絵本の貴方にキスをするだけ。
雨が降ってきた。隣の部屋なのに、走って数秒なのに、帰るのがとても億劫になった。
「かすみ姉さん、まだいてもいい?」
甘えた。
「いいよ、ずっと居なよ」
許された、と思った。
ぼろアパートに引っ越したのは、大学を中退してフリーターになった私を周りもそして私自身も受け入れられなかったからだった。ダンスサークルに入ってちょっと人間関係で失敗したからって私はすぐ逃げ腰になった。思えば、逃げてばかりの人生だった。
大学にも行かず、親が払ってくれている授業料を無駄にしてバイトに明け暮れた。半年休まず続いたサークル活動はすぐに辞めた。単位を落として両親をがっかりさせた代わりに多少の貯金が溜まった。
最低だ、私。そんな気持ちがぐるぐる身体を回って毒となって、気づいたら拒食症なんかになって体重が減って、あぁダイエットに成功したなぁなんて。
そんな状態で、隣に越してきた私をかすみ姉さんは助けてくれた。長くて黒い髪に健康そうなきれいな肌、ついでに姉御肌。
縋った、伸ばされた手をみっともなく力強く握った。
私より6歳も年上のかすみ姉さんは絵本作家の端くれで、バイトをしつつ絵本を描いていると言った。休みの日はこうやって入り浸って絵本が出来上がっていくのをじっと見ながらかすみ姉さんの手作りお菓子を貪ってだらだらする。
かすみ姉さんの生い立ちは深く知らない。ただこんなに素敵な絵本を描くんだ。こんなに優しい世界を描くんだ。きっと、こんなクズと普通は出会わないような綺麗な世界にいるんだろう。だって、かすみ姉さんのことを表現しようとしても説明しようとしても語りたくても、こんな簡単な言葉でしか表せない。
「芽衣ちゃん最近、ちゃんと食べてる?あんまり聞くのもなぁと思ったんだけど」
「だいじょうぶ、食べてる。っていうか姉さんがいっつもたくさんご飯くれるじゃん」
「そっか、ならよかった。私のご飯、美味しい?」
「うん、美味しい。私の身体、半分くらい姉さんのご飯でできてる」
「それは嬉しいな。私、幸せだ」
姉さんは嬉しそうに笑った。
「今日は、雨が止んだら帰る?明日は仕事?」
「帰りたくない……明日は仕事、出勤やだ」
さっき急いで入れた洗濯物を畳む姉さんの綺麗な手が一瞬止まる。
「しんどいの?」
「ううん、嫌だなぁって、たまには連休が欲しいよ」
連勤はあっても連休はない。求人を見たときはそこにちゃんと週休2日って書いてあったのに、実際勤めてみると週休1日でしかも残業代は出ない上に毎日1時間は残業することになる。
やめられないけど、やめたい。
「あーあ、私が男ならなぁ姉さんに養ってもらうのに」
「そんなにお金ないよ?私。でも、そうだなぁ」
姉さんは珍しく、腕を組んだ。
「芽衣ちゃんくらいなら養えるかも」
一瞬、思考が止まった。姉さんは続ける。
「お仕事やめて、主婦と秘書してくれたりする?もう少し、絵本を仕上げるペースをあげたいの。最近仕事も結構もらえるようになってきたし。一緒にすむのはどう?」
さすがに、それは嬉しいけれど。できない願望というか、弱音を吐いただけというか。
「……冗談きついって姉さん、さすがに申し訳ないよ」
私がわきまえるべきだった。最近姉さんに甘えすぎているから、優しい姉さんは気遣ってくれているのだ。
「冗談じゃないよ」
「え」
「本気で言っているの」
急に声色が変わった姉さんに内心びくりとした。もしかしたら、その時に思うところが、心当たりがあったのかもしれない。
「じゃぁ、秘書をするよ!姉さんの描く絵本好きだから、お手伝いする。だからたまにこうやってお菓子とご飯食べに来てもいい?」
秘書が一体どうゆう仕事をするかはわからないけど、面倒だけど、今まで助けてもらった恩返しはしたい。それに何だか急に雰囲気が変わって、怖い。せっかく分かってくれる人を受け止めてくれる人を見つけたのに何だかこの話を断れば距離が空いてしまうような気がした。
今まで図々しかったかな。勝手に、姉さんの優しさに許されすぎたかな。怒っているだろうか。女友達のようで、お姉ちゃんのようで、こんなにも暖かい……必要としていたつながりを失くしたくない。
「芽衣ちゃん」
急に両手を握られた。あまりの出来事に頭が回らなかった。
「好き」
好きとは一体なんだったかを、ぼーっと考えた。
「愛しているの」
頭が真っ白になった。今まで姉さんと楽しく過ごした時間がぽろぽろと崩れていく。
「え、どういうこと」
「友達ではもう居られないの。芽衣ちゃんは私のこと、恋人として見られない?」
「……」
「突然だよね、びっくりしたよね」
びっくりした、びっくりしたけれど。
「嫌い、気持ち悪いって思っちゃったかな。私も、私もね、初めてなの。女の子のこと好きになるの」
そんなことない、気持ち悪くないって心から思っているのかどうか、そんなことがわからなくて、首を横に触れなかった。声なんて、出るわけがなかった。
「たくさん、悩んだの。でもね、この恋を成就させられたらって思っちゃって」
どうしよう、どうしたらいいだろう。
「そしたら、好きって気持ちが留まらなくて」
「あの……えっと、私は、そのわかんなくて」
沈黙が、続いた。重くて長くて、文鎮に押さえられた半紙になったような気分だった。筆で文字を書いてほしいのに、書かなければいけないのに、どうしても書き出せない終らない夏休みの宿題だ。
「ごめん、ごめんね。こんなこと、せっかく頼りにしてくれていたのに」
謝ってほしいわけじゃない。待って、待って。
「……芽衣ちゃん、今日は帰ってくれる?」
いつものように私の頭に手を伸ばして、でもいつものようには撫でないで、その手は引っ込んでグーを作って震えている。
それなのにかすみ姉さんが笑うから、何もわからないまま飛び出した。
酷い雨が少し頬に当たって冷たくて、胸が痛かった。
それから、1ヵ月かすみ姉さんを避けた。かすみ姉さんも私を避けていた。
それから、2ヵ月後にはかすみ姉さんは引越しをしてアパートを出ていた。気づかなかった。
それから、1年経って姉さんの本が人気になってテレビでも取り上げられるようになった。
それから、2年経って家を飛び出していた姉さんは家に連れ戻されて、お見合いをさせられて、結婚したことをSNSで知った。
それから半年経って女の子がお姉ちゃんに撫でられる絵本をSNSに投稿したことがきっかけで人気が出たことを知った。私のような女の子だった、最後はお姉ちゃんが家を出て、女の子は自分で頭を撫でて、お姉ちゃんは写真を撫でていた。
姉さんはその話を実話を元にしているとインタビューで話していた。悲しそうに愛おしそうに、背表紙を撫でながら。
逃げたのは私だ。消したのは姉さんだ。はじめようとしたのは姉さんで終らせたのは私だ。
今となってはどうしようもない、この高鳴ったままの胸を元に戻して欲しい。
https://tukikage0123.wixsite.com/amamiyarui にUPしたお気に入りの小説です。
(誤字等少し訂正してます)
最近は更新できていなかったのでそろそろ触りたいなぁ。
百合ものたまに書きます。かなり、癖があって好きです。
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