幸せのはじまり
朝から食事をするなんて一体何年ぶりだろうか。
焼きたてのオムレツにトマトソースがかけられ、新鮮な野菜のサラダ。カリカリに焼かれたベーコン。何もかもが美味しそう。
……。
……。
……ただ、視線が気になる。
ジルベールは先ほどからじっとリリディアのことを見つめていた。
「あ、あの……食べ方、おかしいでしょうか?」
こわごわと尋ねるリリディアに、ジルベールは慌てて首を横に振る。
「まさか!……い、いや……本当に嬉しそうに食べるな、と思って」
「ええ。朝から食事が出来るのが凄く幸せで」
「……」
嬉しそうに答えるリリディアにジルベールは、はっと目を見張る。そしてちらりと、アロナの方へ目をやる。
彼女は複雑な表情を浮かべ一つ頷く。
ジルベールはテーブルの下、膝の上に置いてある拳をぎゅっと握りしめる。
しかし表情は優しい笑顔をリリディアに向ける。
「沢山食べるといい。これからはずっと朝食が出てくるから。こんなに喜んでくれるのなら、料理人も張り切って作ってくれそうだな」
ジルベールはちらりと部屋の隅に控える料理人の男の方を見る。年の頃は四十。まるで我が子を見るような眼差しで、嬉しそうにリリディアのことを見つめている。ちょうど年の近い娘を持つ父親だから尚更であろう。
だが彼は思うのだ。
朝食が出ることなど、ごく当たり前なこと。
平民ですら当たり前なことだ。
故に、リリディアのその喜び様はある意味異常だった。
本来なら何の不自由もない暮らしをしている筈の貴族令嬢が、朝食が出たくらいでこれほどまでに喜ぶとは。
彼女はどんな生活を強いられていたのか。
リリディアは此処に来る前は、父親と継母、異母姉と共に暮らしていた。
継母が血のつながりのない娘を虐げる話はよくある話であるが。
アロナの話では、風呂もろくに入れてもらえない状況だったらしい。恐らく、食事もまともに出されていなかったのだろう。
カエルが食用だったのも、恐らく空腹のあまり庭にいるカエルを食べざるを得なかったからだろう。
皮肉なことにそのおかげで、彼女はジルベールを見ても、恐れることがない……むしろ食料だと思われているかもしれないが。
だけど自分を恐れずにまっすぐに見てくれる女性がこの世にどれだけいるのか。
こうして一緒に食事をしてくれる。
それだけでどれだけ幸せか。
ああ、俺たちは似たもの同士なのだな。
ごく当たり前なことが当たり前じゃなかった。
傍から見ると些細なことなのかもしれない。
それでも今の自分はとても嬉しくて、幸せだ。
ジルベールにとっても、その日の朝食は格別に美味しいものとなった。
その日、ジルベールの案内でやってきたのは屋敷の敷地内にある広大な庭だ。
よく整えられた緑の芝生が遙か遠くまで広がっている。
リリディアを出迎えたのは巨大なドラゴンだ。
普通の竜騎士が乗るドラゴンは、もう一回りほど小さな体格で、メガドラゴンと呼ばれている。
しかし今自分の目の前にいるのは、完全にそれを上回るギガドラゴンだ。
身長二メートル近くあるジルベールすら、ドラゴンの前では小人に見えてしまう。
「ここは私設軍の訓練所でもあり、ドラゴンが降り立つ空港のような役割も果たしている」
ジルベールの言葉に、リリディアは目を輝かせ周りを見回す。
「まぁ、そうなのですね。これだけの広さがあれば、ドラゴンもゆったりとできますね」
実家にもドラゴンが降りて、待機する空き地があるが随分と狭いものだ。
たまに第二王子であるフランクス=レイ=ブルーキングスが、竜騎士を連れ姉の元に訪ねてくる。
その時、待機しているドラゴンたちはとても窮屈そうで、気の毒だったことを覚えている。
その点、ここはドラゴンにとっては待機するのに、窮屈ではない広さがあった。
ジルベールはひょいっとジャンプをして、ドラゴンの背中に飛び乗った。
体格からは想像もつかない軽やかさに驚くリリディア。
「さぁ、君も。鐙の下に綱はしごがつけてあるだろう?まずそれに登ってみろ」
確かに足かけになる鐙の下に綱はしごがかけられている。メガドラゴンと違って、鐙だけだと、またがることができないだろう。しかし、ジルベールはジャンプして飛び乗っているのだから必要がなさそうだが。
(もしかして私のためにわざわざ綱はしごを付けて下さったの?)
リリディアは戸惑いながらも梯子を登る。そして鐙に足をかけられる高さまで登るとジルベールがひょいっと手を引いてくれた。
彼に手を引かれ、スムーズに鞍にまたがることができた。
「しっかり掴まるんだぞ」
ジルベールの言葉にリリディアは首を縦に振り、前方にある持ち手に掴まる。
「行くぞ、ギガ」
手綱を引くジルベール。
ギガドラゴンだから、ギガか。意外と単純……と思ったのも束の間。
コウモリのような巨大な翼が上下すると、豪風が巻き起こりドラゴンの巨体が上昇した。
リリディアは思わず目を閉じた。
慣れぬ身体の浮遊感に、緊張が走り思わず持ち手を握りしめる手を強める。
「見てごらん、リリディア」
ジルベールに声をかけられ、リリディアはようやく目を開けることができた。
そして眼前に広がる景色に目を見張る。
あんなに大きかったヴァルフォン家の屋敷がとてもとても小さく見える。
そして広大だった筈の広場も小さく小さくなる。屋敷より少し離れた場所にあるヴァルフォン領きっての街、フロングの街もミニチュアのよう。
フロングの街は全ての民家や建物が、緑の屋根と白い壁に統一されている。
その美しい町並みは青い海によく映えとても美しかった。
「す……凄い」
「春になったばかりの今は、リリアの花が美しい時期だ」
「リリアの花?」
首を傾げるリリディアにジルベールは優しい声音で言った。
「君の名前に似ているだろう?春になると一斉に薄紅色の花が咲くんだ。リリアの木は神木として崇められていて、千年以上も前から植え続けられている。ディアナ神を奉るディアナ山とその周辺の山は毎年、薄紅色一色になる」
「……」
草原を越え山が見え始めたと思ったその時、薄紅色の海が目の前に広がった。
リリディアは目を見開く。
美しい花の海。
風にのり小さな花びらが吹雪のように舞い上がる。
なんて、なんて幻想的な光景。
「リリディア、という名はあの花と女神の名前から由来がきているんだろうな。きっと君の名を名付けた人は、君に誰よりも幸せになって欲しいと願っていた筈だ」
「お母様……」
以前、自分を気にかけてくれていた使用人が教えてくれた。
リリディアという名前は母が名付けた、と。
母は優しくも厳しい人だった。
目から涙がこぼれる。
母が生きていた時は幸せだった。
自分のことをとても愛してくれた。
リリディアという名前は、母が自分を愛した証だ。
ジルベールがそんな彼女を後ろから優しく抱きしめる。
温かい……。
ああ、本当に自分は今、幸せだ。
「ジル様、ありがとうございます」