六畳間から見下ろすホーム
そのアパートに越してきたのは、3年前。通勤の都合で探した物件であった。駅から歩いて1分といううたい文句どおりに、裏手には駅があった。
居間の窓のカーテンの隙間から、丁度正面に駅のホームが見える。
窓ガラス越しに差し込む夏の強い陽射しに目を細める。構内に立っている人々もまぶしそうに手を目の上にかざしひさしをつくっていた。
ホームから警笛が鳴り響き、暑さでゆれる景色の向こうから銀色の車体が近づいてくる。
最初に窓が震えだし、足元にも揺れを感じた。振動で揺れる軽いものはテーブルの上に置かないようにした。写真立ても伏せている。
部屋を案内する不動産屋が契約を急かした理由は、ここに住み始めてから理解することとなった。
振動も住人の頭を悩ませる問題であったが、もう一つ、それはホームに立って自分の部屋を見上げるとよくわかった。
帰り道を急ぐ人々が足早に通り過ぎる中、ホームに立つ自分を俯瞰する。視点は自分のアパートの部屋からのもの。いまはカーテンに仕切られ、他の部屋の窓もカーテンに仕切られている。
カーテンを開くのは夜の時間帯だけと決めていた。
越してきたばかりの頃、何気なく見下ろしているとホームの人間と目が合って気まずい思いをした覚えがあった。
部屋に帰ると、さきほどまで自分が立っていたホームを見下ろす。明りを落とした部屋の暗闇に包まれながら、人々の日常の一部を覗き見る。
世界は薄暗く、黒く濁った水中のようだった。ガラス越しに見える世界に安らぎを感じていた。
昔からだれかと目を合わせることが苦手だった。なぜかはわからないが自分が否定されている気分になった。
だから、あの部屋からのぞく風景は好きだった。一方的に誰にも気づかれることなく、他人の存在を感じることができたから。
今日は休日だったが、同僚のミスの穴埋めのために昼から出勤するように言い渡されていた。
仕事の片がついてようやく電車に乗ったのは夜の0時前、終電後のホームに立つ人間はまばらだった。
視線は駅のホームの先端に向かう。まっすぐにのびるコンクリートが途切れた先、緑色の金網が見える。
事件が起きたとき、野次馬が集まって線路を眺めていた。今はもう誰もいない。あれから数日も過ぎて、ニュースで数秒だけ流れただけで日常の中に埋没していった。
大勢にまぎれて立つことと、改札口から離れた不便な場所まで歩くことを比べた結果、後者を選んだ。
線路の上を見るが、そこには何も残っていない。
黒い作業服を着た男たちが、ホームを行き交い線路を見下ろしたりしゃがみこんで調査していた。いずれも険しい顔をしていた。その顔の皺まであの部屋から見えていた。
ペンキでオレンジに塗られた電車の乗り口を見下ろしながら躊躇する。あの時、同じ場所に自分も立つということになる。
電車が急ブレーキをかけた金切り声や、人々のざわめきが頭の奥から聞こえてくる。
迷っていると、気配を後ろに感じた。
「……どうして、警察に言わなかったのですか?」
全身の肌が引きつり震えだすような緊張感に襲われた。
彼女だ。
振り向かなくても、それがわかった。
「この駅はよく使われるのですか?」
声が耳に入ってきたとき、それが自分に向けられた言葉だと気づかなかった。数秒の間をおいて、「はい」とだけ短く返事をした。
「私もここが最寄り駅なんですよ。もしかしたら、別のときに擦れ違っていたかもしれませんね」
柔らかな口調で交わされるごくありきたりの世間話。
背後に立った気配は動こうとしない。
どんな気持ちで彼女がここに立ち、どんなことを思っているのか何も分からなかった。
「そういえば」
よくある世間話の前振りのように話しかけられた。
「この前、ここで事件があったらしいですね。私もそこに居合わせたんですよ」
「事件……?」
聞き返すと、彼女は沈黙を返す。こちらも黙っていると、「不謹慎な話ですが」と前置きをしてから駅で人が死んだのだと彼女は説明する。特急電車が通り過ぎるときに、ホームに人が転落してはねられた。ブレーキを踏んだが、間に合わず即死だった。
「ブレーキ音に驚いてみんなが振り返って、それで事件が起きたってわかったそうです。だから、最初に気がついたのは運転手だそうです。不思議なものですよね、あれだけたくさん人がいたのに」
上手く返事ができただろうか。
言いつくろうように彼女は「変な話しをしてごめんなさい」と淡々とした口調で謝ってきた。
再び沈黙がやってくる。時計をみると、もうすぐ電車のやってくる時刻に近づいていた。
「……ねぇ、知っているんですよ。あのアパート住んでるのですよね」
右の耳をかすって彼女の指が肩越しに突き出された。白い指先がアパートの窓の一つを指差している。先端が指す先をたどっていくと、自分がいつもホームを見下ろしているガラス窓を見上げた。
ガラス越しに見えたのは―――彼女の細い腕が彼の背中を押すところだった。
彼女には恋人がいた。
二人はいつも人の少ない端を選んで、距離をつめて隣に立っていた。楽しげに話す彼女の顔を覚えている。
だけど、二人が一緒にいるところを見る回数は次第に減っていった。
あるときから別の女性と並んで立っている彼を見るようになった。
その日、彼は一人でホームの端に立っていた。電話に夢中で、背中に立つ気配に気がついていなかった。
ガラス越しに息を殺しながら、細い腕がそっとその背中に伸ばされるのを見ていた。
「聞こえたんです。向かいのアパートから『やめろ』っていう大きな声が」
あのとき、思わず声を出してしまった。
びっくりしたようにこちらを見た男と目がまだまぶたの裏に焼きついている。
線路に落下した彼はわけがわからないといった表情で、目の前に迫ってくる電車を呆然と見ていた。
轟音と振動の塊が彼の体を通過し、視界からその姿が消失した。
それまでの間、彼女は能面のような無表情で目の前に視線を固定していた。
遅れて聞こえてきたブレーキ音に、それまで棒立ちだった彼女ははっとしたように顔を上げた。
電車の先から慌てて降りた運転手が何かを叫んでいた。
そして、彼女はようやく周囲の騒ぎに気がつく。それまで他人の存在など気がついていなかったように。
顔をゆがめて足早に立ち去っていった彼女の背中が遠ざかるのと入れ替わりに、異変に気がついた人々が集まりだした。
ニュースでは彼のことは落下事故と報道されていた。運転手も駅を通過するときに、車体に何かがぶつかった激突音で初めて気がついたらしい。それは乗客も同じで、その場にいた誰もがその瞬間を見ていなかった。
アパートに聞き込みにきた警察から聞いた話だった。
叫び声も二人にしか聞こえなかったらしく、詳しく聞かれることなく警察は帰っていった。
そうして、誰にもわからないまま事件は幕を下ろした。
ホームの端に立っているのは自分たちだけだった。
広いホームのなかで切り取られた空間で、静かに時間が流れていく。
じっとりとした暑さの中、目の前を横切っている線路を見つめた。熱せられたレールの錆が鼻まで届いてきそうだった。
やがて、聞き飽きたアナウンスがホームに流れる。
『ご乗車のお客様は白線の内側までお下がりください』
線路の先に目をやると乗る予定だった電車が近づいてきている。レールの継ぎ目を乗り越える音が空を飛び越えて耳に届く。
急ブレーキの後に焦げた線路から立ち上る白い煙、赤く散ったものを浴びた石くれ。黒くくすんだ液体が枕木の上を流れていったのを思い出す。
足裏の黄色のブロックの突起を感じながら、ぎゅっと目をつぶった。
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駅に電車が到着し、重い金属の車体が鉄のレールの上でゆっくり停車する音が聞こえた。
「それでは」
耳元で囁かれた声にびくりと肩を震わせて目を開く。
革のショルダーバッグを肩にかけ、スーツ姿の若い女性が横を通り過ぎていく
これまでに彼女を遠くから見ることはあったが近くで見るのは初めてだった。その姿は予想以上に痩せていて、不健康そうだった。
「あなたのこと、ずっと見ていますからね……」
電車に乗り込む彼女の背中を呆然と見送る。
電車はゆっくりと進みだす。一度、身じろぎするように車体を震わせ、つり革が一斉に同じ方向に流れる。
ガラス窓の向こうから固定した視線がずっとこちらに向いていた。
彼女のいる窓が遠ざかり、やがてレールの向こうへとかすんで消えた。
レールの上を通り抜けた生暖かい風が頬をなでる。
崩れ落ちそうになる体を支えながら、彼女の声が耳から離れようとしなかった。