中
「朔臣は、おまえと結婚するのが嫌で、そんなことを言ったわけではないはずだよ」
月臣はそう慰めてくれるけれど、そんなの分からないのに、と陽雨は下唇を噛んだ。陽雨が朔臣の考えを理解できたことなんて、今まで一度もなかった。ただ朔臣の言動に振り回されるばかりだった。
月臣は咎めるように陽雨の唇に指を滑らせた。驚いて顔を上げた陽雨に柔らかく目を細めてみせて、雅やかな和菓子を摘まむと、そのまま陽雨の口に放り込む。舌の上に上品な白餡の甘さが広がった。
「先ほどの、当主代行就任の話だけれど。――受けるよ」
唐突な話題転換に陽雨は目を瞬いた。
「私が本家に出入りしているうちは、陽雨の意に反することを軽々に口にする輩も減るだろう。陽雨が学生の間は学業に専念してもらいたいからね」
「いいの……? 私はとても助かるけれど……」
「……おまえは、私を裁いてはくれないのだろう?」
月臣はふっと瞼を伏せた。
「暇を持て余した人間はろくでもないことを考え出すものだ。当主代行としてある程度忙しくしておいたほうが、変な気を起こさずに済んで、おまえの安全に繋がるかもしれない」
伯父様、と陽雨は言った。月臣は微笑んだだけだった。笑みを深めて陽雨の手を取って、指を絡める形に変える。もう一方の手が腰に回された。
「……そういう危機感を持たせることも、必要だということだよ。私のところにひとりでおまえを来させるなんて、あれは随分腑抜けているようだ」
月臣がくつくつと喉の奥で笑う。どういう意味かと尋ねかけたとき、足音がして襖が乱暴に開かれた。
びっくりして見れば、不機嫌そうに眉をひそめた朔臣がずかずかと入ってくる。月臣の膝の上に収まっている陽雨にさらに眉間に深い皺を刻むと、朔臣はあっという間に陽雨を月臣から奪い去って、自分の父親を忌々しげに睨みつけた。
「陽雨に触るな」
「私に触らせたくないならおまえが片時も離さずに守っていることだ。陽雨がひとりきりで寂しがっているのに抱きしめないという選択肢は私にはないよ」
飄々と言って月臣は茶碗を傾けた。なんだか揶揄うような、煽るような言い方だった。朔臣は放つ雰囲気をさらに剣呑に尖らせて、視界を覆うように陽雨を胸に押しつけた。
「私は陽雨を悲しませる男に陽雨をくれてやるつもりはない。おまえが婚約者という立場で陽雨を傷つけた分だけ、私は親代わりの立場で陽雨を慰めて甘やかそう。陽雨の好意が自分に向いているからと悠長に胡座をかいているうちに、私だけが陽雨の信頼に足る男だと刷り込んでしまうかもしれないな。一丁前に独占欲を持つのは結構だが、先に陽雨にかける言葉があるんじゃないのか?」
視界が塞がれている陽雨には月臣や朔臣がどんな顔をしているのかは分からなかった。朔臣は言い返すことはせず、「行くぞ」と一方的に言うと、陽雨を引きずるようにして月臣の部屋から連れ出してしまう。取りつく島もなく襖が閉められようとするので、陽雨はなんとか首だけで背後を振り向いた。
襖の合間で、月臣は柔らかく微笑んでいた。片手をゆるりと振って「誕生日おめでとう、陽雨」と送り出してくれる。――誕生日プレゼントだ、と言われているようだった。
「朔っ……朔臣! 待って……」
朔臣は陽雨の手を掴んだままどんどん速足で歩いていってしまう。ただでさえコンパスの長さが違うのに和装の歩幅では到底ついて行けず、陽雨はあえなく足を縺れさせてつんのめった。短く悲鳴を上げた陽雨にようやく足を止めて、朔臣が焦った顔で抱き止める。
「……悪い。大丈夫か?」
「ん……でも、手、痛い。そんなに引っ張らなくても自分で歩ける」
「悪かった。痛めてないか」
「いいよ、別に。大丈夫。朔臣がそんなに急ぐなんて珍しいね。何かあったの?」
淡く微笑みながら朔臣の手から身を離す。執務室に戻ろ、と呟いて自分の歩調で歩き出した陽雨の手首を、朔臣が掴んだ。
「陽雨、」
「……なに?」
ゆっくり振り向いた先で、朔臣が立ち尽くしていた。物言いたげな視線と顔色で、じっと陽雨を見ている。陽雨は少しだけ眉を曇らせてから、再び頬を持ち上げて、あくまで微笑んだ。
「――分かってる。何も言わなくていいよ。分かってるから」
何を分かっているのか、陽雨は自分でもよく分かっていなかった。ただ物分かりのいい顔をした。それでもずっと触れられているとその虚勢が揺らいでしまいそうで、手首を掴んだままの朔臣の手をそっと外した。
「定例本会の議事として上げられたら、結婚なんてできないもんね」
公然と反対する声が上がっている中で入籍を強行すれば、分家から反発が起こることは想像に難くない。仕方がないことなのだ。陽雨が龍神と契りを交わした正式な当主となったことで、分家にとって『陽雨の結婚相手』の価値は鰻登りに高騰しているのだろう。朔臣が独占している立場に成り替わろうとする勢力が現れるのは仕方がないことだ。
分かってるよ、ともう一度繰り返す。我儘を言ったりしない。朔臣が定例本会の議事に口を挟まないのはいつものことだ。自分こそが当主の配偶者となる男だと主張してほしいだなんて言わない。朔臣の優しさにつけ込んで同情を引いて言質を取った陽雨に、そんなことが言えるわけがない。
「陽雨」
朔臣が言った。手のひらが差し伸べられる。陽雨は噴き出すように笑ってみせた。下手くそな笑い方だという自覚はあった。
「自分で歩けるってば」
「……嫌か? もう痛いことはしない」
そんなことを気にしているわけではなかった。むしろ、陽雨の中の恋する乙女の部分は、朔臣から手を繋いでくれようとしているのだから全力で乗っかってしまえと盛んに誘惑してくる。執務室でも学校の送り迎えでもない、いつ人が通りかかるか分からないところで朔臣が陽雨に触れることなんて、滅多にないのだから。
誘惑に釣られて手を持ち上げかける。すかさず朔臣に掬われて、指先が握り込まれた。じわりと頬が熱を持った。
「嫌なら振り払ってくれ」
嫌なら振り払う。――嫌でないなら?
「……嫌じゃない、と受け取るぞ」
手を取られたまま、身じろぎひとつせずにいる陽雨に、そう声が降ってくる。陽雨はごく小さく顎を上下に揺らした。
「執務室に戻る前に、付き合ってほしいところがある。いいか?」
陽雨がまたしても小さく頷いたのを見て取って、朔臣が陽雨の手を大きな手のひらに握り込んでゆっくり歩き出した。手を引かれるまま朔臣についていく。廊下を行き交う家人や使用人がすれ違うたびに驚いたような視線を向けてくる。
「ご当主様、朔臣どの、いいところに。先ほどの件で少々――」
「申し訳ないがこれから陽雨と重要な用事があるのであとにしていただきたい」
途中で幹部衆に声をかけられたが、陽雨が足を止める隙もなく朔臣が追い払ってしまった。――陽雨とのことのほうが『重要な用事』なのだと、条件反射で嬉しくなる。
どこに行くのだろうと思っていたら、朔臣は陽雨を中庭に連れ出した。飛び石の園路を進んで、広い日本庭園の奥へと入っていく。度々振り向いて和装の陽雨が難儀する場所を甲斐甲斐しく渡らせ、近くで作業をしていた庭師に少し外すように命じて、太鼓橋の架けられた池の畔の東屋まで陽雨をエスコートする。
夕暮れに近づく涼やかな風が吹き抜け、蒼穹に雲が流れている。太陽が一瞬だけ遮られて、東屋から伸びる影が薄くなる。何年ぶりかに訪れた東屋は宝形造の屋根まできちんと手入れされていて、陽雨の記憶にある通りのままに佇んでいた。
――――陽雨を、朔兄のおよめさんにしてくれる?
――――大きくなったら、陽雨は僕の花嫁さんになるんだよ。
遠い日の残響が聞こえる。あの日と同様に、池には睡蓮の花が浮かんでいる。朔臣は気づいているだろうか。
「寒くないか」
微かに湿った風が陽雨の髪をなびかせる様に目を留めて、朔臣がジャケットを脱いで肩にかけてくれる。陽雨は前を掻き合わせるようにして目を伏せた。布地に残るぬくもりに、特別扱いだと自惚れてしまいそうになる。それとも陽雨が風邪を引いて寝込めば朔臣のせいにされるから、過保護なほど気遣われているだけだろうか。
「陽雨」
朔臣の声が降ってくる。低く、そこだけ微かに甘く響く、声。陽雨が大好きだった、陽雨を呼ぶ声。
「――ここでした約束を、覚えているか」
ぎゅっと胸が締めつけられる。忘れるはずがない。忘れられるはずがない。
うつむいた視界に手が滑り込んできて、顔にかかる髪を掻き分けて、陽雨の頬に触れる。自然と視線を上げさせられて、朔臣と目が合う。
頬を染め上げ、不安と隠しきれない微かな期待を綯い交ぜにして目を潤ませる陽雨に、朔臣はふっと微笑した。困ったように眉を下げて、陽雨の顔を覗き込む。
「俺の花嫁さんには、もう、なってくれないか?」
陽雨は喉を詰まらせた。
「……だって、朔臣、決まったことに従う、って」
「陽雨も、他の婚約者候補なんか要らないと、言わなかった」
分家がそうしたほうがいいと言うことを、本家当主が頭ごなしに突っぱねることなんてできない。特に本家当主の配偶者の選定は水無瀬の今後の隆盛にも影響を及ぼすもので、分家がこぞって口を出したがるのも当然のことだ。厄介者の跡取り娘を朔臣に押しつけていたこれまでとは時勢が違うのだから。
「……婚約の継続を、俺から願うわけにはいかないだろう。霧生は、本当なら、とっくに水無瀬を放逐されている家だ」
「そんなこと」
するはずがないと断じようとしたが、朔臣は目だけで陽雨を制した。
「水無瀬に災厄をもたらした家だ。さらに言えば、龍神が荒魂に堕ちる元凶となったうえに、月臣は当主代行でありながらその事実を本家にさえ隠していた。……俺も、気づいていながら黙っていた。加担したようなものだ」
「……伯父様も、同じようなことをおっしゃってた。私に断罪してほしいようなこと。朔臣も、そう思うの? 龍神の件は、伯父様のせいだって」
「俺の目が月臣と龍神の間に一種の契りのような連環を見るようになったのは、おまえが産まれた直後のことだった。龍神が暴走し始めたとき、もっと言えば龍神の半身が封じられてから明陽様がおまえを出産するまで、龍の宝珠を通じて龍神を宥める役目を務めていたのも月臣だった。おまえは気づいていなかったかもしれないが、小学校に上がって数年経ったころには、龍神は既におまえが異性と話しているだけで封印から漏れ出すほど力を増幅させて、おまえの周囲の人間にまで影響が出始めるようになっていた。――同時に、月臣の中にも、龍神とよく似た霊力が見えた。これでもまだ月臣と龍神の件は無関係だと思うか?」
関係がないとは思わない。陽雨は首を横に振った。月臣の制止で動きを止めた龍神を、陽雨ははっきりと目撃している。きっと深く傷つきながら吐露された、月臣の懺悔のような告白を、聞かなかったことにはできない。それは月臣の想いを蔑ろにする行為だ。
「――でも、私は、伯父様がご自分のせいだと責めているほどには、伯父様だけのせいだとも思ってない」
陽雨は静かに、けれどもきっぱりと告げた。
「朔臣も見てたでしょう? 明陽様の霊魂と私が一緒にいるところ」
朔臣が訝るような目をしながら頷いた。陽雨は苦々しく目元を歪めた。
「……私、明陽様と私が同時に生きてなくて、本当によかったと思う。私ならほとんど初対面の相手と『双魚』なんか舞おうと思わないし、一方的に決めておいてふたりで左右対称に舞わなきゃいけない神楽に勝手に変な振りを入れたりもしない。自分の我儘で巻き添えにした人たちのことをさも不可抗力だったみたいに言うところとか、私の前で近江老まで憐れんで助けようとするところとか、伯父様をあんな目に遭わせた龍神を簡単に許すところとか――思い出すだけで、凄く腹が立つの」
勝手なことばかり、と普段の陽雨なら反感を抱いていただろう。そもそも陽雨はこれまで明陽に対して明るい感情など持ち合わせてはいなかった。実際に顔を合わせた今、彼女の言動を思い返すたび、その心証はいや増している。陽雨はあの女が自分の実母だと考えるだけではっきり気に障って仕方がない。月臣の想い人でなければ皆揃ってあんな女のどこがよかったのと言ってやりたいほどだった。
「……でもね、不思議と、あのときは明陽様にまったく腹が立たなかったの。明陽様のやることなすこと、ぜんぶ自然に受け入れてた。――龍の宝珠を通じて、龍神の明陽様を想う気持ちが龍神の力と一緒に私に流れ込んできたときから、私の自我が丸ごと書き換えられたみたいに、明陽様に反抗心や嫌悪感みたいなものを一切感じなくなってた。そのことに、何の疑問も抱かなかった」
まるで、我儘すら愛おしく思うような絶対的な好意を植えつけられたように。
朔臣が目を瞬いた。陽雨の言いたいことは伝わっただろうか。陽雨は駄目押しのように頷いてみせた。
卵が先か鶏が先か。龍の宝珠を通じて繋がり合っていた両者のどちらがどちらに影響を与えたのか、影響を受けたのか、それが常に一方通行で不可逆的な関係だといったい誰が言えるだろうか。さらに言えば、半身を封じられていたとはいえ人間より遥かに強大な力を持つ龍神が、たったひとりの人間から一方的に影響を受け続けるなんていうことが、本当にありえるだろうか。人間と神霊の力関係を考えるなら、特に互いに対等な立場を誓う契りも交わしていないような間柄なら、その逆のほうがよほど考えやすい可能性だというのに。
「それに、たとえ本当に伯父様が龍神の横恋慕の火付け役になったような側面があったんだとしても、やっぱり伯父様のせいにはできないよ。……好きな人に自分だけを見てほしいと思うのは当たり前のことだもん。仕方のなかったことだと思う」
陽雨が口先では朔臣に愛人や恋人の存在を許容しながらも、いざ朔臣が隣に女性を連れていたら傷つかずにはいられないように、無理やり抑え込んで見ないふりをしても、想い人の唯一でありたいと思ってしまう心を消すことなんてできない。陽雨には自ら身を引きながらも明陽を求めてやまない月臣の葛藤が――認めるのは癪だが、龍神のそれも――分かるような気がした。