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  作者: 吉田淑子
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第一話

 神戸美智雄の心には、鬼が棲んでいる。自覚はあった。


 小さい頃から動物や蟲を切り刻んで遊ぶのが好きだった。子どもの時分は程度の差こそあれ、そういう遊びを経験するものだけれど、美智雄のそれは倫理や道徳というものを飛び越えていた。蛙とトカゲの首を切り離して、交換してくっつけたりした。凶器など持たない幼い美智雄の唯一の凶器は自らの爪だった。爪を常に長く伸ばして、器用に解体作業を行った。

 青白くひ弱な美智雄の、その妖怪じみた行動を咎める者はいなかった。美智雄は村で唯一の資産家の一人息子で、彼の悪い噂をすればたちまちはじき者にされるためだ。そのため美智雄は、村の大人はもちろん、子どもからもなんとなく距離を置かれていた。彼こそがつまはじき者だった。

 けれど美智雄は、その奇行を除けば頭のいい少年だったし、資産家の息子らしく青白い肌に上品な仕立ての服が似合う美しい子どもだった。

「僕は化学者になりたい。そして不死の生き物を作るんだ」

 そう囁くのはいつも切り離した首だった。未だ眼が輝いているもの、舌を出しきったもの、生々しい血がこびりついているもの、様々の首に話しかけた。

 美智雄の話を聞くのは、この種々の生首だけだった。切り刻んだ愛らしい者どもが口をきいたらどんなにかかわいいことだろう!少年の思考は残酷ながら純粋だった。

美智雄のその癖は幼少のほんの僅かな時期だけで、あとはごく普通の子どもに戻っていった。かつての奇行を覚えているのは自分だけになった。


 父にはろくに会ったことがない。母親は何かと美智雄の成すことが気に食わないとなじった。

 母親の愛情はねじくれていた。そうやって美智雄を突き放したくせに、美智雄が小学校を卒業して、少し男らしい体つきになると、突然年増女のいやらしい目線をくれるようになった。思春期らしい潔癖さでそれを気持ち悪いものと感じ、知らずに母を避けるようになったが、母は蛇のような執拗さと狡猾さを持っていた。

「美智雄ちゃん、背中を流しましょうねぇ」

 こう言って風呂場に入られたときは、羞恥から頭がぐらぐらとした。そして母は美智雄の、細く骨ばった、しかし若々しい筋肉の張り詰めている裸体を見てため息をついた。いやらしく頬を染めた。

 母、今となっては単なる女だが、その女は「旦那様」と呟いて、美智雄の青い果実のような肉体を思う様舐め尽くした。女の枯れた指先はざらついて、異様な興奮に熱くなっていた。これまでにない羞恥、これまでにない恥辱だった。僕は汚された!メスの獣に柔躙され征服され、まるで人形のように転がされた!

美智雄はかつての友人を思い出す。生首だけのそれ。自分もまた、母にそのようにされたのだ。首を切られたのだ。懐かしい思い出の獣どもと一緒に、自分の生首が転がっているのを見た。

「旦那様、わたしは悪い女です。ねぇ、打って。その逞しい腕で、馬にするようにわたしを打って!」

 女の絶叫にいよいよ怖ろしくなり、固まっていた美智雄は力を振り絞って女を突き飛ばし、自分の部屋へと逃げた。あとは机に突っ伏してガタガタふるえていた。その日、生まれて初めて射精というものを体験したけれど、美智雄にはこれの意味がわからなかった。ただただ、闇雲におそろしかった。


 心に棲む鬼は再びその姿を現した。美智雄は実験と称して、幼い頃より残酷に動物を切り刻むようになった。幼い頃より分別がついていたから、それらが他人に悟られることはなかった。




 やがて、成績の優秀だった美智雄は、高等学校に進学した。全寮制であるこの学校では、ようやくあの女のおぞましい支配から逃れることができた。そこでは友人と普通に付き合い、やがて卒業してW大学に進学すると、美智雄はひとりで貧しい下宿生活を始めるのだった。意地でも家に帰りたくなかった。

そこの下宿で知り合った人物に、宮野康平というひとつ年下の少年がいた。岡山の出身で、少々訛りがあることを気にしているなかなかの美少年で、美智雄はこれをことさらかわいがっていた。彼とは、他人である気がしなかった。よく、知らぬ人から兄弟だと間違えられた。すっかり仲良くなり、銭湯に一緒に通ったり、勉強を教えたり、互いの部屋を行き来したりする仲になっていた。

ある日の銭湯帰り。木枯らしの吹く寒い夜だった。静謐な夜の温度。白い息が現れては消えていった。

「宮野くんは頭がいいらしいね。W大学なんかに進学しないで、帝大にいけばよかったのに」

「そんなことありません。僕には、帝大はおえんです」

「おえん?」

「ああ、僕の国の訛りで……いけない、とかそういうことです。僕のような田舎もんに、帝大は行けません」

「それを言うなら、僕もおえんな」

「真似をしないでください。……美智雄さんは、都会の人じゃないですか」

「僕も、下総の村の出身さ。幸い訛りが強い地方ではなかったがね」

「関東だったら、都会です」

「そうかい」

 美智雄は、自分の故郷の緑豊かな情景を思い出して微笑んだ。かわうそが顔を洗う川。ひたすら続く山道。あそこが都会だとしたら、大抵のところは都会だろう。

 東京の冬は、茨城の寒さと何も変わらなかった。密集した建物で細切れになった風のせいでよけいに寒く感じるくらいだった。かじかんだ手に息を吹きかければ吹きかけるほど寒さはいよいよ増した。隣の宮野の頬は真っ赤になっていた。

「寒いですね。下宿で酒でも飲みましょう。僕、隠してあるんです。とっておきの虎の子」

「それは素敵だ――どっちの部屋で飲む?」

「僕の部屋、散らかってます」

「そう、じゃあ僕の部屋においで」

 そう言うと宮野は黙って頷いた。美智雄はそれを見て目を細めた。自分は、この少年のためにやさしくなれる気がする。鬼は、この子の傍にいれば現れない。


 すっかり裸になりかけている銀杏から、葉が一枚二枚と落ちていった。それは昨日から降り続いた雨で出来た水溜りに波紋を起こした。


「美智雄さん、僕です。康平です。お酒持ってきました」

「そんなに大きな声で言わなくても大丈夫だよ」

 彼の生真面目さに苦笑して戸を開くと、宮野の生真面目な瞳と目が合った。

「いらっしゃい。僕の部屋もそんなに片付いてはいないけれど」

「そんなことありません。美智雄さんの部屋はいつも片付いてるなあって、他の連中も言ってます」

「そうだね、僕は少し女みたいに潔癖なところがあるから」

 大事そうに一升瓶を抱えた宮野を中に入れる。格好などおかまいなしに、首に無造作に手ぬぐいを巻いている。

「寒くはない? 今ストーブ入れたからね」

「石油ですか」

「そう」

「すごいなあ。美智雄さんはなんでも持ってる。僕は未だに火鉢だってのに――」

「うん、なに、田舎から勝手に送ってくるのさ」

 当時のストーブはまだまだ贅沢品、学生の美智雄が使うには不相応だったが、勝手に送られてくるものだから勝手に使っていた。

「さ、ストーブで暖まったら、次は君の自慢の虎の子で暖まるとしよう」

「僕の田舎も、ストーブくらい送ってくれるといいんですけど」

「なに、酒を送ってくるなんて気が利いてるじゃないか。コップを持ちなさい、お酌してあげよう。それとも熱燗にする?」

「熱燗は、すすんでしまっていけないので……」

「では冷やのまま頂こう」

 宮野のコップになみなみと注いでやる。美智雄のコップにも宮野が注いで、酒盛りが始まった。

「見たまえ、宮野くん。いい月だ。春でないのが残念だが」

「月下独酌――李白でしたっけ」

「そう、李白は酔っ払いだが、自分と、影と、月とで晩酌をした。なんてことを詩に書いて後世に残すんだから風流なもんだね」

 もうあまり話もしなかった。安い部屋は隙間風が吹いてヒュウヒュウ言っていたし、窓はガタガタ鳴っていたがそれもあまり気にならなかった。

 李白は、自分と月と影とで、三人の晩酌であると言った。今もきっと三人だろう。自分と、宮野と、月とで――いったいどちらが影だろうとは考えもしなかった。言うまでもなく自分であろうと美智雄は感じていた。そうでありたいと願っていた。宮野の後ろにそっといる、影でありたかった。

「美智雄さん、僕もう帰ります」

 一升瓶を、二人で半分も片付けただろうか。不意に宮野が声を上げた。彼の頬は来たときのように赤くなってしまっていた。

「酔っ払ってしまったの?」

「ええ、頭がふらふらする」

「泊まっていきなさい。一人は危ないから」

「でも」

「僕は構わないんだよ」

 宮野は頷いた。それは肯定だった。彼は酔って、壁にもたれて眠り始めた。

「宮野くん、風邪をひくから……少しだけがまんしなさい。すぐに布団を敷くからね」

 ふと、彼の首筋が目に入った。ほんの少し色づいたそれ。

美智雄は、ここまでやましい心を彼に感じたことは微塵もない。しかし、彼を介抱するうち、彼の首筋に噛み付きたくて仕方がなくなった。


思い出す。昔の友人ども。かわいいものを見つけると、すぐに首を切っていたあの頃。あの頃の美智雄は鬼だった。黙っているものが美しかった。


 薄い肩を抱くと、呼吸が伝わる。何かわからない言葉を呟いている。美智雄は、このかわいい生き物が自分の傍にずっといれば、と思った。首を切って、その切断面を愛撫してやりたかった。


――鬼がまた、美智雄の心に入り込んだ。


 宮野は、何かが割れる音で目を覚ました。

「美智雄さん……」

「宮野くん、すまないね、コップを割ってしまった」

 そこには、手を血だらけにしている美智雄が立っていた。すっかり酔いも覚めて、宮野は彼に近寄った。

「すまないが、やっぱり帰ってくれないか……」

「美智雄さん、何を……」

「帰ってくれないか!」

 普段、声を荒げたことのないような美智雄の、尋常でない様子に唖然として、宮野は何も出来なかった。美智雄はふらふらと血だらけの腕のまま、机に突っ伏した。

「美智雄さん」

「いいから、早く帰ってくれ。そして、忘れるんだ。君は今日、何も見ていない。いいね――」

 宮野は後ろ髪を引かれながら、自分の部屋へと戻っていった。あのまま部屋にいれば殺される――なぜか本能的にそう察した。


 美智雄は一人残された部屋で、血の匂いにまみれて、久々に恍惚を味わっていた。あの頃の、残酷な、けれどどこか甘やかな記憶。背徳感に襲われながら射精をした。


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