3.
九月になっていたが、まだ蝉は騒いでいたし、暑い日も続いていた。
仕事が一区切りついて、ぽっかりと時間があいてしまったその日、里子はまた『坂田リマ記念館』に出かけてみることにした。昼過ぎには暑くなるだろうと天気予報の女性が言っていた。記念館で少し時間をつぶして、どこかでお昼を食べて来よう、と里子は思っていた。
数週間前に初めて知った場所なのに、なんだか何度も行ったことがあるような、不思議な懐かしさのある場所だった。
だが、どうしたのか? 今日は記念館という表示は出ていなかった。
里子は不思議に思いながら、この間は記念館となっていたその平屋の入り口を覗いてみた。
入口の引き戸も閉まっていたが、手をかけてみると鍵は開いていた。
入っていいものだろうか? と逡巡しながらも、好奇心の方が勝って、静かに扉を開けた。
梅乃はこの間と同じように三和土に足を投げ出しって座ってはいたが、ぼんやりと目をさましていて、何もせず、虚空を見つめていた。
里子は何か、近づいてはいけない所に近づくように慎重に一歩、一歩、三和土に足を踏み入れた。
と、梅乃がそれに気が付き、「あら、いらっしゃい」とにっこり笑った。
「靴を脱いでください。スリッパがありますから、それをはいてね…」
「あの、先日うかがったことがあるのですが…」
「あら、前にも来て下さったことあるの?」
「ええ。学生の方が取材とおっしゃっていろいろ聞いていらして…」
「あら、取材なんてまるでニュースか何かになるみたいね」
と梅乃はくすくすと笑った。
里子は唐突に、この人はちゃんと日常の生活ができているのだろうか? と思い、心配になった。世間から隔離された世界で生きている人のように思えた。
「ウメノさん、お食事とか、ちゃんとされていますか?」
よけいなことと知りながら、里子が聞くと、
「あら、名前を知っているのね? わたしのこと知っている人なのかしら?」
と梅乃が不思議そうな顔をした。
「この間うかがった時に、教えていただいたので…」
「あら、そうなの」
と梅乃はにっこり笑った。
「あの、お食事とかちゃんと取っていらっしゃいますか?」
里子は同じ質問を繰り返した。この老婆の生活のことが急に気になってしまったのだ。
「ええ。娘が届けてくれますよ」
と梅乃が答えたので、里子は、この間の学生とのやりとりを思い出しながら、
「あの、娘さんは何人いらっしゃるのですか?」
と確認した。
「一人よ。こどもは一人きり」
「失礼ですけど…、それは…弟さんが残されたお子さんなのですよね?」
「あら、よくご存じね。そうなの、弟がね、残して行ったの」
「ええと…、その娘さんは…」
「リマですよ」
里子は軽くめまいがしたように思えた。意味がわからない…。
「ええと、たしか…。リマさんは三十三歳でお亡くなりになったとか…」
「そうですよ」
「ええと、たしか…。耳に虫が入って…」
「あら! そんなことまでご存じなの! びっくりしたわ。記念館を作ってもらって良かったわ」
梅乃は本当にうれしいという表情で笑い、里子の手を取った。
急に身体に触れられたことで、里子は一瞬身構えたが、この消え入りそうな老婆に何ができるというのか? ふと自分のことがおかしくなった。
里子は言葉を選びながら、慎重に話を進めた。
「リマさんの耳に虫が入ってしまって、それから歩けない病気になられた。でもある日、急に歩けるようになって、出て行ってしまった…」
梅乃は墨絵のような細い目を目いっぱい大きくして、
「まあ! ほんとうに、なにもかもご存じなのね!」
と言い、手に力を込めた。
「ええと…、失礼ですけれど、その…、お亡くなりになったリマさんと、今、ウメノさんのお世話をしているリマさんとは、違う方なのですよね?」
「え? どうしてかしら? リマはリマですよ。同じよ。娘はひとりと言ったでしょ」
その言葉を耳の中で繰り返しながら、里子はふっと梅乃から目を逸らせた。あまり深く考えてはいけない。頭の中がかき回されるような感覚に陥った。
「さあさあ、スリッパをお履きになって下さいな」
梅乃が里子の手を離さないので、里子は戸惑った。
「あらあら、ごめんなさいな。つかまえてしまって。ほうら、だいじょうぶですよ。これでお上がりになれるわね」
梅乃は里子の手をパッと離すと、いたずらっ子のように笑った。
上がってみたけれど、この間と同じだ。説明は何もなく、五脚のイーゼルに五枚の油絵。
と、ひとつだけ先日とは違うものを見つけた。二つ目と三つ目の絵の間に大きな花瓶が置かれており、バラが生けられていた。
里子は入り口を振り返った。梅乃はこの間のようにまどろみ始めているようだった。
「あの!」
と思い切って里子は梅乃に話しかけた。
「このバラの絵は、全部リマさんが描かれたものですよね?」
梅乃は夢からさめたように、里子の方に顔を向けると、にっこりと笑って
「ええもちろん。そのための記念館ですから」
と言い、それを言い終わってしまうと、また眠りに誘われるように、現実から眠りの世界に入ろうとしていた。