すべてが完璧だと思えた日に・誰のものでもない土地で・貝殻を・手紙と共に渡されました。
気妙な貝殻が水面を漂っていることがあると、仲間内の漁師で話題には上ったが、誰も気味悪がって手出しはしなかった。きらきらと光る貝で両手に抱えるほどあったが、魚を捕るのが優先であるこの海域では誰も貝に興味を持たなかった。たまに網に引っかかることもあるが、すぐにベテランの漁師の手によって海へ放り出される。そんなことをしているものだから、砂浜に打ち上げられているだろうと思ったが意外なことに漁師町の方にはなにも流れ着いてはこなかった。海の浮遊物であればいずれ漁師町の方に流れ着くのに、何故か多少なりとも波のある場所にしかいない貝は不気味であった。そのせいでますます漁師は気味悪がり、その貝殻に触れるのを嫌がった。だから漂っている貝に興味を持ったのは、ある若い漁師だけであった。
「もらってもいいですかね?」
彼は珍しい経歴を持ち、親子から海の家業を引き継いだわけではなく都会からのIターン組だ。一度都会で挫折した経験から、自然に触れたいとやってきたらしい。変わり者だと思っていたが、一銭にもならない貝殻なんて誰も興味を持っていなかったので、先輩達は勝手にすればいいと許可した。見たところ、中身も無いため新種の貝かもしれないとその若い漁師は学術的な価値を見いだしたようである。さっそくSNSに載せてみると、その美しさでかなりの数のインプレッションを叩き出した。そのアカウントに、漁港の一組合員だと分かるようにしていたから、漁港に貝を見に来たいという申し出が殺到したようだ。だがそれはあくまで彼のSNSのアカウントに起こっている問題であり、漁港には関係がない。そうベテラン達は冷めた目で見ていたが、どうやら彼らの予想よりも遙かに大きく、市が動き出した。市から、観光地にしてはどうかと要請がきたので、漁師達は皆顔を見合わせて驚いたものだ。何せただ巨大なだけで、中身もない新種の貝殻である。その貝殻だけで観光になるものかと、荒らされたくない組合は皆反対した。だが目先の金に吸い寄せられてしまった市の説得は激しく、また連日貝殻について学者まで調査協力を依頼してきたものだから、ついには漁港側は折れて、通常業務に支障が出ぬようにとの条件で貝殻を集めることになった。見つかったのはたったの三つ。三つ回収したところ、新たにその貝殻が流れ着くことはなかった。不思議なことに、町にもたらされたのはたった三つだけだ。まるで三種の神器のようで神秘的じゃないですか、と若い漁師が弾んだ声を出すのに、ベテラン達はため息を吐く思いだ。
金回りがよくなることは望ましい。だがそうやって目先の金につられて身を滅ぼしてしまった場所は、日本各地を探ればいくらでもある。田舎特有の閉鎖性は、身を守るための手段でもあるのだ。そこを、若い漁師が切り崩してしまった。これだから余所者は困るんだと、中でもベテランの漁師が吐き捨てたが、船を下りた途端にSNSとにらめっこをしている若い漁師には届かなかった。
「この貝は新種だと認められました」
美しいこの貝殻は、どうやらアメリカ合衆国にも流れ着き、人々の好奇の目にさらされているという。そんなテレビ番組を見ながら、煙草を吸い、漁師達は不安そうに画面を見つめた。見つめたところで、画面の中のアナウンサーはにこりともせず淡々と新種の貝について説明をしている。そのフリップの途中に、若い漁師の写真が出てきたので誰かがテレビを切ってしまった。
「どうして切るんですか?」
若い漁師は非難めいた言い方をしたが、ベテラン達は肩を竦めて大げさに息を吐くだけだ。
「この美しさは芸術性が高いと美術市場でも評判になり」
「高値で市場では取り引きされて」
「史上最高の高値がつき、」
「この貝殻がどこからきたのか、徹底調査!」
日夜テレビや新聞、雑誌ではこの新しい貝殻の美しさを説き、価値が高まっていることを説明し、それに伴って生まれるどこからきたのか、どんな生き物なのかという疑問が高まっている。不況のご時世で素晴らしいニュースが少ないせいで、この貝殻のニュースは喜ばれたし、地域振興活性化に市役所は沸いている。だが肝心の漁師達は皆冷めた顔をしていた。海にいくらでも転がっていたものを、今は転がっていないにしても、海の物をここまで芸術品として付加価値を無限に高めていくのに冷めた目をしていたのだ。観光客が漁港にやってくることも増えた。三つある貝殻は、新設された展示場に恭しく飾られている。この貝殻のためのツアーも出来た。そんな熱気など、煙草を吸い冷ややかな目をしている漁師達を燃え上がらせることはない。かえって仕事の邪魔になっているので、好ましく思える要素もなく、若い漁師だけが先駆者のように率先して観光客を先導し、漁港の物を買わせるよう仕向たりした。そのおかげで漁港の金回りがよくなり、貝殻の一つを所有している若い漁師は、先駆者の起業家のように振る舞うことが出来た。だがそれでも、ベテラン達は良い顔をしなかった。その貝に、得体の知れない不気味さを感じたのである。
「海のもんは海のもんだ。祈りもなく取ったらいかん」
「あの貝殻は不気味だ。頼まれてもいらん」
ベテラン達は皆口々にそう言ったが、若い漁師はそんなことには構わず、ただ貝殻の集客を日々喜び、貝殻の魅力について語り、そして貝殻に依存している。それが罰当たりな行為に見えたのだった。
さて、若い漁師は漁師をやめることにした。一つ持っている貝殻を米国の富豪に売却することにしたのだ。当然市役所は猛反発をしたが、彼は今までの功績を立て並べ、いかにもこの町の為に仕えたのだからと言わんばかりの態度で、貝殻を一つ持って約束の場所に立っていた。なんの障害もない完璧な日だ。青空に雲一つとてない。この貝殻を引き渡し、彼は大量の金を手に入れて都会にまた戻るらしい。いったいIターンとは何だったのか、若い元漁師は夢に金に目がくらんでいた。交渉元の富豪の代理人は、空港を出たらこの町にやってくる。そこで貝殻を引き渡し、ここで一発人生を逆転させるのだと、元漁師は鼻息荒く待っていた。
彼はこの取引の前に、ノートをちぎったような手紙をベテランに渡されていた。漁師を辞める旨とお礼を述べた後、渡されたものだ。だが彼はそれをポケットの中で握りつぶしてしまって、新しい都会での勝ち組の生活に胸を、華を大きく膨らませていた。もうすぐ、彼の命運を変える出来事がやってくる。憎らしいほど晴れ渡った空の下、後に人貝と呼ばれる貝が誕生することになるのだった。