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日向雨の巫女  作者: 稲石いろ
第一章 望まれない跡取り娘
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第二話

「どうして……こんな、一瞬で……――わたしの友達の結界を、よくも!」


 呆然としていたかと思いきや、すぐさま激昂した少女が妖気の塊をいくつもぶつけてくる。真昼間の太陽を浴びて妖力も弱体化してくれれば好都合だったが、よほど深い怨念を溜め込んでいるらしい。みるみるうちに少女の体を蝕む妖が体積を増す。

 わたしの友達? 訝りながら陽雨は攻撃に術をぶつけて相殺する。あの結界は張られてから時間が経過しているもののようで、中に入ってみればあちこち劣化しているのが一目瞭然だったが、元々の術式構成は精巧だった。よほどの術師が霊力をつぎ込んで組み上げたものだと分かる。いったい誰があんな結界を展開したというのだろうか。


「泥棒猫ノくせニ! ワタシはあノ結界の中ニずっトいたカったノニ! ドウしてわタシばかリこンナ目ニ遭ワなきゃイケなイノ? ワタしノ邪魔ヲシないデ!」


 考え事を邪魔するように妖気とともに妖の叫声の混じった金切り声が飛んでくる。いい加減陽雨は苛々していた。


「……じゃあおとなしく日陰に引き籠ってなさいよ!」


 分家の術師を返してくれていたら陽雨がわざわざこんなところに来る必要もなかった。きっと今ごろは何事もなく授業を受けていて、進級早々出席日数に頭を悩ませることもなかった。

 少女の足元に式札を飛ばし、地面に手を当てた。霊力を流し込んで術を組み上げる。

 うっすら光を放つ透明な壁が、少女の四方を囲うようにそそり立った。体のほとんどを妖に呑まれた少女が身動きを封じられて聞くに堪えない叫び声を上げる。陽雨は今度は矢を取り出さずに、まっすぐ妖に向かって弓を引いた。


「だいたい私はあんたの男なんか知らないっての! むしろ私から見ればあんたのほうがよっぽど羨ましいくらい!」

「ワタシのドコガ羨マしいッテイウノ!」

「好きな人と一度でも両想いになったんでしょう。何が不満なのよ! こっちはねえっ、好きな人と両想いになれる希望すらなくて、自分を嫌ってる婚約者に種付けされるだけの存在価値しかなくて、家の子作りマシンになるためだけに生かされてるんだから! 私のほうがよっぽどお先真っ暗でしょ! たかが男のひとりやふたりに捨てられたくらいでいつまでもめそめそしてんじゃない!」


 鏃のある矢の代わりに、霊力をありったけこめて、放つ。狙いを澄ました破魔の矢は鋭く空を切り、妖の目玉を射貫いた。浄化の結界の中で破魔の矢に貫かれれば怨念を溜め込んだ妖だってひとたまりもないだろう。耳障りな呻き声を上げながら消滅していく。

 妖の絶叫が止んで、少女の身を侵していた影が掻き消えたころ、結界の中には妖化の祓われた少女が座り込んでいた。長い髪をおさげにして、紺色のセーラー服を身にまとっている。甲高い声で叫んでいたのと同一人物とは思えないおとなしやかな雰囲気だった。

 少女の霊体はあちこち黒く変色しているように見える。“障り”と呼ばれる、穢れや不浄、呪いに蝕まれた状態だ。痛みや心身の不調をもたらすとともに、放置すればまた邪気を溜め込む要因にもなる。破魔の矢で妖を射たとはいえ、瘴気を浴び続けた霊体を完全に浄化するには至らなかったのだろう。

 周囲を彷徨う悪霊たちもこのまま野放しにしてしまうわけにはいかない。祓いと鎮魂の儀式が必要だろうかと考えながら歩み寄ると、少女は泣き出しそうな笑顔で陽雨を見上げた。


「……ありがとうございます。あの檻を……壊してくれて」

「檻?」


 少女は周囲を見回した。悪霊たちに胸を痛めたように表情を歪める。


「元々は、わたしを守るために張っていってくれた結界だったんです。わたしが悪霊に堕ちたせいで、いつの間にか集まってきた死霊まで怨念に染まって、守るどころか生きている人まで中に引きずり込んで閉じ込める檻になってしまった……わたしでは、もうどうしようもなかったの」

「……あの結界を張ったのは、さっき言っていた、友達?」


 こくりと頷く少女の、障りに変色した頬に、涙が一筋流れ落ちた。


「……分かって、いました。どれだけ待っていても、あのひとはもう、わたしに会いに来てはくれないこと。それでも、待ちたかったの。そんなわたしを守ると言って、彼女は強くて温かい力で包み込んでくれたんです」


 それが、時の経過の中で変容したということだろう。魔のものは強い力を好む。結界が浄化の力に満ちている間は破邪の役目を果たしていただろうが、ひとたび障りに触れれば悲しみに暮れる地縛霊を得た結界がどんどん邪気に染まっていくことは想像に難くない。障りは特に肉体を持たない霊魂だけの存在には伝染しやすい。


「二度と来ない彼を待ち続けることは、もうおしまいにします。……自ら死んでしまうなんて、わたし、本当にばかだったんです」


 そう語る少女の首には、縄を巻きつけたような跡があった。首吊り、だろうか。先ほどは八つ当たり混じりに『たかが男のひとりやふたりに捨てられたくらいで』なんて言ったけれど、陽雨と同年代で自ら命を絶った少女の絶望がどれほどのものだったのか、陽雨に計り知れるものではない。陽雨とて同年代の一般的な少女たちと比べればお世辞にも幸福とは言いがたい人生を歩んできたが、それでも自ら死のうとしたことはなかった。

 哀しげに、それでも穏やかに達観した微笑みを浮かべる少女に、先ほどまでの憎悪や悲嘆は見えなかった。恋人に裏切られた傷心を抱えてそれでも微笑むことのできる芯の強さが、陽雨には少しだけ眩しく見えた。――陽雨は自分の恋心に折り合いをつけることなんて一生できそうになかったから。


「貴女のところまで私を案内してくれた、小さな男の子がいたの。あの子、私に貴女を助けてって言いたかったんだと思う」

「……霊になってから、知り合った子だったんです。もう、ここに来ては駄目と言ったのに」


 少女はまるで母親のような大人びた顔で呟いて、おもむろに立ち上がった。祈るように指を組み合わせて瞼を閉じる。


「わたしはどうなっても構いませんから、ここにいる皆さんを……どうか救ってください」

「分かってる。悪霊に堕ちた霊魂を掬い上げるのも私たちみたいな人間の務めだから。……貴女のことも、またあの男の子と一緒にいられるようにするから」


 陽雨はしっかり頷いてみせてから、校庭の端でこちらを窺っている月臣と朔臣のもとへと走り寄った。見ればちょうど約束の三十分だった。


「ごめんなさい、伯父様。時間のことすっかり忘れてた。手出ししないで待っていてくださってありがとう」

「結界自体は解かれていたからね。それより、陽雨」


 月臣が陽雨の手を取り上げる。見れば腕に軽い切り傷がついていて、その周辺が黒く変色している。障りだ。気づかないうちに妖気の攻撃を掠めたらしい。障りの部分から火傷のような痛みがじくじくと疼いていた。


「無事に戻ってきなさいと言っただろう? 今浄化を……」

「大丈夫。これくらいなら護符で十分」


 懐から取り出した護符を傷口の上から直に貼りつけると、障りがかっと熱を持って突き刺すような痛みが走る。邪の性質を帯びた障りに対して、対極にある清浄の霊力をぶつけるに等しい陽雨の乱暴な浄め方に、月臣は唖然としてから苦く顔を曇らせた。

 肉体が障りに侵されたときは普通、手水舎や清らかな湧き水を浴びるか、術師による禊の儀式で穢れを祓うか、主にふたつの手段のどちらかを採る。護符は浄化の術の力をこめたものなので、陽雨は擦り傷程度の障りには手軽な護符で代替することも多いが、本家の血筋に連なる当主代行として傅かれて軽度の障りにもきちんと浄めを準備されてきたのだろう月臣には衝撃的だったかもしれない。以前は陽雨もなんとなく月臣の前ではこういう言動は控えていたはずだったが、ここ一年は顔を合わせてもすれ違いざまに挨拶やひと言ふた言の世間話程度しか交わしていなかったので、つい猫を被り損ねてしまった。


「朔臣、鈴」


 何か言いたげな月臣にばつの悪さを誤魔化すように肩をすくめ、陽雨は隣の朔臣に視線を向けた。朔臣は陽雨のやることなすことがいちいち気に召さないという男だが、役目には忠実なので、陽雨がそう言い出すことも予測していたらしく周到に準備していた神楽鈴を手渡してくる。陽雨が鎮魂の神楽を舞うときにいつも使うものだ。

 いつも通り神座と見立てた位置まで進み出て、深呼吸をひとつ。神楽鈴を掲げ、霊力をこめて、鋭く鳴らす。しゃん、と響いた音色が、波紋のように空気を伝わって広がった。神楽舞の始まりを告げる合図だ。

 龍神を祀る水無瀬の本家に産まれた女児は龍神の巫女としての側面を持つ。当主業に加えて巫女を兼任していたという先代当主の先例の通り、その娘である陽雨も物心つく前から巫女舞の稽古をつけられていた。手指の先から足の爪先まで、神経を研ぎ澄ませるようにして、舞の所作をなぞっていく。足運び、腕の角度、身のこなし、採物の扱い方、どれも意識せずとも体に染みついているけれど、今日は輪をかけて集中しなければならない。なまじ強い霊力が作り上げた結界だっただけあって、引きずり込まれた死霊は墓地ひとつ分ほどにも及ぶ。

 魔除けの効果を持つ清らかな鈴が、悪霊をひとりずつ祓っていく。鈴の音色を重ね、場に満たし、浄化の力をゆっくりと広げる。

 怨念に囚われている霊魂たちを鎮めきって最後に少女の前まで来たとき、陽雨は全身にうっすらと疲労感を覚えていた。


「ありがとうございます……」


 鈴の音の余韻が止むまで閉じていた目をそっと押し開け、少女は花が開くように破顔した。晴れた春の青空に相応しい表情だった。霊体を蝕む障りはすっかり浄められている。

 少女がふわりと腕を開いた先に、幼い男の子が寄り添った。陽雨を礼拝堂まで導いたあの幼子だ。少女と一緒にいられるのが嬉しいとばかりにぴったりくっついている。

 男の子の頭を優しく撫でてから、少女は礼拝堂にいたマリア像を彷彿とさせる慈愛溢れる眼差しをそのまま陽雨に向けた。陽雨を上から下まで眺めて、遠くを懐かしむように眦を細める。


「……来てくれたのが、あなたで、よかった」


 小さな声で呟く少女に、聞き返す間もなく、少女はすっと腕を上げて礼拝堂のほうを指差した。


「あなたのおうちの人たちは、礼拝堂にいます。結界を維持するのに少し力を貰ったけれど、皆さん無事です。眠っているだけ」


 力を持つ術師が意識を失うような無防備な状態にあったなら、とっくに悪霊や妖の餌食にされていてもおかしくはなかった。任務に失敗して本家の人間を動員させたという評判は今後の彼らの足を引っ張るかもしれないが、命あっての物種だ。無事なら幸いだろう。


「……それから、これを」


 少女はするりと自分のセーラー服からスカーフを解いた。そのまま差し出してくるので、陽雨は思わずきょとんとしてしまう。


「あなたに返しておくべきだと思って」


 文脈を掴めていない陽雨に構わずスカーフを受け取らせ、少女はすいと視線を陽雨の隣に巡らせた。釣られてそちらに目を向ける前に、陽雨の肩が引き寄せられた。

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