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日向雨の巫女  作者: 稲石いろ
第三章 雨の森
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第五話

 ――――陽雨を、朔兄のおよめさんにしてくれる?


 睡蓮の咲く池の畔の東屋で、隣に腰かける朔臣を見上げて、幼い陽雨が無邪気にそう尋ねた。


 ――――もちろん。大きくなったら、陽雨は僕の花嫁さんになるんだよ。ほら、指切りをしよう。約束の証だ。


 二十歳を過ぎたかどうかという歳のころの朔臣が、美しいかんばせに王子様のような微笑みを浮かべ、小指を陽雨に差し向ける。すらりと長い小指に、陽雨は短い小指を一生懸命に絡めた。その様子に朔臣は口元をさらに綻ばせた。


 ――――ぜったい、ぜったいだよ? ゆびきりげんまん――……


 残響が遠くなっていく。

 なんだか幸せな夢を見ていた気がした。

 体中が軋む痛みと熱さの中で目を覚ました陽雨は、ベッドサイドの時計を見てぼんやりする頭のままベッドを下りた。いつもより少し寝坊してしまったかもしれない。はだけた浴衣をのろのろと直してから部屋を出て、いつも通りに母屋の裏手に回り、浄めの滝への丸太階段を上る。

 登り慣れているはずなのに息が上がっていた。足も腕も重力が倍になったように重い。視界がぐるぐると回って、倒れそうになりながら木立に掴まるようにして登っていくと、滝の岩壁の前にふたりの巫女が立っていた。昨晩の巫女とは交代したらしい。

 何やら雑談をしていたらしいうちのひとりが不意に陽雨に気づいて目を見開いた。「当主代理⁉」と叫ぶ声がやけに頭に響く。いつも朝にいる巫女たちは一切無駄口を叩かないというのに、今日はどうしたことだろう。


「当主代理、どうなさいました。なぜこちらへ……?」

「どうって……朝の献饌の、沐浴を」


 陽雨が言うなり巫女はふたりで困惑顔を見合わせる。


「……社殿に龍神様がいらっしゃらないことは、わたくしどもも聞き及んでございます。自動的に毎朝の当主代理の献饌も取り止めになったもの、と」


 言われてみればそうだ。龍神は陽雨の中に封じられているのだから、拝殿で神饌を捧げる必要はない。だが、陽雨は別に引きこもりの龍神に目通りを願うためだけに毎日社殿に通い続けていたわけではない。


「龍神様がどちらにおいでだったとしても、水無瀬の結界を預かっている者として、龍の宝珠の元へ私が参らないわけにはいきません」


 沐浴の準備が整っていないというのなら仕方がないが、巫女たちはそのまま境内まで向かおうとする陽雨の行く手まで阻む。あまり立ち往生していられる体調でもないのに、と思う側から頽れた陽雨を、慌てて巫女のひとりが介抱した。


「月臣様か朔臣様をお呼びして! おふたりとも昨晩から本家にお泊まりのはずだから!」

「はっ、はい!」


 そうして早朝から多少母屋を騒がせて、血相を変えて飛んできた月臣に抱えられ、陽雨はあえなく自室に連れ戻された。

 浄めの滝まで歩いただけで体力の尽きた陽雨をベッドに運び、寝苦しそうに横たわる姿を見て、月臣は着替えのために女性の使用人を呼ぼうとしたようだった。陽雨が要らないと言い張ると、代わりに呼び寄せられたのは式神の印を首に持つ女性で、ろくに座ってすらいられない陽雨のべたつく体は蒸しタオルでてきぱきと拭われ、浴衣よりも柔らかい綿生地の寝巻きを着せつけられた。

 そのうちに式神と入れ替わるように月臣が戻ってきて、いつの間に用意させたのか一人前用の土鍋まで持ち込み、匙で雑炊を掬って陽雨の口に運び始めた。恥ずかしいからと抵抗したものの、下手に陽雨が持つと鍋も匙も落っことして雑炊をぶちまけそうで、結局月臣にひと口ずつ食べさせてもらう羽目になった。

 土鍋の四分の一を腹に収めたかどうかというところで陽雨の胃のほうが限界に達して雑炊を下げてもらうと、医務室から医師が呼ばれて陽雨を診察し、解熱剤を処方していった。体中の怪我も改めて処置がされた。怪我は冬野の邪気によるものなので浄めの滝に浸かり続けたことでほとんど治りかけていたが、肩の傷が完全に塞がるまではまだかかるだろうということだった。

 濡れタオルが額に載せられる。冷たさに少しだけ表情を緩めると、陽雨をベッド脇で寝かしつけながら、月臣が困ったように微笑んだ。


「そんな体であの境内まで登るつもりだったのかい?」

「……ごめんなさい」

「陽雨が謝ることではないよ。おまえが真面目な子だと知っているのに、昨夜のうちに伝えておかなかった私が悪かった。熱が下がるまでは部屋で休んでいなさい。仕事は私と朔臣でやっておくから」

「……でも、伯父さ、ま、」

「うん?」


 どこまでも優しい月臣に涙が溢れた。しゃくり上げ始めた陽雨に月臣が慌てて腰を上げた。


「陽雨? どこか痛むのかい」


 体はもちろんつらかった。全身が倦怠感と関節痛に支配されていて、熱がこもったように暑いのに寒気が止まらないし、頭は内側からハンマーで殴られているように重い痛みが響いて思考の邪魔をするし、目を瞑っていても視界がぐるぐる回っていて気持ちが悪い。


 けれど、それよりも、陽雨の心のほうが、ずっとずっと張り裂けそうだった。


「ごめ、な、さ……ごめんなさい……私、酷いこと、たくさん言ったのに」


 優しくされるような資格は自分にはないような気がして、体を小さくして震わせる。月臣が陽雨の背をそっとさすった。


「……陽雨が怒るのは当然のことだ。すまなかったね。おまえのためだと言いながら、今までおまえに本当につらい思いをさせてきた」


 ふるふると首を振った拍子に、額からタオルが滑り落ちる。月臣は再びタオルを絞り直して額に当てた。


「……本当は……ほんとは、ただ、悲しかっただけ、なの」


 陽雨は喉を詰まらせながら白状した。今ここで懺悔してしまわなければ、自分を一生軽蔑しながら生きていかなければならなくなる。嫌いで嫌いで仕方がない自分自身のことを、もっとずっと憎まなければならなくなる。

 悲しみとやるせなさの捌け口がなくて、手当たり次第に八つ当たりした。あんなの、持て余した感情を誰かにぶつけたかっただけだ。だって、優しい月臣なら黙って受け止めてくれると、陽雨は知っていたから。


「ごめ、なさ……ごめんなさい……っ。伯父様、おじさま……嫌いにならないで、……ひとりにしないで……おじさまがいなくなったら、わたし……っ」


 縋りつく陽雨を受け止めて、月臣は痛ましげに顔を歪めた。それから涙でぐちゃぐちゃになった陽雨の顔を覗き込む。


「陽雨。私が陽雨を嫌いになるわけがないだろう? 私の可愛いおひいさま。たとえおまえに嫌われたとしても、私はずっとおまえの味方だよ」


 泣きじゃくる陽雨に言い聞かせて、月臣が陽雨の手を握り返す。何度も温かい手のひらに背を撫でられて、徐々に陽雨の呼吸は落ち着いていった。陽雨自身は落ち着いたが、熱で体力が削られているところに泣いたせいで、体温はさらに上がっていた。

 呼吸を荒くし始めた陽雨に気づいて、月臣が毛布を肩まで引き上げた。眠りを促すように手のひらを翳し、不安げな視線を向ける陽雨に宥めるような笑みを浮かべる。


「体がつらいだろう。そろそろ眠りなさい。おまえが眠るまで、ここにいるから。ひとりにしたりしないから安心しておいで」


 ひとりではない。そのことにどうしようもなく安堵して、陽雨は月臣の手を握ったまま、息苦しさの中で意識を手離した。

 悪霊になっても妻のことしか頭にない父親も、コンプレックスを刺激する存在でしかない母親も要らない。唯一絶対の庇護者たる大好きな伯父がいれば、陽雨はそれだけで呼吸の仕方を思い出せた。

 浅い眠りが断続的に続き、時おり目が覚めてはまた夢うつつに意識を失い、夜になっても自力でベッドから起き上がることもできない陽雨を、月臣は何度も様子を見にやって来た。熱くて痛くて苦しくて、そんな中でも瞼を持ち上げると月臣が目を合わせて微笑んでくれるのが嬉しくて、あれだけ全身に障りを受けたのも功罪だと、陽雨は高熱に浮かされながら不謹慎なことを考えてしまった。

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