4.
里子はもっといろいろ聞いてみたかったのだが、梅乃に聞いても、わけがわからなくなるのではないか、とふと思い、こんな場所に興味を持ってしまった自分がなんだかおかしくなってしまった。
一枚ずつの油絵をていねいに見てみることにした。
里子には絵画を読み解くような知識はなかったが、それぞれの絵は生き生きとしているように感じた。花の形にこだわるような繊細さはなく、色の塊として、絵からはみださんばかりにっ主張してくるような強さがあった。
「あの!」
と里子はもう一度梅乃に声をかけた。
梅乃はぱっと目を覚ましたようで、里子を見てまたにっこりと笑った。
「この絵はいつごろ描かれたものなのですか?」
梅乃はその柔らかい笑顔をくずさず、少し遠くを見るような感じで、しばらく考えていたが、
「いなくなる前ですよ」
とポツリと言った。
たぶん、梅乃に話しかけても、里子が求めるような答えは返ってこないのだ。そう思うと、さらにおかしくなり、でも、なにかその場所に引き付けられるようで、里子は今度は庭に目をやり、廊下にしゃがんでみた。
この心地よさはいったい何なのだろうか? 里子は廊下にぺたりと座り込み、庭を眺めた。
そうやってぼんやりと、数十分が過ぎた。
さきほど梅乃がまどろんでいたように、里子もとてつもなく眠くなってきており、ふと目を閉じると、そこでうつらうつらとまどろんだ。その場所には何か人をすっぽり包んで安心させるような空気が満ちていた。
「あらいやだ。お母さん、またここで寝てしまって」
と言う声で里子の目が覚めた。
「あら、いやだ! お客様がいらしているの!」
と入り口の方から女性が里子のいるほうへと首を出し、
「あらあら、いらっしゃいませ」
と言った。
里子の目は完全に覚めた。だが入り口の方を見ながらも、次の行動に移れなかった。夢の続きにまだいるような、頭の中にぼんやりと霞がかかったような状態だった。
「どうぞ、こちらでご一緒にいかがですか?」
里子は身体の節々を確かめるようにゆっくりと立ってみた。
玄関に来てみると、ショッピングカートから何やら出して上がり框に並べている女性がいた。年は里子より少し若いくらいだろうか。軽く茶色に染めたショートの髪がよく似合っている。ふっくらとした女性だった。
「どうぞ、どうぞ」
と言うその女性と目があった。梅乃の表情が墨絵だとしたら…、この女性はまるで油性マジックという感じの、はっきりくっきりした黒い眉、目も大きく、その目がまっすぐに里子に向けられた。
「あ…」
と言いながら、里子がとまどっていると、その女性は丸い大きなお盆の上にサンドイッチを並べ始めた。
「良かった。あたしたちいつもここでお昼を食べるものだから。今日はたまたま…、何かふといつもより多めに持って来たのですよ。お客様が来ることがわかったのかしら。どうぞどうぞ。ご一緒に」
「はあ」
とまだはっきりしない頭で、いったいこの人誰だろうと思った。さっき梅乃の話に出て来た娘さんなのだろうか。ということは、この人が坂田リマなのだろうか?
その人は紙コップをいくつか持って来ており、大きいポットを取り出すと、カラカラと氷の音をさせながら、三つ並べた。
「ごめんなさいね。ここには食事のできるようなテーブルがなくて」
と女性が笑った。
「あの、先日来た時に、『坂田リマ記念館』となっていて…」
と里子が話してみると、女性はサンドイッチを並べる手を止めて、大きく目を見開いた。
「あら! いやだ!」
そして、おかしそうに、クククとお腹を抱えて笑い出した。
里子はわけがわからず、女性を見つめた。老婆はその女性の笑いに釣られたのか? 一緒におかしそうにしている。
「ごめんなさいね。わけがわからないでしょ?」
と女性は笑いを押しとどめるようにしながらも、クククと洩れる笑いをこらえるように、サンドイッチを並べ、
「ほんとうにごめんなさい。でもここではお話しできないわ」
と老婆の方を向き、「ね?」と言った。
「ほんとね」
と老婆はそれに答えるように言って、また笑っている。
「とにかく、これ召し上がって下さい。ご一緒に」
ちょうどお腹がいい具合に減ってきていた。
サンドイッチはこの女性が作ったものと見えて、雑穀入りの無漂白の食パンから見える、ゆでたまごの黄色、ニンジンの細切りのオレンジ色が鮮やかだった。
紙コップには冷たい紅茶が注がれていて、鼻もとに持ってくると、ベルガモットの豊かな香りがした。
「よかったね、お母さん。今日はお客様があって」
と女性が言った。
「ほんとだね」
と老婆が答えた。
「あの、あの油絵は…」
少しサンドイッチをいただいてから、里子はポツリと聞いてみた。
「ああ。お恥ずかしい。あれは、私が描いたのですよ。私がサカタリマなので…」
と言うと、また笑いのスイッチを入れてしまったようで、女性はクククと笑い出し、またそれに釣られるように老婆が笑った。
「でも、リマさんは…、耳に虫が入って…」
「まあ! それもお聞きになっているの? びっくりだわ!」
「失礼ですけど、じゃあ、あなたはウメノさんの弟さんが残されたお子さんなのですか?」
「はいはい。両親は同時に事故で亡くなりまして。今は戸籍上もこの母が本当の母なのです」
と言ったとたん、リマが突然膝をたたき、
「わかった!」
というので、里子はびくっとして、紅茶を落としそうになった。
「この間、リマちゃんが言ってた! その時に来てくださったお客さまなのね!」
「ええそうですが…」
と里子が続ける言葉を探していると、リマはさらに大きな声で、
「リマちゃんが取材に来てくれる日には即席の看板を出しておくのですよ。そうか! その日にいたのがあなた! すごい偶然だわ!」
と里子を見つめた。
「あ? はあ」
と里子は戸惑い、つなげようとしていた言葉を失った。
「ほんとうに、ごめんなさいね。でも、こんなこと、わざわざ見ず知らずの方にお話しすることでもないし…。それに…。今、ここではお話しできないので…」
とリマは今度は心底悲しいという顔をして、
「お忘れになって、というのも変だし。どうしましょう」
とリマが次のサンドイッチを手にすると、梅乃もまるで真似をするように、
「どうしましょう」
と言い、リマがひとしきり笑うと、梅乃も一緒に笑っているのだった。
「あまりいい考えは浮かばないけれど…」
としばし考えて、
「そうだ! リマちゃんがきっと夏休みの宿題をまとめてくれますから、そうしたらそれをお送りするわ」
と言い、
「もしご不快でなかったら、ご住所を教えて下さいますか?」
と言うので、里子は迷いつつも自分の名刺に住所を書き足して里子に渡した。