第二話
「――――止まれ」
ところが、陽雨に初めに届いたのは、龍神の爪ではなかった。
陽雨はおそるおそる瞼を開けて、視界に飛び込んできた光景に、自分の目を疑った。降りしきる雨の音が周囲から消える。それくらい見えたものに意識を奪われていた。
陽雨の前に立ちはだかるようにして、龍神に手のひらを向けている人影。龍神はぴたりと動きを止めている。
「…………伯父、様」
呆然と呟く陽雨を、人影――月臣は物憂げに見下ろして微笑んだ。すまない、とその唇がそっと動く。陽雨は座り込んだまま目を見開いていることしかできなかった。
月臣は陽雨の手にある刀を見て、背後で気絶している近江老を見て、事情を察したように息をついた。手を下ろして、龍神に背を向ける。まるで龍神が襲ってこないことを知っているかのように、警戒する様子もなく、落ち着いた仕草で陽雨に手を差し伸べた。
「人が入ってこられないように結界を少しだけ弄ったが、朔臣だけは上がってこられるようにしてある。今こちらに向かっているだろうから、歩けるなら下りていって、雨の当たらないところで禊と怪我の手当てを受けなさい。体を冷やしたままにするのはよくないよ」
「お、伯父様、どうして――」
「下がっておいで、陽雨。おまえをこんな目に遭わせた近江老のことは守るのに、荒ぶる龍神を前におまえ自身には守りの結界を張っておかないなんて、まったく仕方のない子だ」
「伯父様――」
月臣は陽雨の問いには答えるそぶりも見せなかった。困ったように眉を下げて微笑んだまま、腰を屈めて陽雨に手を伸ばす。障りが移ってしまう、と身を引きかけた、そのとき。
「――陽雨に触るな」
新たに、陽雨の前に人影が立ちはだかった。
その人影は霧が立ち昇るように姿を現した。陽雨の手にあったはずの刀の先を月臣に突きつけている。硬質な印象を与える凛々しい横顔。刈り上げられた黒髪。水無瀬の家紋入りの装束をまとった筋肉質な体つき。腰には漆黒の鞘を差している。
「……冬野」
十八年ぶりに顔を合わせる親友の名を、月臣は暗い表情で呼んだ。「月臣」と応じる冬野の声色も厳しく強張っている。
「久しいな、月臣。老けたか」
「……あれから、十八年も経ったからな」
「十八年。――それだけあれば、おれの娘を騙して味方だと刷り込むのも、わけはなかったか」
月臣が目を伏せて口を噤んだ。髪や着流しの袖から雫が滴っている。同じく水無瀬の家紋入りの装束から水を滴らせながら、冬野は険しく顔を歪めた。
「明陽が手に入らなかったから、今度は陽雨か? 生憎だがおれは陽雨を邪龍なぞにくれてやる気はない」
「……私は」
「よくも十八年ものうのうとおれの娘の側にい続けられたものだな。おまえが陽雨の親代わりだと? ――虫唾が走る。龍神の和魂を堕として、陽雨を親なしにした諸悪の根源は――」
――おまえだろう。
そう冬野が怒号とともに吐き捨てた言葉に、陽雨は愕然としていた。
月臣が、龍神の和魂を堕とした? そんなはずが――
零れ落ちそうなほど目を見開いて硬直している陽雨を、月臣の視線が掠めた。陰った表情。悲しげな瞳。引き結ばれた唇が反論を紡ぐ気配は、ない。
「……陽雨、おまえにとっては、信じ難いことだろうが……」
冬野は月臣に相対しながら、案じるように陽雨を窺った。苦しげに眉を引き絞って、陽雨から顔を背けると、守るように陽雨の前に立ち塞がる。それ以上何も言わなかったのは父としての娘への気遣いか、それとも混乱の境地にいる陽雨が理解できそうにもなかったからか。
刀の先が鋭く振り下ろされる。陽雨は咄嗟に「伯父様!」と叫んだ。月臣は術で斬撃を弾いて躱し、冬野からの憎々しげな視線に苦しそうに目を細めた。
「駄目!」
なおも刀を構えて攻撃を繰り出そうとしている冬野に、陽雨は飛びつくようにしがみついた。
「よ、陽雨! 危ないから離れて――」
「駄目、伯父様を攻撃しないで!」
冬野が動きを止めたのをいいことに、月臣を背に庇って立つ。冬野が傷ついたように双眸を揺らすのが分かった。
「陽雨、離れろ。その男は危険だ」
「――私は、水無瀬の当主代理の席を預かる者です。水無瀬の家人を守る責務があります」
「おまえもさっき見ただろう。その男は龍神と――」
「術師が彼岸の者の声を聴くとお思いですか」
姿かたちは冬野のように見えても、霊力が実体を作り上げていても、目の前の父親はとうの昔に死んだはずの人間の霊魂だ。死者と生者の境界は明確に区切られていなければならない。その境界を守るために、陽雨のような術師がいて、水無瀬のような術師の家門が存在するのだ。
冬野は陽雨に気圧されたように表情を歪めたが、すぐに憎しみのこもった目で月臣を睨んで、なおも濃い霊力を帯びた刀を構え直した。冬野からほのかに邪気が漏れ出しているのを感じる。いつ理性を失って襲いかかってきても対処できるよう警戒しながら、陽雨は「伯父様」と喉から声を絞り出した。震える声が雨音に掻き消されそうだった。
「私は悪霊の言葉なんか鵜呑みにしたりしない。……だから、伯父様の口から聞かせて。伯父様から聞いたことを、信じるから」
何を言われても、全力で月臣を信じるから。だから、あんなのは嘘だと言ってほしい。祈りをこめて、陽雨は月臣の返答を待った。
「……冬野が言っていることは、本当だ」
だから、月臣の声がそう告げたとき、心臓が凍りつくような心地がした。
思わず振り返った陽雨を、月臣の悲しげな視線が貫いた。いつしか月臣の背後には龍神が浮いていた。まるで月臣が龍神を従えているように見えて、否が応でも冬野の言葉に信憑性を増していた。
「明陽の懐妊に備えて、私が当主業を代わっていた時期があることは、陽雨にも教えただろう」
うん、と陽雨は小さく首肯する。龍神の依代である龍の宝珠に意識を繋げ、毎日のように退魔結界の調整を行うことは、妊娠のために冬野の霊力の影響を受け続ける明陽への龍神の独占欲を刺激しかねない。だから明陽から龍神の存在を遠ざけておくために月臣が当主代理を務めたのだと、そう聞いた。そうまでしたにも拘らず龍神は再び荒魂と化して水無瀬を襲ったのだと。
「龍神の和魂が突如として荒魂に堕ちたのは、――明陽の封印と龍神の理性によって抑えられていた龍神の執着心が、龍の宝珠を通じて、私の浅ましい欲望に同調したせいだった」
立ち尽くす陽雨をいっそ穏やかに見つめながら、月臣はその顔に痛ましいほどの儚い微苦笑を刷いていた。確かに笑みを浮かべているのに、ちょっとつつけばすぐに崩れ去ってしまいそうな、そんな脆い微笑。
どういうこと、という問いをきちんと声に載せられていたか、陽雨は自信がなかった。尋ねてしまったら――尋ねることそのものが、月臣を傷つけてしまいそうで。
「……ずっと、気づかない振りをしていた」
月臣は、ゆらゆらと揺れる陽炎のような、今にも消え去ってしまいそうな頼りない風情で口を開いた。障りさえなければ今すぐ月臣に抱きつけるのに。陽雨は歯痒く思う。そうしたら、陽雨の全身で、言葉と行動とぜんぶで、大丈夫だと伝えるのに。
「明陽の『一番大好きな人』を紹介されたときも、明陽との婚約がなかったことにされたときも、霧生への婿入りが確定したときも、明陽と冬野の縁談を整えたときも、明陽と冬野の婚礼に参列したときも、明陽が冬野の子供を身籠ったときも」
陽雨が知る限りいつも穏やかに微笑んでいた月臣が、表情を苦痛に歪ませた。いつも陽雨を愛情深く撫でてくれる手のひらが、月臣の顔を乱暴に覆う。泣いているようだと、陽雨は思った。雨粒が幾筋も月臣の頬を伝っていたから。
「私は、本当は、ずっと、明陽に私だけを見てほしかった」
ああ、と。知らず息を止めていた。
驚きはなかった。月臣は義妹を溺愛していたという。元は婚約話すら持ち上がっていた。ともに本家の当主候補と目された男女が手を取り合って水無瀬を導いていく未来を、最も切望していたのが当人だったとしても、何ら不思議なことはない。
「……気がついたときには、龍神は暴走していた」
月臣が呟いた。
「私の一瞬の気の迷いは、龍神が理性で抑え込んでいた本能を刺激するには、種類が似通いすぎていたんだろう。嫉妬に狂った龍神から流れ込んできた感情は、呆れるほど、私が明陽と冬野に抱いていた薄汚いものと酷似していた」
張り裂けそうな笑みが、自嘲を多分に含んでいた。それなのにその口調は、うんと昔に陽雨に術の使い方を説明してくれたときのように淡々としている。
月臣に障りを移さないためだけに堪えていたというのに、月臣は構わず陽雨の頬に触れた。冷えた陽雨の肌から、温かな月臣の指へと、黒ずんだ靄が移っていく。
「……残された陽雨を幸せにすることが、私にできるせめてもの罪滅ぼしだと思っていた。明陽と冬野の代わりに、私が必ず、一人前の当主になるときまで陽雨を守ると」
言葉通り、月臣はずっと陽雨を守ってくれた。つらいことの多かったこの本家で陽雨がいつかの少女のように自死を考えることがなかったのは、陽雨が死んだらきっと月臣が悲しむと確信していたからだった。陽雨に家族の温かみと幸せな感情とを教えてくれたのは月臣だった。
それなのに、月臣の表情からはちっとも達成感の類は見受けられない。苦悶と後悔を煮込んで固めたような深刻そうな影を、顔いっぱいに広げていた。
「――その一方で、年々明陽そっくりに成長するおまえに、明陽を重ねている自分を自覚した」
あっさりと明かされた暗い顔つきの理由に、陽雨は息を呑んだ。
「陽雨が私にだけ懐いて信頼を寄せるのに優越感を抱いて、水無瀬で孤立するおまえがもっと私に依存するようになればいいと喜んでいた。陽雨を絶対に幸せにしてくれると思って婚約させたはずの自分の息子にまで浅ましく嫉妬して、朔臣を陥れる理由を探しては、朔臣を陽雨の側から排除してしまえと囁く自分がいた」
月臣は沈痛な面持ちで陽雨を見つめていた。まるで自分が陽雨を不幸にしたと言わんばかりに。月臣が言ったような種類のことを、月臣は一度だって実行に移したことなんてないのに。
強く腕を引かれて、気づいたときには陽雨は月臣の胸の中にいた。潰れてしまいそうなほどきつく陽雨を抱きしめて、陽雨の肩口に顔を埋めて、月臣は絞り出すように言った。
「軽蔑してほしい。振り払ってくれ。気持ちが悪いだろう。私は、陽雨の親代わりだと言いながら、陽雨を自分の好いた女の代わりに求めていた。泣いているおまえを慰めた手が純粋な庇護の心からのものだったか、私には答えられる自信がない。今だって、こうしておまえに触れていることに、どうしようもなく喜びを感じている。私は、妹にも、娘ほど年の離れた姪にも、醜い劣情を抱くような男だ」
後頭部を掻き抱いて髪を撫で下ろした手がうなじから首筋を擽る。腰と背に腕が絡みつく。濡れそぼって張りついた服越しに体の線までなぞり上げるような、肌の熱を探るような抱擁。月臣にこんなふうに触れられたのは初めてだった。月臣は、こんなふうに、明陽に触れたかったのだろうか。