山を望む。けだし、一里ほど外側にある。白霧がその峰に立ち込め、わずかに一部のみが見える。北北東に向かって走る。

 岸は赤褐色で壁のように切り立ってそびえ立ち、高さは七、八丈、あるいは五、六丈ほどある。小さな若木が生え、五葉松が多い。また山のふもとにウドが生えているのを見る。花や葉が生い茂っている。

 二里ほど進む。小川がありニヴフの住居が一戸ある場所をロゴリという。

 五、六人のニヴフが舟を遠望して、長いこと佇む。

 休もうとしたが、水際に岩礁が多いことを考慮して、あえて進まず。舟を留めてタバコを吸う。ニヴフらが魚を手にして、われわれを手招きする。その意味するところは、タバコを乞うているのである。

 岸に近づいたところで舟を傷つけられることを心配し、徐々に櫂を打ち鳴らす。ニヴフらはわれわれを尾行し、岩間に立ってわれわれの様子をずっと伺う。その顔を伺って、先へ進む。

 ここから一里ほどは、高さ七、八丈ほどの岩山が続く。ことごとく青黒色をしており、岩のかけらが崩落して積み重なり、足の踏み場がない。岩上には小さな若木が生えているが、甚だ稀である。

 岬の先端が折れて東北東に向かっている。半里ほど進むと二頭のクマを見る。これを射たが命中せず、崖を登って逃げる。

 また一里ほど北に進む。巌岩が多い。岩石が一つあり、直径一丈ほど。高さはその三倍はあり、海中にそびえ立っている。まるでヒキガエルが首を伸ばしているかのような様相を呈している。

 ワシがいるが、魚を食べ過ぎて飛べない様子。シュウキチらが棒でこれを打ち倒す。ワシの頭と足を縛ると、羽を十四枚抜き取って解放する。

 また一里半強ほど北に進む。山勢が徐々に険しくなる。ある山はすべて白青石で高さ数十丈。谷間に水はなく、風が白霧を送る。これを遠望すると甚だ大きく立派である。

 岬の先端はやや低く、岬の下に紫石がある。人跡はない。アザラシが群がり、背を石上にさらしている。潮流が遠く海上から来て、岬にぶつかり南北に分かれる。甚だ流れが速い。

 また十町ほど北に進む。一つの岩が海面に立っている。カモメがここに巣をつくっている。糞が岩の頂上を汚して白くなっている。

 また十四、五町ほど北に進む。大きな岩が海中に立っている。高さ三、五丈ほど。直径はその半分ほどである。下部は鋭く、上部は豊かである。コケが生い茂り、すべて黄赤色をしている。草が青々と茂り、微風がその間をそよいでいる。

 また二十町ほど北に進む。石が乱雑に並び、白波が揺蕩う。高さ五、六丈ほどの岩があり、まるで人がつま立つような様相を呈してる。

細い穴があり、穴の中は暗く、その上には青草が生えて根が交錯し、シロカモメがその間に散らばっており、奇観をなしている。

 また一里ほど北に進む。岩山が屏風のようである。瀑布がここから流れ落ち、まるで白麻をかけたような様相を呈している。

 また一里強ほど北に進む。山の端に出る。巨大な巌岩があり、高さ数十丈、頂上に樹木が生えている。その険峻な様相は比べるものがない。舟でその下を進む。首を縮めてこれを望むと、動悸が激しくなり、恐怖で足が震える。右に瀑布が二つあり、白く清らかで愛すべきものがある。

 ここで岸が曲がり、湾となる。砂浜はやや広い。北方の巌岩は普通とは様相を異にする。霧が深くなり、その頂上を見ることができない。海中に岩が立っており、まるで五指のようである。

 また五、六町ほどの小湾となる。地勢は初めと同じようである。岬の先端に大きな岩が傾斜して立っており、まるで切断されたような様相を呈している。海面に岩礁が連なる。アザラシが多く、啼き声が甚だかまびすしい。

 また五、六町ほど北に進む。また岩礁が多い。遠巻きに数十歩ほど外側から通過する。ここから曲がり、まっすぐ西北へ進む。十町ほど進むと、岬の先端に出る。そこにある土山は傑出している。草が甚だ短く、峰の半分から上には五葉松が生え、水際の巌岩に生えた小枝が入り組んで、まるで鋸刃のような様相を呈している。

 この場所をガオト岬という。この島の北端である。

 顧みて通過する。一頭のヒグマが頂上にいるのを見る。人を見ても動かない。

 すでに日暮れとなり、瀑布を西方に遠望する。アイヌが皆、「ガオトがここからどのくらいの距離にあるのか分からない。ここで泊まろう」と言うので、これに従う。

 この夜、魚がないので、飯にアザラシの油を和えて食す。ヤマニレの間に魚皮を敷いて横になる。ロゴリからここに至るまで、およそ八、九里ほど。ことごとく岩山で、海面には岩礁が多い。ところどころに小さな湾があり、そこに舟を停泊させる。

 風や潮が荒いわけではないため、これまで一度も往来の自由がなかったわけではあるまい。

 六月二十六日(8月17日)、濃霧で四方八方が塞がれる。

 明け方に出帆し、西南に進む。霧は晴れるが、もやが残っている。

 仰ぎ見ると、土山の高さ百余丈ほどあり、山の中腹より上は五葉松が生えているが、背が低く小さい。頂上はまるで鋸刃のような様相を呈しており、最も険峻である。岸の下には黒岩があり、まるで瓦を葺いたような様相を呈している。

 遥かに島勢を遠望すると、西に向かい中間で折れて大きな湾をなしている。湾中に停泊すれば何事もなく穏やかであろう。風波で悩むこともない。山の色も優れており、樹木が青々と生い茂っている。

 また南に進み、西に曲がる。一里強ほどで河が一筋ある。広さ三十間ほど。河口の深さおよそ四尺。河にはサケが多い。

 ニヴフの住居が八戸あり、そのうちの一戸はアイヌ出身だという。この場所をガオトという。

 土壌は肥沃で耕すべきである。水もまた清らかである。

 この日は立秋の十一日目である。平地の上に五寸の圭表儀を立てて計測すると、日中の影の長さは四寸一分六厘である。

 午後、河畔に天幕を結ぶ。ニヴフの男女四十数人が来て様子を見ている。皆が喜んでおり、喜色満面である。

 詩を賦して志を、

行行指点す青螺のみずら

云うこれ島中第一山と

三峰弁ぜず孰か優劣なるを

巍然秀援す雲霄の間

蜿蟺北走十余里

高巌一一恠詭を呈す

巌上家葺枯卉立ち

巌下紛錯乱石峙つ


揚候浪を激しくしてその怒を逞するも

幾処の幽湾の舟を繋ぐに堪たり

便風半日帆を飛ばして去る

往返元来侭く自由なり

如何ぞ世上の男児の輩

鴜伏為す無し徒に慷慨する

未だ節度の恩命を敷くを見ず

忍びて辺土に招徠を欠かしむ


越主去りて後千余年

熊羆今に蒐畋を絶つ

奥酋昔泝る渾同江

扁舟寧ろ識らんや此の辺に到るを

玁猶競わず丁零恣なり

得意睥睨異議を陳す

黄瞳大鼻是れ何物ぞ

奈んもする無し居人の厥類にあらざるを


吾この地に来たりて微躯を投ぜんとす

深情認取す太氏の余

太氏本より自ら吾が属族とす

嫌はず儀状の吾と殊なるを

叨に祠宇を修めて遐裔を鎮し

敢て銅標を擬して一世に傲る

恨殺す宰臣の遠図無きを

単身效わんと欲す将軍の制

と吟ずる。

 六月二十七日(8月18日)、早朝はわずかに曇るが、午後に晴れる。

 天照大神の祠を山上に建てようと思い、柱を四本立てる。一尺ほどの粗末な板を挟み、幾重にも重ねる。広さおよそ四尺。屋根はあるが席はなく、仮の神影を安置して、紙幣を奉じて火酒を供える。

 祠の前に二本の標柱を建てる。一つは里程を、「縫江より此に至ること凡そ六十里程」と記す。もう一つはアイヌが建てたもので、経過日数とその名を記す。

 山の南西北の三面は湖に面している。湖勢は南に向かって徐々に広くなる。周囲は三里ほど。遠近の樹木が青々としている。

 この夜、現地人の住居を訪れる。建築様式が南部とは異なり、木柱を立てている。一尺もしくは二尺ほどで、前方は高く、後方は低い。上部に丸木を横たえ、柱と柱の間は土で埋め、間口に階段を設けて昇り降りする。広さおよそ二間ほどで、扉は頭をこするほど小さい。中には南部のような住居もある。

 六月二十八日(8月19日)、曇って雨が降りそうになる。

 傳九朗が一人の子に飯と砂糖を与え、戯れて、「わが子として養おう」と言う。現地人が喜んで、「この子は未だ懐を離れようとしない。だから愛する気持ちも湧かない。よろしければタバコを頂けないだろうか。頂いてから契約成立としましょう」と言う。このため、去り際に笑って一握りのタバコを与える。

 二里ほど進む。小山が二箇所で中断している。すべて小さな湖があり、西の湖が最も小さい。

 山上に住居が五戸あり、二戸はアイヌ出身だという。この場所をマチケガオトという。

 男女四十数人が手を挙げて舟を呼ぶ。風雨に遭って休憩しようとする。現地人らが衣服をまくり上げ、われわれを助ける。

 午後、現地人の住居を訪ねる。五十歳くらいの婦人が一人いる。その者のそばに女子が五、六人いる。かわるがわる女子を称賛し、戯れに妻にせよと乞う。あえて承諾せず。

 傳九朗があとになって再びこれを言う。そのなかの十三、四歳の女子を指して、「この子は未だに貴人に仕えていないようだから、貴人について行けば幸せだろう。だが、この子はまだ幼いから貴人に仕えたら泣きどおしだろう」と言う。妹らが肩をなでてこれを言うと、女子は懼れて去る。

 この夜、北西の風が激しく吹き、大雨が滝のように降る。

 六月二十九日(8月20日)、雨がようやく止むも、風が強い。

 この日もまた、現地人の住居を訪れる。家中の男女がわたしを迎えて、草の実や干し魚を提供する。必ず好きか否かを問う。このため、タバコ一握りを与えて去る。

 七月一日(8月21日)、北風が吹き、雨が止む。

 午後、また現地人の住居を訪れる。家中にはロシア語に堪能な者が多い。満州語について問うも、知っている者はいない。器物を出してタバコあるいは木綿と交換してほしいと乞う。ロシア製のものが多い。

 わたしは諭して、「日本人は満州の物を好むんだ。ロシアの物は使わない」と言う。現地人らは満州にかこつけてくどくど言う。

 七月二日(8月22日)、風が吹かず波が止む。西岸の波勢が、なおも大きいため出帆せず。

 申の刻、傳九朗が現地人を招聘し、銃を試させる。標柱を砂浜に建てて、三十間ほど離れたところから射撃する。五発中三発が命中し、ほかの現地人も命中させる者が多い。

 この銃は吉林製のもので、各世帯で所蔵している。おおむね後装銃である。甚だ粗悪ではあるが、皆よく十銭弾を装填する。

 七月三日(8月23日)、まさに出帆しようとしたそのとき、大勢の現地人が草の実や干し魚を持ってきて、タバコと交換してほしいと乞う。切りがないので、相手にせずに去る。

 二里ほど西北に進む。山が徐々に大きくなる。樹木が青々と生い茂っている。山のふもとは巌岩が多く、人跡はない。

 十町ほど進む。岩窟の中に残る雪が白く輝いている。岬の先端に岩が一つあり、まるでそうのような様相を呈している。水中にそびえ立ち、高さおよそ三丈、直径はその半分ほどである。

 西に曲がって十四、五町ほど進む。巨大な岩が削られている。高さが不揃いで入り混じり、ガオト岬と向かい合っている。振り返ってガオト岬を遠望すると、北北東に位置している。

 ここから一転して西南に向かって三里ほど進む。山の中腹より上にはカバが生え、木の下は草が生い茂っている。海岸には大岩が入り混じり、足の踏み場もない。石はすべて黒い。

 徐々に南に進み、落葉松を見る。山のふもとの小川はすべて赤く濁り、よどみなく流れて海に注ぐ。海水は黒みをおびた赤色で、まるで血のような様相を呈している。岩礁が海中に点在する。

 河の傍らに現地人の住居が一戸ある場所をトメという。人影はなく、ここから真南に向かって進む。海岸には雑草が生え、五葉松が生えている。

 一里強ほど進む。土砂崩れを起こし、山肌が露出している。高さ五、六丈。海面に岩礁が連なっており、アザラシが多い。

 また一里ほど南に進む。日が沈み、暗くなって四方が見渡せないので、ここに泊まる。

 七月四日(8月24日)、霧中を敢行して進む。

 ニヴフが犬に舟を曳かせているところに出逢う。わたしを見てそのまま去る。

 およそ二十町ほど山脈が中断する。河が一筋あり、広さ十間ほど。深さ二、三尺ほど。河の傍らに現地人の住居があるが、ほぼすべてが廃屋で、一戸のみ住人がいる。この場所をベロヴォという。小休憩して進む。地勢は初めと同じようである。

 三里ほど山脈が中断している場所をトッカといい、現地人の住居が三戸ある。一戸はアイヌ出身という。ここで初めてサケを獲って食す。

 ここから三里ほど南西に進む。山脈が徐々に低くなる。地勢は大きく広がり、東北には三、四里ほど隔ててロゴリ山を望む。東南の湖は遠くまで続いている。陸は広々として高低差があり、際限なく続いている。

 湖の傍らに現地人の住居が三戸ある場所をムシビという。

 正午、海浜で飯を食い、また進む。海浜は平坦で小さな丘が断続し、およそ五里ほど続いている。

 一転して一里ほど南に進む。湖の端が海に注いでいる。広さ三、四百間ほど。湖の南側にある小山が東西に連なっている。樹木が青々と生い茂り、愛すべきものがある。

 山に寄り添うように住居が十三戸ある場所をホンメトという。

 日が暮れて辺りが暗くなる。この地は遠くまで湾曲し、かつ住居がないという。全員が岸辺に着岸しようと望む。ほの暗くぼんやりしている中で、遥か遠くの湾に繋げられている舟を見つける。命じて着岸させると、強壮な男性十数人を見つける。力を込めて櫂を打ち鳴らし、われわれの舟を導かせる。こうして、天幕を水際に結ぶ。

 男女六、七十人が外に出てきてわれわれを見るので、最初は盗賊であることを疑う。しかし、甲斐甲斐しく世話をするので、疑いは晴れる。

 七月五日(8月25日)、晴れて風はない。

 出帆しようとすると、シュウキチらが現地人の住居に行ったまま帰らないので、しばらく待つ。帰ってくると満州のタバコを持ってきて、「現地人にもらった」と言う。また、「昨日の夜、舟を助けてくれた十数人は全員アイヌ出身だ。だから親切に接してくれたんだ」と言う。話し終えたところで、促して出帆する。

 一里ほどまっすぐ西に進む。山脈が中断し樹木がなくなる。やや南に転じて二里ほど進む。すると真南に進む。海水が湾内に流入し、見渡す限り果てしなく続いている。

 西南二、三里の外側に小島が一つある。西に向かうと、曲がりくねって長く続く海浜には一本の木も見ない。草原の上を進む。潮の干満が急流をつくっている。遥か遠く霞の向こうに東タタールの山々を遠望する。

 半里ほど進むと現地人の住居が一戸ある。この場所をガルヴォという。

 さらに一里ほど進むと現地人の住居が四戸ある。この場所をハニボクトという。ここは極めて穏やかで舟を停泊させるには絶好の地である。

 崖に寄り添うように現地人の住居が一戸ある場所をマシケガルという。

 現地人の住居が二戸ある場所をキリカという。この日はハニボクトに泊まる。

 七月六日(8月26日)、東南の風が吹き、帆を張る。

 まっすぐ西に進み、島に沿って三里ほど進む。海水が湾内に流入する。湾の広さおよそ半里ほど。南を遠望すると、水天一色となり甚だ広い。崖が長く続き、崖の西側にある小さな砂丘が西南に連なる。小さな丘があり、草が生い茂っている。

 丘の下に村落があり、舟で近づくとわずかに屋根のてっぺんのみを見る。この場所をウシカという。この地にはタムラヴォとともに盗賊が多いという。

 わたしは一人で向かい、現地人の不意を突く。現地人は驚愕して、しばらくすると酒と食事を出し、「これは満州産だ」と言う。酒の味は火酒に近く、少々匂いがきつい。けだし、年数が経っているためであろう。飲み終えて去る。

 村落をめぐって調査すると、十九戸ある。傳九朗は、「実際に今住んでいるのは十七戸だけだ」と言う。このとき五十数人の男女が出てきてこちらを見る。針とタバコを与えて去る。

 周囲を見回すと、東北にロゴリ山の山頂がかすかに見える。小島が五、六つほど連なっている。徐々に遠くなり遥かに眺望を望みながら進む。海浜や草の茂る崖の上に五葉松が生えているが、大半が枯れている。

 五里ほど進むが、この間、小川も樹木もない。

 また半里ほど西に進む。砂丘の上に現地人の住居が四戸ある場所をチャムトという。

 七十歳ほどの一人の老婆を見る。アイヌ出身だという。その昔、現地人の間で痘瘡が流行して多くが亡くなったので六十歳以上の老人を見ないが、ここに来て初めて見る。

 また七、八町ほど西に進む。現地人の住居が四戸ある場所をゲッフという。

 日が暮れて風が強くなる。このため、ここに泊まる。

 散歩して現地人の住居を訪れる。二人の婦人と五、六人の子供を見る。甚だしく恐れる。しばらくすると、タタール産のヒエの実をアザラシの油で煮た料理を出す。甚だまずい。

 七月七日(8月27日)、東南の風が吹く。南の空に雲が湧き、時折まばらに雨が降る。明け方に出帆する。

 地勢は西南西を指す。徐々に低くなり、海浜は広々としている。

 十町ほど進む。現地人の住居が四戸ある場所をユフという。

 また三十町ほど進む。現地人の住居が九戸ある場所をホムクヴォという。辰の刻、現地人の住居を訪れるも、未だ起きず。一人の現地人がわれわれを厚遇する。自らアイヌと称し、タゲ出身だという。

 サケが河を遡上すると現地人がこぞって漁網を海中に張るも、獲ることができない。それでも貯蔵してあるサケを贈るので、一尾に対してタバコ一握りを与える。物々交換の挙句、手持ちの日用品がようやく足りる。ウネの比ではない。この地の現地人は甚だ狡猾である。

 一里ほど西に進む。このときちょうど晴れる。砂州を北方に望む。長さ半里ほど。左を顧みると、砂丘の下に現地人の住居が十三戸ある。舟を進めて、わずかに住居の屋根のてっぺんを見る。この場所をタムラヴォという。この地、その昔は盗賊が多いという。衣服を剥ぎ取り、殺害するという。

 わたしは現地人の住居を訪れる。婦人も子供も用心して出てこない。わたしが去ると戸を開き、首を伸ばして遠望する姿は、甚だいじらしい。五十歳ほどの現地人が一人おり、妻を叱責するその声が甚だかまびすしい。

 わたしが来たと聞いて恐れおののき閉口する。しばらくすると首をあげて、「あなたはシヒシャモではあるまいか」と言う。タタール製の敷物を敷いて、そこに坐らせる。しばらく話し込んで去る。

 標柱を丘に建てて里程を記そうとする。近傍には一本も木を見ない。これを現地人に問うも答えない。このため、ケシユリカに任せて、「わたしは盗賊ではない」と言わせる。タバコを少し与えると、この者は喜んで去る。

 このとき六、七十人が砂浜に出てわれわれを見る。女子は草の影に坐り伺う。

 ここから曲がって真南に向かって進む。西にタタールの山々を遠望する。隔てること二、三里ほど。大小の島々が連なる。

 わたしはアイヌに、「昔の日本人はしばしば満州に行った。毎年のようにヒグマを獲って帰った。今わたしはこの島をもって満州との国境としようと考えている。これ以外になんの目的があろう」と言う。

 皆が応じて、「確かにそうだ。その昔はわれわれアイヌは極めて盛んに満州と交易していた。だからこの近辺にもアイヌがいる。今われわれはあなたに同行してきた。だが、ここに至るまで満州人がいるとは聞かない。いるのはロシア人だけだ。ほとんどロシア人のものと言ってもいいくらいだが、実に悲しいことだ」と答える。

 一里強ほど進む。地勢はまるで弓のような様相を呈している。現地人の住居が一戸ある場所をガルヴォという。次に五戸ある場所をホッテホフヴォという。次に一戸ある場所をヨイチホフヴォという。次に一戸ある場所をイクチホフヴォという。

 この地は海面が極めて浅い。泥地にはまって舟を動かすのが甚だ難しい。海水はしょっぱくないので飲むことができる。けだし、黒竜江が流れ込んでいるためである。

 申の刻、ヨイチホフヴォで休憩し一時を過ごす。アイヌ全員がここに泊まろうと言うので、これに従う。

 黄昏時に現地人五、六人が来る。わたしは、「黒竜江はどこにあるんだ」と問う。現地人は西南の隅を指さして、「山際に住みつくロシア人が年々増えている」と答える。

 また、「このあたりの女性はロシア人相手に売春するというのは本当か」と問う。全員が、「本当だ」と答える。

 木綿を得るために最も取りうる手段だという。わたしがその事情を問うと、現地人らは身振り手振りでその事情を説明する。けだし、一度の売春で木綿三尋を得るという。

 この夜、シュウキチが現地人の住居を訪ねる。一人の女性がこれを迎え、「もしわたしに木綿をくれるなら、あなたの思うままにしていいわ」と言う。

 詩を賦して、見るところを

昔云う田村隖タムラヲ

常に逋逃の夫多し

強盗過客を害し

巨棓その躯を貫くと

遊子これを伝聞し

行かんと欲して且つ踟蹰す

矮人の胆何ぞ大なるや


剣を横たへて夷戸に過る

戸中都すべて寂寞たり

面を掩ひて一言無し

便ち悟る向来の説

土俗の虚誣を為すなりと

豪雄の士に非ざるよりは

孰れか能く壮図を立てん

と吟ずる。

 七月八日(8月28日)、北風が吹いて曇り、まばらに雨が降る。

 まっすぐ半里ほど南に進む。地勢は弓のような湾になっている。現地人の住居が一戸ある場所をマクヴォという。次の四戸をムシビという。

 ロシアの沈没船が砂浜に埋没しているのを見る。長さ十七、八間ほど。この地にロシアの船具を多く見る。この地の現地人は往々にして船板で住居を造る。

 また三里ほど南に進む。また湾があり、現地人の住居が一戸ある場所をオトガタという。次をオウロクフという。次の四戸ある場所をヘムクヴォという。次の三戸ある場所をガニヴォといい、小川がある。

 ここから湾が四里ほど続いている。一戸ある場所をマガリヴォという。次の四戸ある場所をラガレヴォという。

 この地は海面が極めて浅く、砂州が多い。海岸を去ること二里ほど外側でも、なおも通過できない。現地人は潮の干満を利用して往来する。

 現地人の住居が三戸ある場所をヨリチキリという。

 午後、マガリヴォを通過する。風が甚だ強い。何もせずとも舟が前に進もうとする。現地人五、六人が岸辺に立ち、われわれを招く。このため、着岸して潮を待って一時を過ごす。

 日暮れにヨリチキリに至る。

 文化年中、間宮倫宗が樺太をめぐり歩いたが、けだし、この地で止まる。その記録に称するところのイシラヴォという場所は、どこにあるのか詳らかにすることができない。記録にあるナニヴォとは、恐らくガニヴォではあるまいか。

 この日、一人のニヴフが来たので、舟に同乗させて先導させる。海岸に沿って舟を進めるのが難しい。

 七月九日(8月29日)、西北の風が吹き、晴れる。

 帆を張ってまっすぐ四里ほど西に進む。地勢は湾になる。現地人の住居が二戸ある場所をノツクヴォという。一戸ある場所をマガタヴォという。三戸ある場所をチャカガイという。

 辰の刻、ノツクヴォに至ると、昨日同乗させたニヴフが手を挙げて陸を指す。けだし、陸行することを望んでいるんだろう。舵を転じて帆を下す。岸に向かい、命じて上陸させる。すると今度はさらに南方を指すので、皆が怒って迂回する。

 半里ほど外側から通過すると、強風が吹いて波が立つ。ニヴフは恐れおののいて色を失い、どこに出るのか分からないが徐々に進む。村落を指して、しばしば、「ニコラエフスキーだ! ロシアだ!!」と叫ぶ。けだし、ニヴフらはもともと泳げず、かつ常にロシア人を憎み、その地に漂流することを恐れているからだろう。このため、皆が大笑いする。

 また半里ほど南に進み、チャカガイに至る。風がますます強くなる。ついには命じて舟を揚げさせる。ニヴフは喜んで、顔色が良くなる。

 七月十日(8月30日)、夜明けと同時に北風に乗って四里ほど進む。

 湾に出る。現地人の住居が一戸ある場所をチヨンキという。三戸ある場所をボレツキという。二戸ある場所をヨコダブという。

 現地人は住居に酒を多く蓄えている。これを問うと、「満州産だ」と言う。杯を持って立ちながら飲む。極めて酒精アルコールが高く激しい。一杯飲んで辞して去る。現地人が酒樽を持って舟のところまでやって来る。ウエキチらが頭を下げる。これを促し速やかに出帆する。

 さらに別の湾に出る。現地人の住居が五戸ある場所をロクゴゼという。

 南南西に向かって三里ほど進む。水深が浅くなり、砂浜に出る。

 一転して二里ほど南に進む。さらに別の湾に出る。現地人の住居が二戸ある場所をゴエトという。海水が湾内に流入し、東北に五、六町ほどある。ここから南西に向かって八、九里ほど進む。水深が甚だ浅いので、舟を曳いて通過する。

 東方に山を遠望する。甚だ高大で樹木が青々と生い茂っている。支峰が分岐し、一つは南へ、もう一つは北へ連なり、やや平らである。

 西方に山靼さんたんを遠望する。隔てること四、五里ほど。海浜に落葉松が多い。遠くからこれを望むと、かすかではっきりせず、まるで絵画のような様相を呈している。

 日暮れにワカシ岬に至る。ここに泊まろうとして、砂浜を掘って水を探すも得られず。

 岬を過ぎて、その先で泊まる。すると現地人三人が走ってきて舟を助ける。問いかけると、彼らはポゴビの人で、奥地に赴きサケ漁をする者だという。

 七月十一日(8月31日)、早起きして食わずに出帆する。地勢は真南に向かう。

 十町ほど岸に沿って湾がある。

 二里強ほど進む。現地人の住居が二戸ある場所をオシミラルという。次の一戸をヨニベという。現地人は奥地に行って漁をしているようで、人を一人も見ない。

 風波に遭って難破し、散乱した器具を拾い集めるロシア人を見る。禿げ頭が一人いる。容貌や肌の色は山靼人さんたんじんを彷彿させる。けだし、彼はロシアに帰化した者だろう。

 難破船を西岸に見ながら進む。船上の乗組員を数えると、士官と思しき者が一人いる。現地人を率いて器具の積み込み作業をしている。望遠鏡でわれわれの舟を見て去る。

 一里ほど南に進む。岬の先端にニヴフの住居が四戸ある場所をポゴビという。西方に山靼さんたんを隔てること、わずかに一里強ほどである。

 上陸してニヴフの住居を訪れる。一人の婦女が乳飲み子を抱えている。われわれが来たのを見ると、恐れおののいて閉口する。日本人であると聞くに及んで、喜んで喜色満面となり、様々なことを話す。

 ここから湾になっている。南南西に向かって五里ほど進む。海浜には五葉松が生えている。右を顧みると山靼の山々が低く連なっており、樹木が青々と生い茂っている。

 岬の先端をワゲという。西方に山靼さんたんを隔てること、二里ほどである。

 婦女三、四人が河畔に立ってわれわれを見る。そこに着岸すると、恐れて逃げ去る。六十歳ほどの婦女はあえて逃げず、夫を連れてこようとするので、止める。この者はニヴフのような身なりをしており、家中にはロシア製の器物が多い。カバの樹皮を用いて住居を造るところはウイルタに似ているが、その下を小柱で支えている。婦女はこれを、「貴利務きりん」と呼ぶ。おそらく吉林ではなかろうか。

 先に進むべく、辞して帰ろうとすると、引き留めて茶を飲ませる。干したマスを数本を渡すので、フトモモの砂糖漬けを蓄えているのを見つけてこれを乞うと、箱をあわせて贈る。このため、タバコを与えて礼を言って去る。

 ここから東岸のチャエ湖に出るまで、二泊すれば到達するという。

 ここから地勢一転し、丘陵が甚だ高くなる。土砂崩れを起こして山肌が削られている。丘の上に五葉松が生えているが、背が低く小さい。

 まっすぐ南に二里ほど進む。夕日が西方の山に沈んで引き潮になるので、舟を曳いて進む。水深がますます浅くなり、ついには水中に棹をさし、舟を繋いで泊まる。

 詩を賦して内心を、

わずかにこれの一帯の水

一鞭直ちに起きゆべし

歴歴にして指顧の間

必ずしも舟橈を仮りず

国家旧土を開く

名義日月昭かなり


東韃吾が余裔なるに

何ぞ須らく征徭を久しくすべけんや

孤剣全嶌を行る

此に至りて気更に豪なり

渾同の水を齎さんと欲し

まなじりを泱す万里の潮

と吟ずる。

 七月十二日(9月1日)、早々に出帆する。曇って風がない。

 蒸気船二隻を西岸に見る。白煙が山を染め、船は動かない。

 四里ほどは海浜に落葉松が多い。地勢は南に向かって徐々に低くなり、大きな岬となる。西方に山靼を隔てること、三里ほど。この間はすべて雑草が生え、樹木を見ない。岬を外側から遠望すると、山脈の渓谷が曲がりくねり、東南に数十里にわたり連なっている。極めてひっそりとして寂しい風景である。

 辰の刻、北風が吹く。わたしが帆を張ってまっすぐ通過しようとすると、傳九朗が、「これは間違いなくナクコ岬だ。旧志に、『ナクコとノテトとは五里ほど離れており、その湾には海水が流入し、二十里ほどある』とあったぞ」と言い、これを認めない。

 岸を隔てること一里ほど外側から通過して五、六里ほど進む。ところどころ水深が浅く、舟を曳いて水草の上を進む。甚だ進みずらい。

 潮の様子を見て未の刻に通過する。東南を遠望すると、波上に物影が点在している。トハヲが、「引き潮で砂浜が顔を出して、その上をカモメが飛んでいるんだろう」と言う。するとシュウキチが、「鳥にしてはでかすぎる。あれはロシアの船だ」と否定する。今度はケシユリカが、「小島が連なっているんだろ」と言い、傳九朗が、「俺は最初から岬だと思ってたけどな。昔の人がそれを証明してるよ」と言う。

 舵を転じて西に進む。ようやくそこがノテトであることが分かり、通過したことを悔いる。

 一里強ほど進む。東方の一箇所を指して、「これはコタンだ」と言う。わたしは、「岬の西には誰も住んでない。当然のことかも知れん」と言う。たまたま風が強くなり、湾内も水深が甚だ深く、まるで飛ぶように舟が進む。

 しばらくして岸に至る。現地人二、三十人がわれわれの舟を遠望する。しきりにシヒシャモと呼び、走ってきて舟を助ける。厚意が行き届いている。地名を問うと、「テッカ」と答える。「ノテトはどこにある」と問うと、「そんな場所はない」と答える。けだし、ノテトはアイヌ語の旧称であるため、現地人は知らないのであろう。

 現地人の住居を訪れると、九戸ある。住居は甚だ大きく、家中には器物が甚だ多い。あるいはタタール製の竹筵を敷く。ほかの村落に比べて清潔である。男女の衣服も甚だ清潔である。けだし、山靼人さんたんじんが往来するからであろう。

 海にはアザラシが多く、またカレイも多いが甚だ小さい。樹々はただ五葉松のみでほかの雑木はない。現地人は皆、薪を取りに三里ほど離れた山まで行く。東方に河が一筋あり、マスが多く、現地人が漁をする。

 現地人の一人がアイヌ語に少し通じる。彼は豊かな髭を蓄え、手で髭を撫でながらアイヌと称す。けだし、アイヌの種族なんだろう。

 七月十三日(9月2日)、アイヌら皆が疲労を訴える。このため、逗留する。

 午後、現地人の住居を訪れる。現地人らはタタール製の酒を出して厚遇する。

 一人の老父がおり、その昔、日本人がしばしば到来する理由を話す。かつ、「どうして日本人はなかなか来ないんだ」と言う。

 談笑して一時を過ごす。殊のほか愉快である。

 七月十四日(9月3日)、北風が吹き、わずかに雲がある。

 海岸に沿って一里ほど西に進む。ナクコを顧みると、北北東に位置している。

 一転して東南に五、六里ほど進む。砂浜は平坦で木が一本も生えていない。徐々に南に進むと小山があり、五葉松が青々と生い茂っている。

 七里ほど進むと湖があり、海に注いでいる。湖畔に現地人の住居が二戸ある場所をウヤツロという。湖の先端からノテト岬を顧みると、北西に位置している。

 ここから丘陵が甚だ大きくなる。落葉松が生えているが大半は枯れている。ここから五里ほどにかけて山勢は非常にすぐれ、樹々が鬱蒼としており、まるで姿態を化粧したかのような様相を呈している。海岸に土砂崩れの跡があり、土色は黒々としている。

 七里ほど進むと、岬の外側の湾に海水が流入している。このため、舟を停泊させる。岩が海面からそびえ立っている。岩の周辺からウヤツロを顧みると、まだ北西に位置している。この場所をワンリン岬という。

 岬の先端から一転して東北の風景は甚だすぐれている。ここを通過して一里ほどで遠ざかる。

 たまたま日が暮れ、月が綺麗である。小川があり、ここに泊まる。

 七月十五日(9月4日)、晴れる。四方八方が澄み渡っている。

 一里ほど東南に進む。山が少なく、小川がある。その傍らに現地人の住居が二戸ある場所をホエという。

 よくアイヌ語に通じた一人の老婆がいる。自らホロコタン出身で奥地に嫁いだと言う。くどくどと話して止まらない。

 五人の山靼人さんたんじんを見る。ロシア人を舟に載せ、出帆しようとしている。シルトンナイの首長でジャチコフという者が手紙を届けてほしいと乞う。行程が遅れていることを理由に辞退するが、「遅くなっても構わない」と言うので引き受ける。

 このため手紙を受け取り、ここから南に一里ほど進む。山の隅に岩が多い。東南に転じて二里ほど進み、タゲに至る。

 河が一筋あり、広さ三十間ほど。深さ四、五尺ほど。河にはマスが多い。現地人の住居が五戸あり、南岸に居を構えている。山水が清らかで居住するには絶好の場所である。

 遥か遠くにオッチシ岬を遠望し、やや南南西を指して進む。山脈が甚だ高く、樹木が青々と生い茂っている。海岸に土砂崩れの跡があり、山が削られている。舟で山のふもとを通過するも山頂は見えない。

 その間にタゲを隔てること二里ほどの場所をモコナイという。小川があり、現地人の住居が一戸ある。

 三人の山靼人さんたんじんがおり、舵を打ち鳴らしてこちらへ来て来訪の理由を問うので、「東北から来た」と答える。すると、「上陸して舟を曳いて来たのか」と問うので、「いや、ガオト岬から海の上を来た」と答える。すると現地人らは驚き怪しんで、「われわれの仲間ですら未だにガオト岬を通過した者はいないというのに、あなたはまるで神のようだ」と言う。

 ここから二里ほどの場所をチョロコマナイといい、三里ほどの場所をニヤカメという。小川があり、現地人の住居が一戸ある。

 ここから五里ほどの場所をアラコイという。小川があり、水は清らかで飲める。北岸に現地人の住居が六戸ある。沢の中はやや広くなっており、風景は極めて美しい。

 一人の現地人がわれわれを迎えて一礼し、喜んで、「シヒシャモは久しく来ていない。思いがけず今日あなたたちを見た」と言うので、「この前に来たのは誰だ」と問う。すると、「キトウシのアイヌでカチュラグという者が不作とだからと言って来て以来だ」と答える。

 現地人の男女が一列に並び、皆が喜色満面である。ロモヴォに出る道を問うと、「ここからエブルツクまで三日くらいかかる。行き来する現地人は多くいる。山道には草もないし、簡単に行き来できる」と答える。

 七月十六日(9月5日)、朗らかに晴れて、海面がまるで鏡のようである。極めて多くのマスが水底を泳いでいる。

 舵を打ち鳴らし、一里ほど西南に進むとオッチシに至る。

 河が一筋あり、広さ三十間ほど。深さ四、五尺ほど。河にはマスが多い。河の傍らに現地人の住居が四戸ある。現地人はあるいはこの地をドゥエと呼ぶ。東方の水沢は甚だ広い。山頂に樹木が青々と生い茂り、愛すべきものがある。

 数十頭の牛が草を食むのを見る。ロシア人の飼うものである。

 南方に巨大な巌岩があり、高さが十余丈あり人を通さない。ロシア人がその上に道を通したので、何とか通れる。三つの大岩が海中にそびえ立っている。極めて猛々しい。大岩の周囲からワンリン岬を顧みると、北北東に位置している。

 ここから一転して南に進む。

 ロシア人が山を焼き、樹木がすべて枯れる。ロシア人はその間に田畑を作り、多くのジャガイモを作る。これを遠望すると甚だ豊かに実っている。山のふもとの絶壁には石炭が多く、ロシア人は絶壁をよじ登ってこれを採掘する。誠に寒心に堪えない。

 ここから一里ほどの山勢はしばらく広々としている。小川がある場所をホンジョといい、ロシア人の支配するところである。

 大木を海中に埋め、その上に縦横に木を組むものが三つある。その間に橋を架けてあり、橋の上には石炭を容れる箱がある。命じて着岸し、傳九朗とともに行く。

 ロシア人が陸続と出てくる。二百人を下回らない。しばしばお辞儀をする者がいる。建物を数えると二十数戸あり、その中に巨大なものが四戸ある。間口およそ十間。奥行二十間ほどある。

 去ろうとすると、一人の現地人が東方の一箇所を指す。すなわち首長のいる住居である。あえてゆっくりと歩いて進もうとしない。

 一人の婦人が欄干をあげて階段を降り、傳九朗の手を握って住居へ引き入れる。わたしもこれに従う。しばらくすると、酒を出して食事の席を設け、鶏卵とキュウリの類を薦める。すべてこの地で獲れたものだという。人が来るのを待ってわれわれの世話をする。

 一時を過ごして去るも別れを惜しむので、田畑に見に行くとダイコンやカブの類がよく実っている。現地人の田畑では麦が黄金の穂を垂れている。これを問えば、またこの地に実るものだという。わたしは、深く感じるところがある。

 けだし、この土地の開拓の要は農業にあり、漁業ではない。言うまでもなく、漁業は時と場合によっては漁獲量に窮することがあるが、農業はそれがない。

 国家がもし数千金をなげうち、わたしにロモヴォ河畔の肥沃な土壌を開拓させれば、五年も経たずにその成果を得られよう。奥地の現地人はわたしに敬意を抱く。恨むべきは、よこしまな人民が苦役を科していることである。

 俸給を与えて、鰥寡孤独かんかこどくにして疾病のある者を養うならば、われわれに従わない者は稀であろう。わたしにはこの志があるものの、政府は未だにこれを許可しないことが遺憾である。

 この地を去るにあたり、その首長および属官らが見送りに海浜まで来る。引き潮のために舟が砂浜にあるので雑夫を呼んで舟を動かし、雑夫にタバコを与えて去る。

 ここから山々がますます険しく、樹々がますます鬱蒼として、山のふもとには巌岩が多くなる。七里ほど進み、切り立った絶壁を仰ぎ見ると恐ろしくなる。瀑布があり、ここに注いでいる。

 人跡を絶つこと一里ほどにして、最も険峻な場所をチカヒルという。

 日が暮れて波が立つ。舵を打ち鳴らして疾走する。湾内に砂浜を見つける。未だアタゲに至らないが、ここに泊まる。

 七月十七日(9月6日)、南風が吹き、波が立つ。

 まっすぐに南に半里ほど進み、アタゲに至る。河が一筋あるが、オッチシに比べればやや小さい。河の傍らに現地人の住居が五戸あるが、全員がロモヴォで漁をしているため一人もいない。

 顧みて通過すること一里ほど。地勢は南南東に一転する。山のふもとになおも巌岩が多い。遥か遠くにキトヲシ山を遠望すると、高く険しくそびえ立っており、まるで剣のような様相を呈している。右を顧みると地勢はやや平らで峰がそびえ立っている。山脈が曲がりくねり、キトヲシ山と接している。樹々があでやかで美しく、まるで化粧を施したような様相を呈している。五里ほどにわたり小山が連なっている。

 東から西に向かっておよそ五、六町ほどの湾があり、舟を停泊できる。山の隅に巨大な巌岩があり、高さ十余丈ほど。横幅二、三町ほど。その下は人跡を絶つ。風潮ごとにアザラシが群がり、その上に寝そべる。この場所をモシヤという。山のふもとからアタゲを遠望すると、北北西に位置している。

 やや南に進むと、また大岩があり、海中にそびえ立っている。ここを通過して一里ほど進み、キトヲシに至る。海中に岩礁が多く、岩礁の間に水草が繁茂している。小川があり、その傍らにアイヌの住居が一戸あるが、静かで人がいない。

 仰ぎ見ると山勢が険峻でこの島で最も高い。山頂に小さな木が生えている。山のふもとにはカシが多い。徐々に低くなり海に至る。青々としているが、ほかとは様相を異にする。南へ進みここを顧みると、高さ数百尺の絶壁があり、登れそうもない。霞がたなびいて寂しく空虚である。かつて、ロシア人がこの絶壁を登り金を探すも、見つけられずという。

 三里ほど進むと、ホロコタンに至る。その地の北岸に巨大な巌岩があり、幾重にもかさなっている。堆積する岩々が崩落しそうである。南岸は曲がっており、半里ほど進むと小山が突出している。岸は曲がって湾をなしており、湾内には舟を停泊できる。樺太西岸の要衝の地である。

 その昔、政府はここから以北を割いてロシアに与えようとする。ロシアは全島を欲して相容れず。ついには雑居の条約を結ぶ。しかし、この島はわれわれに属する。西洋人も皆それを知る。これは、有志の士が政府に不満を持つ所以である。

 七月十八日(9月7日)、出帆しようとしたが、現地人の住居を訪れる。現地人の多くはニヴフのような身なりをしているが、話す言葉はアイヌ語である。けだし、この地のアイヌでニヴフを娶る者は、このようになるという。

 ウスオロ出身の婦人が一人いる。わたしは彼女に、「旧志には、あなたの同族がオッチシ以北にも多いとあった。この踏査でオッチシにも行ったが、あなたの同族と同じような身なりをしている者を見なかったが、本当にあなたの同族の村落はここで終わりなのか」と問う。

 婦人は、「ここから北のタゲに住んでいる者は、わたしの同族のうちスメレンクルに嫁いだ者たちで、わたしの同族の村落なんだよ」と答える。

 また、「最近、港に異種族の船が来たことはないか」と問う。

 婦人は、「ロシア人はこのあたりを長らく欲しているからね。石炭がないから来ないだけだよ」と答える。

 また、「どんな魚が獲れる」と問う。

 婦人は、「ニシンとカレイだね。河にはマスもたくさんいるよ。日本人はここで漁業をしたほうがいいんじゃないかね」と答える。

 西風が吹き、波がますます高くなる。このため、ここは良港ではないことが分かる。岬に沿って通過する。巌岩が連なり、甚だ雄壮である。岬の南方に湾がある。

 二里ほど進むと、また小さな岬の先に湾がある。水際に昆布や海苔の類が多い。

 ちょうどそのとき、アイヌらが疲労を訴え、波勢も未だ止まないために、ここに泊まる。

 七月十九日(9月8日)、北風に乗って出帆する。

 申の刻、シルトタンナイに至る。

 三年前、わたしはこの島をめぐり歩き、この地に至る。当時も全島を踏査しようと試みたが果たせずに終わる。今におよんで初めてその志を達する。時を要したことを残念に思うのみである。

 けだし、この島は南北二百七、八十里ほどであるが、東西の最も広い場所はわずかに三十里ほどである。海岸線は七百里内外であろう。陸行したとしても数箇月で回れるだろう。しかしながら、このように難航している理由は、わたしの怠惰の所為ではない。他人の掣肘があればどうすることもできないのである。

 命じて舟を揚げ、ロシア人の住居を訪れるとジャチコフの妻を見る。昔日に会う者である。ここに住んで五年という。

 日暮れにナヤンに至る。ホロコタンを隔てること、およそ十五、六里ほど。その間に峰々や山々が折り重なる風景は北方と大差ない。おおむね樹木が青々と生い茂っている。岸の下には湾が多い。

 ただ、ホロコタンの近傍三、四里は、山頂に大樹はなく、ただ小さな樹々と雑草が生えているのみである。小沢が五、六つあり、小川がここに流れ込んでいる。すべて歩いて渡れる。

 詩を賦して、

文章に用いる所無し

志業また全うし難し

漸く故園の侶を見るに

栖栖として幾年を送る

と吟ずる。

 七月二十日(9月9日)、南風が吹き、波が高い。

 散歩して現地人の住居を訪れる。その昔、ジャチコフが略奪したアイヌ三家族のうち、一つはウスオロに帰る。一つはノダサンにいる。この地に残るのは一家族のみで、ホロコタンに帰ろうとしている。

 コントという現地人がおり、「われわれはロシアの責任を問うているんじゃない。漁場の労働に堪えられなかっただけだ。だからロシア人に頼んでここに来てもらった。ロシア人はわれわれを働かそうとはしない。ただ子供に文字を教えて、たまに鞭打つぐらいだ。だから文字を知っている者が多い」と言う。

 七月二十一日(9月10日)、風波が昨日と同じように吹き荒れている。

 コントの住居にオオカミの毛皮があり、甚だ大きい。わたしが単衣ひとえを着ているのを見て、交換してほしいと言うが認めない。傳九朗は襦袢をもって毛皮と交換しようとしたが、コントが認めない。

 けだし、ポゴビ以来のニヴフの村落であり、衣服も器物もほかより多い。ロシア人がこの地におり、かつタタール人がしばしば往来するため、南方の諸地域と比べるとその事情は甚だ異なり、働かせるのはやや難しい。

 各地との交易の状況を問うと、コントは、「満州製の木綿袋とロシア製の毛織の敷物はものすごくいいものだが、貂皮四枚に過ぎない。その鳥銃のいいものでも同じだ」と答える。

 七月二十二日(9月11日)、風波がようやく収まるが、未だ出帆しない。

 この夜、現地人の住居を訪れると、ロシア人の雑夫を見る。

 わたしは、「どうしてここに来たんだ」と問う。

 コントは、「ロシア人が誰かに河で漁をさせたんだ」と答えると、カブを出して食事の席を設けて、「ロシア人がくれた物だ。そいつがロシア人から種をもらったんだと。土を耕してこれを植えたら、土が良かったのか、よく実ったらしい。そいつはこれをすごく好んで食べてたよ。ああそれとな、もしシヒシャモが来たら、われわれの中から従いたいと言う者に仕事をさせて、そうでない者は放っておいてくれ。農業も漁業も思い通りにいくなら、願ってもないことだからな」と言う。

 七月二十三日(9月12日)、曇って南風が吹く。

 明け方に出帆する。岬を三つ通過してウスオロに至る。この地の山脈は海を隔てることやや遠い。一望すると樹木が青々と生い茂っている。

 正午、イシトリを通過する。風波が甚だ早い。ホロケシに至ると、さらに甚だしくなる。ウスオロに至る。白波が岸を盛んに打ちつけ、大きな音を立てる。まっすぐウシトマナイを目指す。そこに至ると風が静まり、岸の下には波もなく、この地が良港であることを知る。

 しばらくして、越前国大野の武士二人が来訪したので出迎える。ほぼ四個月ぶりに日本人を見る。この踏査では魚を常食とし、日に一度だけ粥を啜る。最初に持ち込んだ十包の食料は、ここに至って二斗を残すのみとなり、ほとんど乞食のように地べたに跪いて物乞いをするような状態となる。状況は甚だ苦しい。

 この地の戍卒はもともと歩兵一人だが、今に至って三人となり、越前国大野の戍卒もまた三人おり、漁夫は三十人を超える。婦女はもともと四人いる。そのうち二人は子を産むも死す。残る二人は帰る。

 この夜、定役の水谷何某、同心の杉山何某に会い、その晩餐にあずかる。初めて改元されたことを知る。二人ともわたしを厚遇して逗留させ、アイヌらもまた全員が休もうと乞い、これに従う。

 この日、詩を賦してその心を、

遍ずるに先王の略を行くも

曽て上国の人無し

撫存内外を分かつ

時事正に神を傷ましめんとす

と吟ずる。

 また詩を賦して見るところを、

海深く魚鼈富み

土肥えて草木稠し

良港天の険要にして

鎖鑰咽喉を守る

越国の土井氏

あえて時風を追わず

鋭意この土を辟き

規画群侯に先んづ

力小にして志 未だ報ひざるに

且つ後来の謀をなす


国家方に遠きを経す

誰かうこれ優悠と

願わくは榛莽の壌を墾し

横縦に田畴を作らん

いやしくも能く志気を皷せば

耒耜乃ち刀矛とならん

地形と物象

信然として蜻蜒洲あきつしまにあり

千載にして名義有るもの

これ魯韃の儔ならず

と吟ずる。

 七月二十七日(9月16日)、北風に乗って出帆する。見送る現地人が甚だ多い。

 ここ数日は風雨があるが、ここに至って晴れる。四方を見渡せば晴天だが、未だ波立っている。

 次第に進みトッソを通過する。風が強くなり、にわかに舟を陸に揚げ、ついには泊まる。

 七月二十八日(9月17日)、午後、ライチシカに至る。当地にある八幡社に参拝すべく、河口の丘の頂上に登る。四方に遮るものはなく、眺望がすばらしい。元函館奉行の堀利煕の建てるところである。

 足軽の何某と越後国大野の臣下に会う。まさに建物を建てようとしており、「ロシアに占拠されては敵わんからな。だからこれを造って、その意思を示すんだ」と言う。しかし、あわただしくこれを建てて、屋根に草を葺くのみとする。これをロシアのそれと比べると、まことに死ぬほど恥ずかしい限りである。

 七月二十九日(9月18日)、足軽の何某と一緒に出帆する。

 ヒグマを見つけて狙撃するも獲れず。まっすぐ進むと、今度はヒグマの子を見つける。歩みを進めて海に入る。われわれ三人とアイヌ一人が槍を持ち、これに縄をかけ、ついにこれを獲る。けだし、この地にはヒグマが多く、それは樺太全島で一番だという。

 日暮れにルウクシナイに至る。河畔に天幕を結び、横になってタバコを喫む。

 ケシユリカを招聘し、「わたしは今旨いもんを食ったが、旨く感じない。美しいものを見ても楽しく感じん。ただ爺さんと一族の者に会うだけだ。死んじまうのかな」と伝える。

 ケシユリカが、「そうですか。本当にそうなら、あなたの奥方に憑きものが憑いているのかもしれませんね」と答える。甚だしく物寂しい。

 七月三十日(9月19日)、曇って風波がある。陸行してクシュンナイに至る。六人の役人と十二人の漁夫がいる。酒はあるが甚だ少なく、タバコがついに尽きる。

 ロシアの状況を問うと、「タバコがたくさんある。米も決して少なくない。ニコラエフスキーに貯蔵されていて、十数万石はある。すべて日本が出したものだ。今は百数十人の捕虜が来ていると風の噂に聞くが、さらに五、六十人が来ているらしい。来年には六百人をトンナイとポロアントマリに移すらしい。だが今、島内には戍卒がわれわれを含めても三十人にも満たない。漁師も百人くらいだ。しかし外人は今言ったとおりだから、心配に堪えんのだ」と答える。

 八月一日(9月20日)、風が吹き曇る。クシュンナイに逗留する。甚だしく物寂しい。

 現地人に命じて舟を蔵に保管させる。

 けだし、シラヌシからトンナイを通過してここに至るまで六十里ほどだろう。わたしはかつてこの島をめぐり歩いたとき、つぶさに記録を残した。シラヌシからポロアントマリに至るまで三十五里、ポロアントマリからチベシャニを通過してシレトコに至るまで二十六里、チベシャニとシレトコとは十七里を隔て、シレトコからアイロフを通過しトンナイチャに至るまで三十里、アイロフとシレトコとは二十里を隔てる。

 わたしは未だその地に足を踏み入れず。しかしながら、かつて舟でめぐり山海の大略を記す。

 傳九朗もまた、すみやかに帰ろうと望むも、進めず。

 八月二日(9月21日)、河を遡ること数里ほど。両岸に草が繁茂し、土壌は肥沃で耕すべきである。

 草を木の根に束ねてあるものを見る。数十間にわたり河畔に立ててある。けだし、ロシア人が土地を測量して地図を作ろうとしたんだろう。

 舟上で無駄話をする。この日は晴天だが、わたしは鬱々として心が晴れない。

 八月三日(9月22日)、ワアレに至る。

 前日、ウスオロに帰還し、ウエキチらがかわるがわる、「ある人がほかの人の言葉を教えて、『シララオロの巫女が神の教えを伝えて、舟が北岸を通過すると沈没し、二人の王族と四人のわが同族が溺れ死んだ。わずかに一人だけが巌岩にたどり着いたと言った。わたしの一族はこれを聞いて全員が哀しんだ』と言った」と言う。

 ここで初めて、われわれを見る者らが大いに驚く。しばらくすると役人らが合流し、それぞれの無事を祝す。組頭の平山謙二郎の手紙に、「竹垣成蹊たけがきせいけいが昨年八月に亡くなった。実に惜しい人物を失ったものだ」とある。

 三年前、わたしは江戸で竹垣氏のところで居候する。当時、竹垣氏は講武所に出仕する。ひととなりは正義感が強く、小普請こぶしんの羽倉何某らとともに時事を談義する。未だかつて痛憤も大息もしたことがなく、わたしが北方へ行くや、手紙を平山氏に送り、懇々と説いてわたしを託す。わたしはこの踏査を果たすために平山氏に頼むといえども、実のところ竹垣氏の恩恵なのである。しかし今その訃報に接し、今昔の感に堪えず。

 また、調役の荒井直盈あらいなおみつの手紙には、「最近のわたしは取り立てて功績もなく、恥じ入るばかりだ。前書ではモロランを鳳凰池と称している。わが同族の愚かさを疎ましく思うばかりだ。もし、差し迫るこの地に関する意見がわが同族から出れば、わたしは衰えているとはいえ、座視には堪えられん。貴殿が成し遂げるというなら全力で挑め。遂げられないならすぐに帰って来い。奇策を講ずるしかないんだ」とある。

 荒井直盈は非常にさっぱりした性格で才知があり、まさに奇傑の士である。かつて調役となりイシカリに赴任する。その功績は最も多い。今はモロランにいる。

 八月十四日(10月3日)、わたしは帰還することに心を決める。けだし、水上重太夫らの異議があり、奥地の踏査ができないためである。

 八月十五日(10月4日)、傳九朗に別れを告げ、杯をあげる。

 八月十六日(10月5日)、早々にシララオロを出発し、正午にマトマナイを通過し、日暮れにオタシャムに至る。

 八月十七日(10月6日)、辰の上刻にアイを通過し、午の上刻にシュシュウシナイに至る。ケシユリカらに酒を飲ませ、一日逗留して去る。

 八月二十三日(10月12日)、ポロアントマリに至る。古橋忠に面会して志を言うが、また何も言わず。そして古橋氏のところで居候し、来春を待つ。

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