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日向雨の巫女  作者: 稲石いろ
第一章 望まれない跡取り娘
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第一話

 車は高速道路を数時間ほど走り、海に臨む港町から山手に回って小さな森を抜けた先でようやく停まった。

 件の廃校は元は中高一貫の女学院だったらしい。小高い丘の上に立つ煉瓦造りの校舎は風雨に晒されてあちこち朽ち果てているものの、アーチや柱のあしらいに洋風の雰囲気が残り、学校というよりは異国風の邸宅跡地と言われたほうがしっくり来るような外観だった。生い茂る木々の向こうに古びた尖塔と灰色の十字架が見えるのは、礼拝堂だろうか。


「……中に入る許可は」


 朔臣にそれだけを尋ねるのにらしくもなく己がどこか緊張していることに、陽雨は気がついていた。あれから朔臣はひと言も口を開くことはなく、後部座席で陽雨と月臣が広げる会話に加わってくることもなかった。普段は沈黙が横たわるだけの車内であることを思えば、いつも通りと言えばその通りだったけれど。


「取ってはあるが……入るのか」


 なぜか渋面で問い返されて、最低限の会話程度はする気があるらしい朔臣に肩から力を解きながら、当たり前でしょ、とつっけんどんに答える。


「あんただって分かってるでしょ。工事業者の不幸も、術師の行方不明も、元凶はあの建物の中だって。入らないでどうしろっていうの。それともこの建物全部破壊して更地にしてもいいわけ?」

「……工事業者が立ち入った際に建物の一部が崩壊したと聞いている。元よりどうせ取り壊すものだ」

「重機も入っていないのに一瞬で建物が取り壊されたら無駄に騒ぎになるでしょ」


 術師は一般人の人目を避けるものだ。力も知識も耐性も持たない人間が、こちら側の存在に触れることは危険だから。術師はあくまで人々の営みの裏側にあるべきで、表側に生きる人々とは一線を画していなければならない。

 ずっとその裏側で生きてきた陽雨には、ひと目で分かった。人為的な結界が張られ、その中に明らかに淀んだ――“よくないもの”の気配が満ちている。その最も強い場所が校舎の最奥だ。車内で読み込んだ報告書には学校の図面はついていなかったが、距離と方角から考えるにあの十字架の見える辺りだろう。

 何があるか分からない結界内に入らなければならないとき、術師は普通式神を先に遣わせる。自分の使役下にある式神に探知させて危険を見極めてから慎重に足を踏み入れるのだ。一般的で優秀な術師であるところの朔臣もそれが定石だと知っているから、探知もせずに自ら入っていこうとする陽雨に難色を示す。

 その定石が陽雨には当てはまらないことを知らないはずのない男が、それでも陽雨に正攻法を求めてくることが癇に障って、陽雨は脱いだ制服のブレザーを朔臣に放った。受け取られたかどうかは確認せずにシャツの袖を捲り、護符や式札をポケットに収めて、片手には愛用の弓を持つ。


「陽雨。少し待ちなさい」


 月臣が袂から式札を一枚取り出した。みるみるうちに折り畳まれて手のひらに包み込めるほどの小さな鳥の形になる。鳥はふわふわと飛んできて陽雨の右肩に止まった。羽の部分に式神の印が描かれている。


「もとは妖化しかけていた小鳥の死霊を調伏したもので、取りついた相手の居場所を私に伝えるだけの式神だ。連れていきなさい」

「伯父様……」

「陽雨の邪魔はしないよ。陽雨の技量も信用している。居場所を知っておきたいだけだ」

「……分かった」


 不服そうに唇を尖らせながらも頷く陽雨の頭を掻き混ぜるようにしてから、月臣は微かに目を細めた。


「朔臣の補佐は?」

「手を出さないように言ってる。朔臣、いつも通り。三十分」


 結界内部に入ってから三十分経っても音沙汰がなかったときは陽雨が何か失敗したと思え、という意味だ。そのときは朔臣が然るべき対応を取る。そんな事態に陥ったことは今までないので、朔臣が実際どうするかは陽雨には与り知らぬところである。


「分かった。なら私もそれに倣おう。――無事に戻ってくるんだよ」

「……行ってきます」


 うん、と頷かなかったのは、守れない約束をしたくはなかったからだ。陽雨は月臣に背を向けて、矢に護符を張ってつがえた。狙いを定めて射た矢はまっすぐ結界に飛んでいく。

 破魔の弓で射た矢でも、結界を解くには至らない。この結界を張った術師はどれほどの手練れなのだろうか。それでも、鏃が突き刺さったところから結界が撓み、内側から黒い影のような手がいくつも伸びてきたので、これはこれで想定通りだった。陽雨は抵抗せずに影の手に身を預けた。


「――陽雨!」


 背にかかった声を振り返る間もなく、次の瞬間には陽雨の体は結界内部に引きずり込まれていた。無理やり押し入ったり外から壊そうとしたりするよりも、中から招き入れてもらうほうが格段に楽だ。三人の術師も死体として見つかったというのではなく行方が分からなくなったということは、結界内部に留めておきたい理由があるからだろう。

 首尾よく結界に入り込めたところで、術で風の刃を作り出し、四肢に絡みつく影の手を切り払う。なおも陽雨に伸びてくる手に護符を叩きつけると、影は弾けるように霧散した。

 微かな息苦しさ。日中とは思えない薄暗い空。視界を霞ませる黒い靄のような瘴気が漂っている。

 ざわざわとうごめく大量の気配に眉をひそめつつ、陽雨は足早に結界内を進んだ。奥に入り込むにつれてざわめきが大きくなり、靄がいくつも人のような影をかたどり始め、あちこちから老若様々な怨嗟の声が聞こえてくる。いったいどれほどの悪霊が集まっているのだろうか。

 人影の中からひと際はっきりした形を作り上げた幼子の影が、とたとたと陽雨の周りをまとわりつく。少女の啜り泣く声が耳に響く。工事業者を襲ったという怪奇現象はこれだろう。

 幼子の影が陽雨を先導するように駆け出した。迷いのない足取りで校舎の中を進んでいく。向かう先は礼拝堂だろうか。霊魂が生前の姿を保てないほど堕ちた悪霊についていくなんて自ら冥府に赴くがごとき愚行だ。この先に待ち受けている諸悪の根源を祓えなければ、陽雨も戻ってこられなくなる。


 幼子の影は礼拝堂の前まで来ると陽雨をくるりと振り返った。黒い影が一瞬歪んで、その合間から悲しげな顔をした小さな男の子と目が合う。幼子はそのまま両手開きの扉に吸い込まれるように姿を消した。代わりにぎいぎいと蝶番が軋む音を立てて扉がひとりでに開いていく。

 中は荒れ果てていた。崩れ落ちた木製の会衆席に、埃を被った祭壇のマリア像、ステンドグラスはひび割れて蜘蛛の巣が張っているのが見える。

 陰を帯びて微笑するマリア像の前に、人影が立っていた。先ほどの幼子かと思ったが、それにしては上背がある。陽雨と同じくらいだろうか。人影を包む黒い靄の中に目を凝らすと、それは長い髪をおさげにした少女の姿をしていた。


「どうして」


 少女の影がそう呟いた。酷く昏い声だった。場に満ちる邪悪な気配が、少女を中心に濃く膨れ上がる。背後で扉が閉まる音がした。


「どうして、会いに来てくれないの。どうして」


 眼前の少女が死霊であることは間違いない。怨霊どころかとっくに妖に変化していてもおかしくないほどの禍々しさを放っている。悪寒をもたらすほどの瘴気の深さに警戒心を募らせ、陽雨は弓を握る手に力をこめた。

 少女がゆらりと白い手を自分の腹部に当てる。虚ろに投げ出されていた黒い眼が、次の瞬間かっと陽雨を睨み据えた。


「――貴女が、あのひとを、惑わせたのね」


 少女の怨念とともに黒い靄がぶわりと噴き出した。咄嗟にその場に護符を蒔いて張った結界が、飛びかかってきた妖気の塊に軋む。瘴気の合間から窺った少女は、暗い影をまとった部分から徐々に異形のものへと姿形を変えていた。片腕が風船のように膨れ上がり、両足は泥のように影に溶け出して、ひとつ目の目玉が闇の中からぎょろりと覗いている。

 死霊が邪な感情に引きずられて悪霊や怨霊に堕ちた成れの果ては、妖だ。完全に妖化してしまえばその霊魂は助からない。此岸に厄災を振り撒くだけの存在となり、それが無視できない脅威と見做されれば術師に滅される。いつの世も同じだ。表の世界の平穏を守ることは、術師の家系に生まれた者の使命である。


「許さない……あのひとの恋人はわたし! わたしとあのひとを引き裂くなんて、許さない!」


 少女が腕を振り上げると、一等深い怨嗟に引きずられた悪霊たちが次々と陽雨に向かってくる。瘴気で侵される前に結界を解き、霊力をこめた護符を片っ端から叩きつけながら、陽雨はその場を飛びのいた。一瞬前まで立っていた場所で会衆席の長椅子が粉々に砕けるのに、思わず舌打ちが零れる。

 長椅子や額縁や燭台が宙を飛び交っている。物体を操る力まで持つなんて厄介だ。あの少女や有象無象の悪霊たちの鎮魂に集中できない。

 飛んできた十字架を術で作り出した突風で少女に向かって吹き飛ばす。十字架は霊体となった少女をすり抜けて壁にぶつかったが、その衝撃に少女が怯んだ隙を逃さず、陽雨は振り向きざまに護符を貼った扉を蹴破った。術で無理やり勢いをつけたので蝶番が歪んだようだが、これくらいなら経年劣化として誤魔化せるだろうか。


「逃げるの。待ちなさい、この泥棒猫!」


 おさげ髪に似合わず存外ヒステリックに喚き散らす少女が追いかけてくるのを横目で確認しつつ、ときどき飛んでくる瓦礫や窓枠を躱し、飛びかかってくる悪霊をいなしながら、嘆きと恨みの声で溢れる外廊下を全速力で駆け抜けていく。走りながら意識を張り巡らせて糸口を探す。

 少女の怨念が波及して悪霊がどんどん怨嗟を増す。負の感情に満ちた結界の中で瘴気の密度が濃くなっていく。瘴気に触れた妖は増長し、取り憑いた少女の恨み憎しみを煽る。この悪循環をひとつずつ相手にするのは鼬ごっこだ。――まずは淀んだ気配を留めているこの結界をどうにかしなければ。


「……追いかけっこはもう終わり?」


 足を止めた陽雨が肩を上下させているのに対して、少女は息を荒げるそぶりもない。おさげを揺らして楽しそうに笑いながら、泥のようになった足をふわふわと浮かせて、周りを悪霊たちで囲うようにして守らせる。

 少女には答えず、陽雨は手近なところに立っていたマリア像に手をついて息を整えた。式札から取り出した矢に霊力を注ぎ込み、弓につがえ、まっすぐ頭上に射る。

 どこに撃ってるの、と鼻で笑いかけた少女が、はっとして慌てて悪霊を飛ばしてくる前に、陽雨の矢が結界に突き刺さった。ぴしぴしと音を立てて黒ずんだ結界にひびが広がっていく。


「だっ、だめ……!」


 少女が叫ぶのと結界が砕け散るのは同時だった。薄暗かった視界が晴れ、遮られていた太陽の光が射し、頭上に春の青空が戻る。曇り空が遠くて幸いだった。悪霊に堕ちた死霊は陽に当たるだけである程度浄化される。頭に響くようだった怨嗟の声が止んだ。

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