3.離散
皆、疲労困憊ではあったが表情は清々しい。森の中で小川を見つけそこで顔を洗うとそれだけでさっぱりした。
カティアの故郷であるヴィースハールデン王国の王都にはここからさらに三月ほどかかる。鉄道が国内全土を走っているアルキア王国と違って、ヴィースハールデンは王都を中心に領土の5分の1程度しかレールを敷いていない。これは鉄道の技術がアルキアにまだ劣ること、国の領土が比較できないほど広大であることと、人口が王都にほとんど集中していることが原因だ。
しかし、追手が国境を越えてまでやってくる確率は低いため、そこまで急いで王都までの道を進むことはしなくてもよくなった。もちろん此度のアルキア王国での出来事は書をしたためすでに早馬を走らせている。
緊迫した空気が霧散し、景色を見る余裕ができた。ゆったりと馬車に揺られながら姫と談笑をしていると、ふいに視界の端にチカリと何か光るものが見えた気がした。
「どうしたの、アイサ?」
「いえ、山の方で何か反射したような……」
アイサがその言葉を発するとほぼ同時に、カティアがパッと外に視線を巡らせると、すぐにアイサと姫を押しつぶすようにして身を伏せた。
「お、お母様?」
「しっ、静かに。賊かもしれません。影がすでに偵察に行ったようです。少人数であれば問題ないのですが」
しばらく馬車の音だけが聞こえてくる。椅子に座ったまま腰を曲げた窮屈な状態に姫が苦しそうに呻く。と、嘶きの声と斬撃、怒声がどんどんとこちらに近づいてきた。姫は小さく悲鳴を上げて縮こまる。カティアは小さく舌打ちし、
「あなたたちはこのままじっとしていなさい」
顔を上げて眉を顰める。砂埃が舞い上がる。それは賊の規模が彼女の想定以上であったことを示していた。カティアが御者台へ消える。
馬車のスピードが上がるが、騎乗している彼らに追いつかれるのは時間の問題だ。怯える姫をギュッと抱きしめながらアイサは大丈夫だと彼女を励まし続けた。それは己自身にも向けられたものであった。
何度も大丈夫だと呟き続けていると、馬車のスピードがだんだんと遅くなってきているように感じた。そして、ついには止まる。喧噪は大きくなり、自身の心臓の音がやけに耳に触る。
「こっちですっ」
急に飛び込んできたカティアがアイサと姫の腕をとって馬車から飛び出した。足をもつれさせながらも賊と切り結ぶ影や使用人たちの脇を通り抜けていく。無我夢中で走った。姫を半ば引きずるようにしてあの場所から一刻も早く逃げ出すために。
どれだけ走り続けたのだろうか。全身汗だくで砂埃にまみれ、少しでも足を止めれば倒れ込んでしまう。早鐘のような心音が耳の横で鳴り響き続ける。喧噪は聞こえなくなっていた。それでも走り続け、ある時急に木々の切れ間、森の中の開けた場所に出た。
「賊は撒けたようですね」
肩で息をしながら周囲を見渡しカティアが言った。その声をきっかけに、アイサと姫は地面に倒れ込む。土の冷たさが熱された肌に心地いい。息も絶え絶えな二人を見下ろしながらもカティアは周囲に目を配ることを忘れない。
「影の者と合流するまで気は抜けませんが、とりあえず今のうちに体を休めましょう」
日が暮れた森の中、頼りない小さな薪を囲む。姫が持っていた飴玉3つとカティアの持つ携帯食料が今日の晩御飯だった。肌寒さ、空腹、そして心細さ。3人の表情は晴れない。
日が明けても影や使用人たちと合流することはできなかった。
「このままここに居てもどうにもなりません。先を進みます」
川の水でのどを潤し、カティアが言った。手持ちの食料はもうない。自分たちが今どこにいるかも分からない。ヴィースハールデンの人々はほとんどが王都周辺で暮らしているが、それでも小さな村々が領土全域に点在している。それにすがるしかなかった。
歩きながらカティアが食べられる草や木の実を見つけ出し何とか飢えをしのぐ。丸々と太った何かの幼虫を食べるのにはとても勇気がいったが空腹も相まってか意外に美味しいものであると知れた。
3日目の朝。上空に白煙が立ち上っているのを姫が見つけた。
「人がいる!!」
喜び勇んで駆け出そうとする姫をカティアがとっさに腕をとって引き留める。
「待ちなさい。賊かもしれません」
一瞬生気の戻った瞳がすぐに陰った。カティアはアイサと姫にその場に残るよう言って煙の元へ慎重に向かった。
しばらくの後、妙に焦った様子で戻ってきた彼女は小さく首を横に振る。
「残念ながら誰もいませんでした。しかしすぐにここを離れた方がいいかもしれません」
それだけ言うと、カティアは二人の手を取り煙から遠ざかる。
「お母様、あの煙は何だったのですか?」
「山火事です」
「え……?」
「私があの場についたときにはすでに何本もの木に燃え移っていましたのでこれから一気に燃え広がるでしょう」
淡々と語っているようで実際カティアはとても焦っていた。握る手のひらから汗がジワリと滲む。誰かが人為的に火をつけたのか、それとも自然発火か、原因は分からないが一刻も早く逃げなければ火に飲み込まれてしまう。自分たちの不運を呪いながらもカティアは子供たちを連れて一心に突き進んだ。
ようやく雨が降り始め火事の勢いがおさまってきたころ、彼女たちは泥水にまみれた足を止めた。ゴロゴロ重低音を響かせる曇天を見上げる。不機嫌そうな雨模様に姫はカティアにガシリとしがみつく。
カティアはそんな姫をしっかりと抱きしめてから、ぬかるんだ獣道に足を盗られながらどこか休めるところはないかと周囲を見渡し、額に張り付いた髪の毛を乱暴にかきあげた。
「……いい加減、しつこいですね」
カティアの視線の先。錆びついた剣を握り絞め、ぼろを着た男たちが下卑た視線を無遠慮に彼女たちに向けていた。ニタニタといやらしい笑みを浮かべる彼らに、姫は小さく悲鳴を上げて後退る。アイサと姫を背後に隠し、カティアは鋭く男たちをねめつけて、アイサに小さく行きなさいと言葉を発す。
一瞬ためらったのち、アイサは姫の手を握り絞めて大きく頷くと、男たちが現れた反対の道を脇目も振らずに走り出した。
大丈夫、大丈夫と、自分自身に言い聞かせながら、お母様と泣き叫ぶ姫を無理やり引っ張り土砂降りの中を走りぬく。
しかし、足元も悪く疲労困憊の女子供が簡単に逃げられるほど賊の男たちは甘くない。ピリッとした傷みが頬に走った。目の前の木の幹に矢が刺さる。賊の誰かが矢を放ったのだ。頬を濡らす生暖かなものを無意識に拭い、アイサは彼らと対峙することを選ぶ。
「姫、逃げてください」
王妃教育の一環として護身術も習っていた。もちろん敵を倒すためではなく、敵から逃げるため、護衛が来るまでの時間稼ぎとしての護身術。実践は初めてだ。それでも、少しでも時間が稼げるのなら、王妃はもういない。カティアとも離れ離れ。アイサの居場所を初めて作ってくれた彼女たちの愛したもの、最後まで残ったアイサの居場所。姫だけは守らなくてはならない。
呆然と立ち尽くす姫にもう一度怒鳴りながら逃げるように促すと、力いっぱい彼女を突き飛ばした。我に返った姫はかすれた声でアイサの名を呼ぶ。しかし、アイサはもう振り返らない。遠のいていく足音に安堵のため息を吐きながら、眼前の敵を見据えながらじりじりと後退していく。敵はアイサを侮り隙だらけなはずなのに、それでも手は震え叫びだしたい恐怖に駆られる。気が付けば崖の縁まで追いやられ、彼女が逃げられないように賊が囲む。結局付け焼刃の護身術など何の役にも立たなかった。
余裕しゃくしゃくな薄気味悪い笑みを浮かべた賊の一人が刀剣を掲げた。
――ドンッ
光と音はほぼ同時。雷が刀剣を掲げた賊に直撃した。とっさにアイサは背後に跳び退き、身を縮こませる。そして浮遊感。あっ、と小さく声が漏れた。自分が今どこにいたのか思い出し、そして自分が今何をしてしまったのかを理解する。
これから数秒後の自分の末路に思い至り、そこから何も考えられなくなった。恐怖なのか、諦めなのか、あるいは気でも触れてしまったのか、気が付けば口元に小さな笑みを浮かべたまま、彼女の意識がブツリと途切れた。