第五話
次に目が覚めたとき、カーテンの隙間から見える外はとっくに明るくなっていて、陽雨は時計を見るなり顔を青褪めさせた。掛け布団を吹っ飛ばす勢いで跳ね起きる。
皺だらけの巫女装束を脱ぎ落として適当な着物を引っ張り出し、最低限の身なりを整えて執務室に飛び込む。陽雨が慌ただしく入ってくるのが珍しいからか、先にいた朔臣が目を瞬いていた。
「陽雨?」
「あ、あの……ごめんなさい、私、寝坊……」
戸口に立ち尽くしてしどろもどろに言う陽雨に、朔臣が歩み寄ってくる。至近距離から顔を覗き込まれてどきりと心臓が跳ねた。
「体調は?」
「だ、大丈夫。全然、元気」
上擦った声で答えてぶんぶんと首を振った陽雨を、朔臣が見下ろしている。陽雨は寝癖でもついていたらどうしようかと髪に必死に手櫛を通した。昨日の今日なのだから、せめてもう少し可愛い格好でもすればよかったのに、箪笥から引っ張り出したのは洋輔にまた『おばさんくさい』と言われそうな桜鼠の地味な小紋だった。
「月臣から、夜明け前に起き出して拝殿に行っていたと聞いた。午前中いっぱい寝かせておくつもりだったが……」
「ううん。寝すぎなくらい、だから。大丈夫」
「そうか」
月臣は短く相槌を打って自席に戻った。陽雨は自分の両頬をぐにぐにと引っ張ってから、朔臣に倣って執務机に着く。平然を装って書類を整理しながら、横目で朔臣を盗み見る。
朔臣はやっぱりいつもの朔臣に戻っている。涼しげな美貌を引き立たせる冷ややかな双眸、感情の窺えない表情、静かで淡白な口調。昨晩はあれだけ陽雨を抱きしめてくれたのに今朝は指先一本触れようとしない。分かっていたことだけれどあっさり視線を逸らされて、陽雨は現実を突きつけられた気持ちになった。
これだけ徹底的にされるといっそ昨晩のことは夢だったのではないかと思えてくる。夢ではない証拠は今は手元にない。婚姻届を持ち歩くのはどうかと思ったし、持っていたら持っていたで四六時中顔がにやけてしまいそうだが、こんなに突き放された気持ちをあとひと月弱も毎日耐えられる気が陽雨にはまったくしなかった。
「食事は」
不意に声をかけられて陽雨は飛び上がりそうになった。
「え、な、なに」
「……食事は取ったのか」
「う、ううん。もう、お昼も近いし……」
明らかにぎこちない陽雨を無感動な目で見つめて、朔臣はどこかに伝令用の式神を放った。式札が鳥のようにひらひらと飛んでいく。その様子をぼんやり眺めていると、再びこちらを見た朔臣と目が合って、朔臣が嘆息する。
「……陽雨。挙動不審すぎる」
そう言うなら気軽に「陽雨」だなんて呼ばないでほしい。今まで滅多に呼ばれてこなかった分、何度も呼ばれるとそれだけで天にも昇ってしまいそうになる。
朔臣は腰を上げたかと思うと、身を竦めた陽雨に手元の書類を手渡してきた。追加資料待ちだった申請書類の類だろう。受け取る瞬間に指が掠めて、びくりと肩を揺らした陽雨の耳元に、腰を屈めて唇を寄せる。
「意識しすぎだ」
耳を擽る声に陽雨は首まで真っ赤になった。書類を手の中で握り潰しそうになる。
「ごめ……」
「……いい。まだ、ふたりきりだからな」
ふたりきり。ふたりきりならいいのか。他に誰もいなければいいのか。そんな時間は普段もたくさんあるのに。執務室にいる間もそうだし、登下校の間なんてずっと車内にふたりきりだ。陽雨は混乱していた。朔臣は追い撃ちをかけるように言った。
「月臣が今から客人を連れてここに来る。人前ではいつも通りにできるな?」
まったく自信はなかったけれど、陽雨はこくこくと頷いた。従順な陽雨にふっと吐息を落として、朔臣はようやく陽雨から離れていった。「待っていろ」と言い残して執務室を出ていったかと思えば、少しして盆を抱えて戻ってくる。盆には急須と茶碗、それから陽雨のお気に入りのティーセットが載っていた。
白いレリーフのティーカップに鮮やかなオレンジ色が注がれて、花のような瑞々しい香りがふわりと広がる。ソーサーの横に添えられたのはチョコレートブランドのパッケージ。普段は質素を誇示するように煎茶ばかりだが、陽雨は実は茶の中では煎茶よりも抹茶よりも紅茶が好きだった。以前その紅茶によく合うと零してから、朔臣は月に一回、定例本会のあとに、陽雨のとっておきの茶葉で淹れた紅茶と一緒にこのトリュフチョコレートを必ず用意してくれるようになった。
「何も腹に入れないよりはいいだろう」
チョコレートを口に放り込んで頬を緩ませ、ティーカップを傾けてほっと息をつく陽雨を見届けて、朔臣がおもむろに執務室の扉を開けた。いつもの青藤色の着流し姿で入ってきた月臣が、陽雨を見つけて歩み寄ってくる。
「陽雨。体の調子は大丈夫かい?」
「うん、たくさん寝たから、凄く元気。それより伯父様――」
言いながら月臣を見上げて、穏やかな微笑みを観察する。……いつも通りだ。朗らかで物腰柔らかで、陽雨が大切だと所作や眼差しの端々から伝えてくれる、陽雨の大好きな家族。あの違和感は何だったのだろうかと首を捻りそうになるほどいつも通りの月臣だった。
「――お客様とご一緒って」
陽雨は何気ない調子で続けた。月臣の背後に視線を向ける。珍しい客人だった。今までこの執務室に足を運んだことはほとんどなかったはずだ。押しかけてくるのはもっぱら近江老と筒泉老の役割だったから。
「丹波老が陽雨に話したいことがあるそうだ」
月臣に促された丹波老は、戸口で深々と頭を下げた。
「お約束もなく押しかける無礼をお許しください、当主代理」
「いいえ、構いませんが、どうされました?」
応接セットのソファーに通す。朔臣がふたり分の茶碗をテーブルに準備していたが、月臣は陽雨の傍らに寄り添うように位置取った。
丹波老はにこやかとは程遠い顔で執務室を見回して、伏目がちに陽雨を見た。この人は陽雨に対するときいつも暗い目をする。敵意や悪意は感じないが、とにかく辛気臭いのである。今日はそれが顕著だった。
「……当主代理。そろそろ、お部屋を移動なさってはいかがでしょうか」
「移動、ですか?」
陽雨は虚を突かれて目を丸くした。丹波老がいっそう目を陰らせて厳かに頷く。
「この東の棟にはほとんど警備が配置されておりません。当主代理の席にある方の、公私のお部屋の揃う棟の警備と考えれば、明らかに手薄です。当主代行が北の棟に私室と執務室をお持ちであるにもかかわらず、当主代理がいつまでもこのような場所に追いやられている道理はありません。大手を振って北の棟に移られるがよろしいでしょう」
「……お気遣いには感謝しますが、この部屋にも私の自室にも専用の警備用結界を張っているので、移動先にも同じ装備をとなれば一朝一夕では済みません。ただでさえ当主継承の儀への対応で体が空かないのに、それ以外のことに手をかけている余裕はありません」
陽雨の当主継承の儀は限りなく予算を抑えて必要最低限に簡略化する方向で一年かけて準備を進めてきたことは丹波老も知っているはずだ。それがたった一日で先代当主のときと遜色ないほど豪勢に様変わりしてしまったのだから、陽雨がこれからどれほどの事務処理や各部署との調整に追われるかは想像できるだろう。
きっぱりと言いきった陽雨に丹波老が言葉を失う。陽雨の反応が分かっていたかのように項垂れた。
「……それは、屋敷内警備を預かる警備部第二室の術師が以前、当主代理のお部屋に不届き者を侵入させた前例があるために、警備部の守りには信頼を置けないということでしょうか」
はいそうです、とは言えず陽雨は無言を貫いた。当主一族の私室や執務室に警備の術師がつくのは当然のことで、本来ならば陽雨のように人間による警備ではなく結界による警備を採用することは稀である。陽雨がなぜ自分の労力も霊力もかけてそんなことをしているかと言えば、これまで家人に自分の部屋や持ち物の守りを任せておけなかったからだ。
陽雨の部屋にも陽雨の私物を管理する部屋にも、これまで幾度となく荒らしや盗人が入り込んでいる。大切にしていた玩具の指輪、お気に入りの真っ白なワンピース、少しずつ進めて完成させたイルカの絵のジグソーパズルに、務めの合間に連れていってもらった皆瀬神社の祭りで掬った二匹の金魚――陽雨の私物ばかり徹底的に危害を加えていくので、陽雨は結界術を覚えたころから、大切なものは自分の手で雁字搦めに張った結界の中に囲い込むことにしていた。大切なものが壊されて残骸が捨てられていく、あんな悲しい思いは二度としたくなかったから。
「……では、お部屋は今のままで結構です。ですが、せめてこの東の棟にも、警備の術師を配置なさってください。警備部の術師でなくとも、当主代理がご信頼を置く者で構わないのです」
苦し紛れに食い下がる丹波老を「不要です」と一蹴する。警備の名目で人を置いてその術師が陽雨の部屋の結界に危害を加えようとしたらどうするのだろう。そうしないというだけの信用を、陽雨は家人に持てない。陽雨が自室の周辺の警備を一掃したときも、食事を運ぶ使用人に陽雨の結界を破らせようとした家人が湧いて出たというのに。
「この棟は私が使う部屋以外は空室です。私が使う部屋には結界を張っています。家人に頼る必要ありません」
頑なに言い募る陽雨に月臣が寄り添った。丹波老の言い分は当主に仕える長老衆としては至極当たり前のもので、陽雨の言い分のほうが常識外れだ。折れろと言われるのだろうか。過ぎった不安を見透かすように月臣の手のひらが陽雨の肩を抱き寄せた。
「丹波老。今は引いていただきたい。陽雨がただ意固地になっているだけでないことは貴方にもご理解いただけることだろう。ただでさえ大きな変化があったばかりで、このうえさらに多くのことを一度に変えるのは、陽雨にとって負担にしかならない。警備を置くにしても、しばらくは棟の外からの巡回警備で留めたい」
巡回も要らない、と衝動的に口走りそうになって唇に力をこめる。あまり我儘を言うと月臣も陽雨の味方をしてくれなくなってしまうかもしれない。
丹波老は肩を落としていた。皺を深くした眉間を揉んでいる。何やら考え込んでいるようだったが、陽雨に対しては慇懃に頭を下げた。
「仰せのままに。当主代理のお気持ちも考えず、無理を申し上げました」
「いいえ」
「……ですが、当主代理。常駐警備を置かれないのであれば、どうかお気をつけください」
その口調は重々しく、どこか切迫していた。丹波老は苦悩の滲む眼差しを陽雨に向けた。
「近江や筒泉の縁故で屋敷に上がっていた者には、使用人も含めて既に暇が出されることが決定しています。ですが、言葉を選ばずに申し上げれば、まだ膿を出しきれたわけではない。貴女の寝首を掻こうとする輩がいないとも限りません」
陽雨を陥れたい人間なんて山ほどいるのが今までの普通だったが、それがどうしたのかと軽く流すには真剣な面持ちに、陽雨は少し面食らった。丹波老は何を警戒しているのだろうか。
「……貴女がお生まれになった当時、貴女は初めから孤立していたのではありません。霧生家やその傍流を中心に当主代行が集められた、本家に忠節を誓う家人や貴女の後ろ盾となりうる分家を、近江がことごとく陥れて貴女の側近くから排除して回ったのです。結果どの分家も恐れをなして貴女に近づく者はいなくなりました。策略の上であの男の右に出る者はこの水無瀬にそうはおりません。お気をつけなさいませ。貴女が知っている貴女の敵は、分かりやすく悪意を振り撒く老人だったやもしれませんが、元は水面下での暗躍を得意とする老獪です」
丹波老が想定している敵とやらに予測がつかないわけではないが、前執行部のうち、陽雨が当主代理不信任決議の材料にした面々は既に本家を出禁にされている。特にあれほどの重大な事件を引き起こした原因である近江家には、一族全体に一定期間の謹慎の処分が下されることが昨日の本会で決まった。まだ幼い双子については叱責だけで留めるよう口添えしたが、近江老に対しては陽雨が水無瀬にいる間の半永久的蟄居という処分がそのまま可決された。本家で今さら何ができるとも思えない。
それでも、聞き流すにはあまりに丹波老の声色が厳しいもので、陽雨は「胸に留めておきます」と頷いた。神妙な陽雨の様子に微かに愁眉を開いて、丹波老はあっさりソファーから立ち上がった。
「当主代理が展開する結界は、この水無瀬の誰も及ばないほどのものです。しかし、肝心の貴女はいつでもその結界の中にいらっしゃるわけではない。せめて供も連れずにおひとりで行動なさるのは控えられたほうがよろしいでしょう」
最後まで忠告めいたことを言い含めて、丹波老は用は済んだとばかりに執務室を出ていった。