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日向雨の巫女  作者: 稲石いろ
第五章 見えていなかったもの
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第一話

 杉障子の合間から見える外はとっくに日が傾いていた。暗くなった空は遠くにほんのりと茜色を混ぜている。定例本会がこんな時間まで長引くのは珍しいことだった。

 自分で歩けると暴れてもあまり意味がないことは今日何度か同じやりとりを繰り返して諦めている。だから使用人たちの視線が集まる羞恥に耐えながらおとなしく運ばれるに甘んじたというのに、朔臣はそれを体調の悪化と捉えたようだった。執務室を通り越して寝室のベッドに陽雨を下ろして、「食べられそうなものを用意してくるから着替えて横になっておけ」と部屋をあとにしようとするので、陽雨は慌てて朔臣のジャケットの裾を掴んだ。


「待って」

「話より食事が先だ。今日は朝食も昼食も取ってないだろう」

「平気。午前中に栄養ゼリー飲んだから」

「それは食事じゃない。そんな顔色で何が平気だ。さっきも頭痛と眩暈を起こしていただろう。……自分の体調が悪いのに、椅子を譲る馬鹿がいるか」


 洋輔を座椅子に座らせたことを言っているらしい。てっきり周囲の陽雨を見る目が変わったせいであんなものが用意され始めたのだと捻くれていたが、もしかして体力の戻っていない陽雨のために朔臣が用意させたのだろうか。そう思うだけでもやもやしていた胸が途端に晴れてしまうのだから、陽雨は自分も大概現金な人間だと思う。


「……あんまり食べられないと思うから、食事はまだいい。それより、朔臣」


 続きを言うのに、深呼吸をした。勇気を振り絞る。声に上擦るな、と願いながら。


「婚姻届、差し止めるの?」

「……当然だろう」


 陽雨の勇気とは対照的に、朔臣は短く嘆息して淡々と答えた。その肯定が陽雨をどれほど傷つけているのか、この男は知らないのだろうと、陽雨はぼんやりと思う。朔臣にとっては当然のこと。陽雨にとっては、ぜんぜん、当然なんかじゃないのに。


「それなら、どうして、婚姻届にサインしたの。私が駄々を捏ねたから?」

「……おまえが、泣きそうだったからだ」

「そん……っ」


 そんな理由で。食ってかかろうとしたけれど、その前に無理強いした側であることを思い出せば、強く出られる身ではない。それでも何か言わずにはいられなかった。


「……そんなの、すぐに破り捨てられるものに、サインなんか貰ったって、嬉しくなかった。もっと、悲しくなる、だけ……っ」


 はたはたと雫が落ちて、シーツに水玉模様を描く。今日はなんだか異様に涙脆い。止めなければと思うのに、大広間のときとは違ってすぐに止まってくれない。


「……書いても書かなくても泣くのか、おまえは」


 ため息混じりの声が降ってきて、うつむけた視界にティッシュボックスが入り込んでくる。陽雨が受け取らずにいると、傍らのシーツの上に置いて、朔臣はもう一度ため息を落とした。面倒だと思われているのだろう。


「破り捨てるかどうかは、おまえが決めることだ」

「……差し止める、んでしょ」

「止めるだけだ。あとはおまえの望み通りにすればいい」

「っ……なら」


 陽雨はかっとして、勢いよく顔を上げた。


「やだって言ったら、私と結婚してくれる? 婚姻届を差し止めないで、そのまま提出してって言ったら、筒泉老から取り上げないでくれる?」


 朔臣が顔を顰めて陽雨を見ている。嫌だと言われるのが怖くて、陽雨は捲し立てた。


「他に好きな人がいてもいいから――恋人でも愛人でも作っていいから、私のことが嫌いでもいいから。床入りだって嫌ならしなくていいし、寝室も執務室も別でいいし、四家の集まりもパーティーも同伴しなくていいし、水無瀬での役職は欲しいの何でもあげるし、私の夫だって肩書だけ持っててくれたらいいから、結婚してくれる以外何にも望まないから――」


 くらりと視界が揺れる。一瞬目の前が真っ暗になって、体の平衡感覚を失って、次に目を開けたときにはシーツに顔から突っ込みそうになっていたところを朔臣の手に支えられていた。はあ、と荒くなった息を吐いて、目を瞬く。頬を雫が伝った。

 身を起こそうとすると、朔臣がため息をつきながら陽雨の肩を押し留めた。そのまま毛布やら枕やらクッションやらを山のように重ねて、陽雨に手を貸して起き上がらせ、椅子もソファーもないこの部屋で陽雨が少しでも楽に座れるように背をもたれさせてくれる。

 手のひらが額と首筋に触れていく。「熱はないな」と呟いた朔臣が今度こそ出ていってしまうのではないかと、陽雨は咄嗟にスーツの袖を掴んだ。朔臣はいつものように振りほどくことはしなかった。好きに掴ませたまま、ベッドの端に腰を下ろす。


「……おまえはどうしていつもそう、勝手に思い詰めてひとりで極端な方向に暴走するんだ」


 ため息混じりの呟き。どれのことを言っているのだろうか。あの婚姻届のことか。あるいは、当主代理不信任決議のことか。


「……勝手に思い詰めて極端な方向に暴走して、盛大なひとり相撲で大恥かいて、馬鹿な奴だと思ってるんでしょ……」

「ああ、そうだな。馬鹿で、そのうえ都合よく俺が言ったことを忘れる」


 仮にも泣いている女の子に対する優しさの欠片もないことを言って、朔臣は陽雨と目を合わせるようにして顔を覗き込んだ。優しい手つきでティッシュで涙を拭っていく。


「俺は陽雨のことを嫌っていないし、俺から陽雨との婚約を破談にすることも、絶対にない。……俺はちゃんとおまえに言ったはずだ」

「……なに、それ。いつ、そんなの、知らない……」

「おまえが覚えていないだけだ。恋人も愛人も作るつもりはない、とも言ったはずだ。それも忘れたか?」

「それは……覚えてる、けど」

「結婚後の夫婦のことも、陽雨が望む通りにする。陽雨の望まないことはしない」


 結婚後。今、そう言っただろうか。まるで陽雨と結婚することを受け入れるような言葉。こういう思わせぶりな言葉でぬか喜びした挙げ句、すげなく叩き落とされた経験はこれまで何度もあった。固まって視線を揺らす陽雨に、朔臣は眉尻を和らげた。


「……俺の花嫁さんに、なってくれるんだろう?」


 ――――大きくなったら、陽雨は僕の花嫁さんになるんだよ。


 遠い記憶の残響。池に咲く睡蓮。東屋で交わした指切りの約束。

 喉の奥に熱いものがこみ上げてきて、視界が滲んだ。顰めっ面でも無表情でもない朔臣の柔らかい表情なんて貴重なのに、網膜の裏に焼きつけるまで眺め回したいのに、どんどん溢れてくる涙がそれを邪魔する。


「朔……覚えて……」

「おまえが言ったことを俺が忘れるわけがないだろう」

「だって……だって……っ、朔臣、いきなり、冷たくなって……笑ってくれないし、陽雨って呼ばないし、目、逸らすし、舌打ちするし、……もう、き、きら、嫌われた、と、思っ……」


 しゃくり上げる陽雨の背を撫でるようにして、朔臣は吐息混じりに言った。


「……嫌われるのは、俺のほうだろう」

「わ……私が、朔兄を……嫌うわけ、ない……っ」


 知っているくせに。抗議の意味をこめて朔臣の胸にこぶしをぶつける。朔臣は「そうか」とだけ呟いて、抵抗もせずに陽雨の弱々しい攻撃を受け止め、ほとんど過呼吸のような状態で泣きじゃくる陽雨の背を撫で続けた。


「……陽雨。あの婚姻届を筒泉老に出させるのは、やめてくれ」

「ど、して……」

「あんな適当に書き殴った婚姻届で、本当に結婚するつもりか?」


 どこか困ったような顔で言われて塩っぽい唇を噛んだ。陽雨は率直なところを言えば朔臣と結婚するためなら書き殴った婚姻届でも何でも構わなかった。婚姻届の用紙はあの一部しかない。


「新しい物を取っておく。あんな役所用の書類くらい、いくらでも書いてやる。そんな顔をするな」

「……だって。朔臣、私と結婚するの、後ろ倒しにしたいみたい」


 朔臣は困り果てたように口を閉じた。図星なのだ。目を潤ませ始めた陽雨をはぐらかすように抱き寄せる。


「当主継承の儀が終わって、陽雨が正式な当主になったら、――それでも、まだ俺と結婚したいと思ったら、もう一度婚姻届に署名してくれ」

「なんで……どうして、今じゃ駄目なの。あとひと月もないのに、私が心変わりすると思うの?」

「……そうじゃない。でも、今は駄目だ」

「どうしてっ」


 朔臣は陽雨の問いには答えなかった。少し声を上げただけで息の切れる陽雨を落ち着かせるように肩に手を載せて、ただ優しい眼差しを陽雨に注いだ。朔臣にこんなふうに愛しむように見つめられることなんて何年振りだろうかと、陽雨は途端に反発の態度を緩めてしまう。


「……当主就任式のあと、陽雨の就任祝いと誕生祝いを兼ねた祝宴会があるだろう」


 朔臣は言い聞かせるようにゆっくりと言った。


「祝宴会は歴代も装いを変えて出席していた。着たい振袖があったんだろう。初めの乾杯と挨拶だけ付き合って、分家に祝いの言葉を十八年分言わせて、陽雨のお気に入りで着飾った晴れ姿を見せびらかしたら、ふたりで婚姻届を出しに行く。それでも駄目か?」


 陽雨は見開いた。拍子に眦に残っていた雫がぽろりと落ちる。


「……抜けて、いいの?」


 祝宴会は元々予定されていなかった。陽雨の当主就任や誕生日を祝いたい人間なんていなかったのだから当たり前だ。毎月定例本会のあとに催される執行部との懇親会にすら長らく出席していない。この一年陽雨の姿がなくても何らの問題もなかった会席に、今さら参加してどうしろというのだろうかと、陽雨は鬱屈した気持ちで祝宴会の開催の決を採ったものだった。


「どうせ気が進まないんだろう。ああいうものは得てして大人が昼間から飲み食いして騒ぎたいがための口実だ。何時間も陽雨をただ上座で座らせておくつもりはない。……大人になってから、初めてのデートがそれじゃ、嫌か? 不服か?」


 朔臣が目元を緩めて言う。デート。嫌なわけがない。不服なわけがない。胸をいっぱいにしてふるふると首を振って、陽雨はもう何度目かの涙を目に浮かべた。


「……陽雨が大人になってから、って、朔臣、昔もよく言ってた」

「おまえが大人になるのをずっと待っていたからな」

「私が何を言っても大人になるまで我慢しろって言うから、はぐらかされてるんだと思ってた」

「俺は陽雨の前で偽りや誤魔化しを言ったことはない」

「嘘。『お嫁さんにして』も『遊園地に連れていって』も『犬を撫でたい』も『式神で空を飛びたい』もぜんぶ『陽雨が大きくなったら』だったもん」

「勝手に混ぜるな。『大人になったら』と『大きくなったら』は違う」

「そんなの詭弁……」

「結婚は大人にならないとできないだろう。遊園地に限らず陽雨が娯楽施設に大手を振って行けるようになるのも成人してからだと思っていた。犬と触れ合うのと式神で飛行するのは今の陽雨でもできる」


 言われればそうだと思うけれど、たかだか七、八歳の少女にそんな些細な意味の違いが理解できるわけがない。陽雨は盛大にむくれた。


「犬を撫でるのは今も無理だもん。どうせ怯えられるか吠えられるかだもん」

「そうでもない。……どうせ今寝ろと言っても聞かないんだろう。少し試すか」

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