宮野の話
僕は昔から、そういう趣味――男を好む性質の男――に、よく好かれていた。僕自体はまったくなんの取り柄もない田舎者だが、彼らはどうしてか、僕に言いようもない魅力を感じるらしいのだった。
だから、神戸美智雄が僕のことを好きだというのは、十分に自覚していた。僕はとうていそういった趣味を理解する気にはなれなかったが、彼はとても金持ちで秀才だったから嫌いじゃなかった。彼は僕に尽くしてくれる。良くしてくれる。だから一緒にいたのだ。
しかし、彼の妙な性癖については、前から気付いていた。ある日、彼の専攻している生物学の研究室へと遊びに行くと、彼は血走った目をして、脇目も振らず、只管その生き物(たぶん、大きさからして鼠だったように思う)を切り刻んでいた。僕の専攻は生物学ではないから、鼠の解剖の仕方など知らないし、彼が純粋に研究でそれを行っていたのかもわからない。ただ、僕にはそれはとても学術的なものとは思えなかった。研究というのは、もっと事務的な、無機質なものではないだろうか。あんなにいやらしい、情念のこもったものではないのではなかろうか。彼はきっと、あの肉塊を口に入れても平気だろう。彼の切り刻む様は、熱烈な愛撫にも似ていた。きっと彼自身は気付いていないのだろう。その凄まじい情念と視線に。
僕は確かにそのとき恐怖を覚えたが、その感覚が自分にさえ向かわなければいいと思っていた。彼は金持ちで優秀で、そして美しいのだ。彼は美青年だった。まったく僕には喩えようもないくらいに。男色趣味はないが、密かに憧れてはいた。そして、僕は彼を連れまわすこと、その様子を羨望の眼差しで見る級友どもに優越感を抱いていたのだ。
しかし、そのプラトニックでいながら決して健全ではない関係は、やはり長くは続かなかった。彼が本性を見せたあの日。僕が酒に酔っていい気分でいたのを、目を覚ませばあたり一面血だらけだった。彼自身の血であった。彼の、その姿は鬼に見えた。あの目、あの血走った目。僕は彼に殺される幻影を見た。彼の長い指が僕の首にまとわりついて、親指に力が込められると、僕の首は簡単に折れた。そして彼は僕の肢体――この場合、もう死体なのかもしれない――を抱いて泣くのだった。そして、ひとしきり泣いたあと、あの鼠にしたように僕を切り刻んで恍惚に耽る……僕にはこれはとても幻影とは思えなかった。未来の構図であり、ある種の不思議な、予知であるように思えた。
彼はきっと取り繕うとしたのだろう。笑顔を見せたが、それすらも恐ろしく思えて僕は彼の部屋を転がり出た。その日は窓にすら鍵をしっかりかけて、布団を被り、日が差すまでガタガタふるえて過ごした。
それから、僕はすっかり彼とは縁を切った。彼のほうも、僕に悪いと思ったのか近寄ろうとしたなかったので、自然と疎遠になり、彼とは完全に他人となった――はずだった。
長いこと独り身だった僕に恋人が出来たのは、社会に出てからだった。新聞社に勤めはじめた僕に、とてもよくしてくれた違う課の同期だった。僕はわりとのんびりとした文化欄担当の記者だったのだけれど、彼女は新世代の女性というやつで、社会の担当記者で、何か事件があると聞くとほうぼうに走り回っていた。彼女は貧しい家の出を恥じていたが、そんな事は関係なく僕は彼女を愛していた。じきに結婚するつもりだった。そんな折、僕の家の郵便受けに入っていたのがこの手紙だった。
『前略……お久しぶり、宮野くん。僕を覚えているかい。美智雄だ。君の活躍は風の便りに聞いている。最近の僕はといえば…………(中略。まわりくどく現在ある大学の研究室で働いている旨が書いてあった)……君に逢いたい。君はやはり、僕の至上の恋人なのだ』
僕のこの手紙を受け取ったときの戦慄を、想像していただけるだろうか! 僕は得体の知れぬ気味の悪さに、ぬめぬめとした触手を背中に這わされているような心地さえした。
――美智雄はまったく鬼であった。彼は、その機知と財力とで、僕にあらゆる恐怖を与えたのだから!
「どうしたの?」
彼女が話しかける声すら、あの美智雄の声に聞こえた。どうしたの、宮野くん――彼はよく、僕を気遣ってこう言っていた。相変わらず彼からの手紙は途絶えることがない。『元気にしているようだね。僕は、君が動いている様子を見るだけで、ずいぶん嬉しいんだ。単純な男だと笑うかい』『君の幸せを祈る。しかし君にあの女性はふさわしくないだろう』『近いうちに会いに行くよ――』近いうちに――この手紙を貰って以来、宮野は後ろにずっと何かがつけているような気がしてならないのだった。
「きみ、僕の後ろに何か見えないかい」
「何か……? 見えないわよ」
「そうかい」
「あなた、疲れてるのね。なんだか顔色が悪いわよ」
「そうね――疲れているのかもしれないね」
深いため息をつく。眠れない日々が続く。美智雄は姿を見せることすらなく、それが却って不気味なのだった。
恋人が交通事故にあったと聞いたのはその翌日だった。
「案外わたしって間抜けね。大したことないから良かったけれど」
報せを聞いて、慌てて病院に駆けつけると、彼女は案外元気そうにからから笑っていたので安心した。命に別状はないが、脚を折っているのでしばらくは歩けもしないそうだ。
「よかった。君は働きすぎだから仏様が休暇を下さったに違いないさ」
「そう思わなきゃやってられないわねえ。いい機会だからゆっくり休むとするわ」
彼女は見舞いのバナナを剥き始めた。
「ところで、ひいた相手はどんな奴だったんだい。ずいぶん乱暴な運転だったと聞いたけれど……」
「それがわからないのよね……当て逃げよ。まったく不愉快だわ。もう」
「どんな人か見えなかったの?」
「サングラスとマスクをしていてよく見えなかったけれど――たぶん、あれ、若い男の人よ。色素の薄い髪をした――」
僕の脳裏にある人物が浮かんだ。色素の薄い髪――美智雄だ! 美智雄が彼女を殺そうとしたのだ!
「君、本当に気をつけるんだよ。退院しても、油断しちゃあいけないよ……」
彼女は怪訝な顔で僕を見て、それから、そんなに心配しなくても大丈夫よ。と笑った。
病院からの帰途、そのこと、美智雄のこと、ばかりを考えていた。早足で駅から近道の公園を通り抜けようとする。「宮野くん」後ろから声がついてくる。「今日はずいぶん遅いんだね」「どこへ行っていたの?……」彼が姿を現す。あの頃と変わらない、背の高い、細面の美青年――「どこへ行っていたの?」もう一度彼が聞く。その姿は風に消えてしまった。また後ろで声がする――
僕は何がなんだかわからなくなってしまって、それでも叫びだすほどおかしくはなれなくて、ただ闇雲に走って、家の戸を開けるとふるえる手で鍵を閉めた。名前を呼ぶ。あの、悪魔のような鬼のような彼の。
「美智雄さん……神戸美智雄!」
声に呼応するように、窓がガタガタと揺れる。その音に目を向け――目を瞠る。確かに鍵を閉めたはずだ。それでも目の前にいる人は――
僕は必死に走って、目の前が暗くなりそうなほどだというのに、彼の顔の白いこと。息もひとつだって乱れていない。薄い唇には笑みすら浮かべている。
「美智雄さん」
「帰ってきたよ。君のところに」
「あなたは――」
「置いていってすまなかったね」
「置いて――? それは……」
僕は自分から彼の元を去ったのだ。決して置いていかれてなどいない。
「僕はかわいいものすべての命を絶ってきた。それは僕が鬼の申し子であるためだ。それは君にもわかっていただけると思う」
僕は彼の、鬼気迫る様子を思い出して頷く。
「僕は唐突に思い出した。僕は君をとてもかわいく思っていたのだと。そして僕はまだ君を切り刻んではいないと」
「美智雄さん……」
長く長く息を吐く。彼の乱れのない様子、大学の頃から少しも変わっていないすっきりとした姿を見て、僕は何もかもを思い出した。
彼はもうこの世の住人ではない。「いちばんかわいい」自分の喉を切って、死んだのだ。彼は自分自身に恋焦がれていたのだ。僕が見た彼の最後の姿は、敦盛様のようにお化粧をして、綺麗な着物を纏い、喉を掻き切った凄惨なものだった。




